17
人気のない屋上へと続く階段の突き当たりに座りこんだまま、は泣いていた。
ステンドグラス風の採光窓から差し込む光がの膝あたりをぬるく照らしていた。息を吸い込む瞬間、リノリウムの床についた、何かが強く擦れてできたらしい黒い傷痕を撫でるように、その爪先が引き寄せられた。文化祭特有の喧噪は遠く、けれど普段とは違うその空気は俺達の周囲を埋めるように漂っていた。
の目からは止めどない涙が後から後から零れるもんだから、ハンカチを貸してやればよかったのに、見ていられなくて、つい頬を手の甲で拭ってしまう。その温度や感触には、覚えがあった。が泣くと、俺はどうも、手の方を先に出してしまうらしいのだ。――多分この癖は一生治らない。
頬に触れた手の感触にびくりと身体を震わせたは、濡れた目で俺のことをじっと見つめていた。瞼の淵に乗った粒が光に反射して、その瞳の奥は不安そうに揺らめいていた。安心させたくてその目を見返したら、は一度鼻を啜って、それからぎゅうと強く目を閉じる。「ご、ごめんね、どうにか、なきやみ、ます」ってしゃくりあげながら言うけど、それで本当に泣きやめんのかは定かじゃない。
「いーよ別に、無理しなくて」
そう言ったものの、俺の言葉に、は緩慢な仕草で首を振ってみせるだけだった。
正直、がなんで泣いているのかはわからない。林檎が壊れたのがショックだったから。台詞を飛ばしたのが申し訳なかったから。――それらを瑣末な問題とまでは言い切れないのは確かだろうが、だけどその根底にの感情を揺さぶる何かがあるのは間違いなかった。それをはずっと抱えて、俺にも皆瀬にも打ち明けずにいたのだった。
話してくれりゃあいいのに。
不意にが俺の手から逃げるように身を捩ったのを見て、膝に置かれていたの手をほとんど無意識に取った。傷一つ無いなめらかな手は瞬間びくりと震えたけれど、振り払うことは、はしなかった。指の間に自分の指を滑り込ませて、何度か確かめるように擦り合わせる。動揺が勝ったのか、の目から新しい涙が生まれることは、今、ない。
「……言えよ、なんでも」
返事を促すように、繋いだ手を軽く持ち上げてから絡めた指に力を込めた。薄い輪郭の影が、俺達の足の先にぼやけながら伸びていた。は俺のことを、目を丸くしながら見つめていた。射貫くというにはずっと弱々しい力だった。
「なんかあるんだろ? 聞くから、ちゃんと」
俺の言葉に、は何度か口を開いたり閉じたりする。言葉を探して、選んで、どこかにある正解を探し当てでもするかのような慎重さで。「…………なんでも?」やがて僅かな力が繋いだ手に込められる。意を決したような目では俺を見つめているのに、でもいざ続きを話そうとすると、その目がまた涙で滲むのだ。なんなんだよ、さっきから。
「あー、もう、だから泣くなっつの」
「ご、ごめんなさい。わー、だめだ、とまんない……。わ、私、だから教室から逃げたの、今玲王くんと話したら、多分泣いちゃうから、って思って」
ぐちゃぐちゃの気持ちを、玲王くんに話すつもりは、あったの。でも公演、もう一回あるから、だから、白宝祭が終わったらにしようって思ってて。
そういうことをは口にする。空いている方の手で涙を拭いながら、余裕なんか微塵もない様子で。折角の衣装の袖が、水分を吸って変色していた。点々と濃くなった染みに視線を落としながら「じゃあ、追いかけない方が良かったか?」って尋ねる俺に、は小さく首を振った。
「走ってるときは追いかけてこないで、って思ったけど、今は、いてほしい……。……めんどくさいね、私」
「あー……まあでも、人間そんなもんじゃね?」
「そうかなぁ……」
「そーだよ。今更めんどくさいくらいでイヤになんねえよ。隠し事されたり一人で抱え込まれたり――今みたいにお前に悩みを打ち明けてもらえない方が、俺はイヤ」
「…………そう、かぁ…………」
立てていた膝を、はそっと伸ばした。靴の爪先が天井を向いて、そこからの光で煌めいている。長いワンピースの裾からは細い足と、フリルのついた靴下が覗いていた。下の階からのざわめきは確かな形を保ってはここに届かなくて、けれど時折、階段の近くを駆け抜ける誰かの声がした。
繋いだ手に、は力を入れたり、緩めたりする。そうしているうち、落ち着いたのだろうか。「じゃあ、めんどくさいついでに、なんですけど」って、なるべく何てこと無いような声色であるよう努めて、は言う。
「――私、実は玲王くんが、すごく好きで」
真剣な顔で、そこに冗談なんか一滴も含まれていないと証明するような眼差しで、は俺ではなく、自分の靴の先を見ていた。言葉とは裏腹に、どこか憂いを帯びた目だった。濡れた睫毛が重たげに瞬いていた。爪先が重力に従うように、微かに動いた。一度長く息を吐いて、それからは、ぽつりぽつりと語り出す。
を苦しめる全てから、俺はを解放してやりたかった。
私は、玲王くんが思っているよりも玲王くんのことが好きだ。
