18
「誰からのどんな評価があったら『俺に相応しい』って思えるんだよ、お前は」
玲王くんにそう言われたとき、めくらの視界に太刀筋が入れられて、そこから光がぱっと弾けた気がした。その光は黒く澱んだ体内の空気を端っこの方から浄化していく。濁った私を少しずつ正常に戻していく。
「俺が『がいい』って思ってるだけじゃ駄目なのかよ?」
無意識のうちに塞いでいた目をこじ開けられるような感覚だった。初めて外の世界に触れたような衝撃でもって、私は目を見開いて玲王くんのことを見つめていた。
――誰からのどんな評価があったら、私は私を許してあげられるのか。玲王くんの恋人として「相応しい」と認めてあげられるのか。どこかに落ちているそれを探そうと目を凝らして、息が止まる。
だってそんな答え、私のどこを探してもなかったのだ。
私は多分、自分が何を持っていても、どれだけ優れていたとしても、「玲王くんの隣に立つには足りない」って思ったはずだった。自分の中に何か欠けたものを見つけては「周りからこう思われてしまうに決まってる」って決めつけて、小さくなって自分の存在を透明にしようとするだけだった。袋小路を作り上げて、一人で仮想的と戦っていたのは私自身だ。玲王くんはそれを、とっくに見抜いていた。
どうして私はそんな簡単なことにも気がつかなかったんだろう。
「もういいじゃん」
何が、とは、玲王くんは言わない。
差し出された、私のものよりもずっと大きな手の平。窓から零れた光が玲王くんの輪郭を優しく縁取って、目に染みるくらいきれいだった。
去年の夏のことを思い出した。タマの病院の帰り道。水溜まりの残る歩道で、玲王くんが私の腕を掴んだときのこと。私を好きだと言ってくれたときのあの衝撃を、あの日の湿った地面の匂いを、空っぽの籠を、玲王くんの睫毛に落ちた光の粒を、ルークの幻影を、私は今もありありと思い出せる。――でも玲王くんは今、あの時みたいには笑っていなかった。切実めいた、どこか逼迫した感情を内包した目で、私を見ていた。
それは多分、覚悟とか、決意とか、そういう類のものだったのだろう。
「もうお前は俺の言う通りにしてろ」
だけどその言葉の意味が、この時の私には理解できなかったのだ。
玲王くんはいつまでも動けずにいる私に痺れを切らしたみたいに、自分から私の手を取った。「行くぞ、」って、有無を言わせず私を立ち上がらせると、振り向くこともせずにそのまま下へと続く階段をほとんど走るように下りていく。「えっ」って、びっくりして、思わず繋いだ手に力を込めてしまった。
「うわ、わ、わっ?」
一段下りる度、半開きになった口から音とも短い悲鳴ともつかない声が零れていく。だけど玲王くんは私を振り向かない。「れ、玲王くん!」呼びかけても、彼は立ち止まらない。どこに向かおうとしているのかも、教えてくれない。ただ前だけを見て、私をどこかへ連れていく。踊り場を抜けて、階段下に張られた規制線のたるんだ部分を飛び越えて、私の手を決して放さないまま人の波をかきわけて、ぐんぐん進んでいく。人の多い方へ、向かって行く。
私は、狼狽えていた。思考の整理もままならないまま、玲王くんにこうして手を引かれている状況を全く理解できなかった。玲王くん。玲王くん、手、放して。繋いで貰ってなくても、玲王くんにちゃんとついていくから。言いたいのに口にできないのは、そうしてしまえば周囲の人がこちらを注視することになる可能性があることを察していたからだ。でも、結局そんな心配は無駄だった。何の意味もなかったのだ。玲王くんはそこにいるだけで、人の目を引くから。
「あ! 玲王だ!」
「見て見て玲王くんいるよ」
「わ、あれクラスの衣装かな? 似合う~」
「てかあの子誰? 同じクラスの子?」
「え、なんか手繋いでる」
私のことを言っているんだろう言葉に顔を上げられなくて、やっぱり手を放してほしいのに、だけど玲王くんは許してくれない。私の手をぎゅっと握ったまま、彼にしては珍しく向けられた声を全て無視して、大股で先に進んでいく。比較的人の少なかった芸術棟を抜けて、教室棟の方へ。この日のために作られたいくつものアーチをくぐって。呼び込みの生徒の持つ看板を避けながら。
ざわめきは、当然のようにどんどん濃くなっていった。さっき走って逃げた道を逆戻りしているんだって、それで気がついた。六月の白んだ光の中に溶けきらない、たくさんの声がそこここから滲み出るみたいだった。
「ねえ、やばいやばい、玲王くんいる!」
「待って後ろの子なに?」
「え!? なんで!? 誰!?」
「嘘、どういうこと?」
「でもあれ幼馴染みの子じゃなかったっけ?」
「そうそう、なんだっけ? なんとかちゃん」
それらの全部が、幻聴なわけがない。どんな顔をしたらいいか分からなくなる。身体から少しずつ血の気が引いていく気がするのに、頭だけは熱を持ったみたいにあつい。玲王くんが何を考えているのかちっとも分からなくて、助けを求めるみたいに彼の背中を見た。
「れ、玲王くん、やっぱり手、はなして……! 見られちゃってるから……!」
「ヤダ。つか、もー手遅れだろ」
「手遅れっ……!?」
「そもそもは昔っから、周りの目ぇ気にしすぎ」
「えっ」
「卑屈すぎ。自分の価値を分かってなさ過ぎ。謙遜って言えば聞こえは良いけど、お前の場合全部行き過ぎ」
「え、ええ……!!」
「誰に何言われても思われても関係ねぇって、胸張ってろよ」
いつの間にか、玲王くんの前には道が開けていた。彼に道を譲るため、というよりは、周りの人がこの状況を窺うために私たちから距離を取ったに過ぎなかったんだと思う。そのすぐ先に、うちの教室があった。呼び込みの係だったんだろう、うちのクラスの男子が「この後三十分からラストの公演ありまーす!」って叫んでいるのが聞こえた。ああ、そうだ、私はあれに出なくちゃいけないんだ。開演まで、あと十分。
白宝祭のために飾り付けられた壁。天井からはバルーンや花が垂れ下がっていた。廊下の隅に寄せられた、壁から落ちてしまったらしい小さな風車。もう見慣れた三階からの景色。窓の向こうに遠く見えるサッカーコートのフェンス。その中で、どうして玲王くんだけが燦然と輝いているんだろう。
玲王くんは、屋上へと続くあの階段の突き当たりで私の手を取ってから、初めて私を振り向いた。そして、「自信持てよ」って、明朗とした声で言ったのだ。その声は、決してざわめきに飲み込まれなかった。真っ直ぐに私に届いた。私の好きな、絶対的な自信に満ちた玲王くんの声。
「数学が苦手でも、特別な才能が一個もなくても、なんにでもひたむきに頑張るが好きだから――だから俺はお前を選んだんだ」
だからもういいだろ、って、微かに目を細めて。
人目も憚らずに口にされたそれに、呼吸をした喉が、ひ、と音を立てた。頭を殴られたみたいな衝撃があった。
「でもさ」いつかの、小さいときの言葉をこんな時に思いだす。小学生だった。ルークはまだ私たちの隣にいて、けれど私が私と玲王くんとの間にある色んな差異に気がつき始めた頃だった。
私と違って、何でもできた玲王くん。勉強も運動も、玲王くんの右に出る人なんかいなかった。忘れていた。忘れないでいようと思ったことだけを覚えていた。「でも、は俺と違ってずっと一生懸命じゃん。そういうひたむきなとこ、俺は好きだけど」昔、玲王くんが私に言ってくれた言葉。玲王くんはボールも上手に投げられるし、本を読むのも速いし、なんでもできてすごいね、って言った私に向けられた、裏表のない、真っ直ぐなそれを、私は今、こんなときに思い出していた。玲王くんの口にした「ひたむき」の意味が、そのときはよくわからなかったことまで。
それが泣けるほど、嬉しかったのだ。
玲王くんの言葉を拾った人たちが、はっきりとざわめく。呼び込みをしていたクラスの男子と目が合ったけれど、玲王くんが手を引くから、驚いた様子でいる彼の横を素通りすることしかできなかった。
直後、玲王くんは教室の扉を開ける。私たちの作った舞台が、並べた椅子が、酷く懐かしいもののように見える。廊下のどよめきは、玲王くんの撒いた火種は、まだそこで留まっていた。教室中の視線を一身に浴びて、玲王くんはその背筋を伸ばした。私はそのとき、玲王くんの「もういいだろ」の意味を、まだ、きちんと理解していなかった。玲王くんがこの扉の向こうで何をするつもりなのかを、私は知らなかったのだ。
玲王くんは私の手を、決して放さなかった。
多分、それが全てのこたえだった。