年季の入った重たい感情は、自分に自信がない故に時折黒く変色する。皆にきゃあきゃあ言われる玲王くん。追いかけられる玲王くん。――あわよくば玲王くんとお付き合いしたい、なんていう望みを持たない無欲な人が、一体あの中にどれくらいいるんだろう。そもそも一人としてそんな奇特な人はいないんじゃないか。皆が皆、玲王くんの「特別」になりがたっている。私はうっすら、いつもどこかでそう思っている。
それに優越感を持てる人間だったら、きっとこんな風には苦しまなかったはずだった。私は自分が世間の、自分の「理想」には程遠いと分かっていたから、現実に打ちのめされた。勉強を頑張って、甘い物も食べすぎないよう注意して、玲王くんとの会話でつまらない思いをさせないようにこっそり経済とか株の本を借りてみて(何が書いてあるのか全然わからなかった)、サッカーのことも勉強して。でもどんなに頑張っても、自分が本当に彼に相応しいのか分からない。足りないところばかりが目について、怖くなる。一年前、「勉強会とか、女の子と二人ではしないでほしい」って、それだけをお願いして、それで充分だったはずなのに、いつの間にか私の心はゆとりがなくなり、ぎゅうぎゅうに狭くなっている。
玲王くんが女の子に、そういう意味でもって見られるのが嫌だ。ばぁやさんの運転する車に乗せてってお願いされているところを見るのも嫌。例え駅まででも送ってあげるなんて、もっと嫌。誰かからの親愛の籠もった「玲王」を聞くのが、嫌。マネージャーなんて探さないで。皆に優しくしないで。
でもそういうのに雁字搦めになって嫉妬で汚くなっちゃう自分が、本当は一番嫌なのだ。
寛容になれない自分は、「理想」から益々遠のいていく。劇を台無しにしかけて皆に迷惑をかけただけじゃなくて、今こうして教室を飛び出してきてしまったことも、後でみんなに謝らなくちゃいけない。こういうのだって、全然玲王くんの恋人として、相応しくない。
こんな風に最悪の悪循環に入り込んで、出口を見つけられずにいる。今だって、そう。私はこの問題の解決方法が、薄闇の広がる袋小路からの脱出方法が、一向に分からない。
玲王くんは私の隣で、何度も言葉に詰まる私の話を、辛抱強く聞いている。真剣な顔で、どこまでも。どこまでも。
の話はあっちにいったりこっちにいったり、とっ散らかっていて、正直要領を得なかった。
でも、まあ言いたいことは要するに、前からがよく言っているあれだ。「俺に相応しくなりたい」ってやつ。何度か決意表明のように口にするのを聞いてはいたけれど、それが呪い同然ににくっついて回っているとまでは思っていなかった。
突っ込みたいところも、そりゃあったよ。昨日の帰りの「送ってほしい」云々のアレ、聞いてたのかよ。とか。お前は知らないだろうけど、あの時お前が「自転車だけど爆速で漕いで帰る」なんて言ってるのを聞いたから心配になって、ばぁやに頼んで慌てて追いかけたんだぜ。とか。本当に「爆速」だったお前は、車が追い付いたときには家の玄関扉を開けていたところだったけれど。勿論クラスの女子たちは送っちゃいない。お前のことがなかったとしても、送らない。あれがお前を傷つけていたと知っていたら、ちゃんと弁明したのに。
俺の内心なんか知る由もなく、話をしながら、はやっぱり度々泣いた。鼻を啜って、袖の染みを増やして、頬に髪を張り付かせて(一回髪を食いかけてたから、払ってやった)。でも、そんな風に思い詰めてまでなりたい「俺に相応しい人間」って、なんなんだよ、と思う。俺には漠然としすぎているそれが、良く分からないのだ。
テストや模試の成績で俺と並んだら「相応しい」か? 凪のように世界に通用する何らかの才能があったら「相応しい」のか? 湊人の娘として陶芸の才能に恵まれていたら、「相応しい」って言えるか? 父さんが認めたら?
――そんなわけがない。
苛立ちに似た何かは俺の中に確かに横たわっていた。それだけは、間違いなかった。
「誰からのどんな評価があったら『俺に相応しい』って思えるんだよ、お前は」
そう尋ねたら、は不思議そうな顔で俺を見ていた。それが妙に、俺の神経をついたのだ。「相応しいとか相応しくないとか、誰が決めるんだ?」思ったよりも低い声が、口から漏れる。
「……俺が『がいい』って思ってるだけじゃ駄目なのかよ?」
ずっと繋いでいたの手を放して、立ち上がる。は俺の影に飲み込まれたまま目を見開くだけだった。言葉がその口の端から零れることは、なかった。
なあ、。心の中で思う。俺はお前の葛藤を殺して、お前を自由にしてやりたかった。
そのための最善が何なのかを、俺は知っていた。「もういいじゃん」天井に反響するこの声を、お前はいつも自信に満ちているって、思うんだろう。
はぐちゃぐちゃ余計なことを考える。苦手な数学と一緒だ。同じ所をぐるぐる彷徨って、答えが出ないって唸っている。のいる迷路が実は紙に書かれたものでしかないことを、だけが気付かない。顔を上げれば、そこに唯一正しい、何よりも簡単な答えがあるっていうのに。
「もうお前は俺の言う通りにしてろ」
未だ座り込んだままのに手の平を差し出す。「行くぞ、」そう俺が口にしたときの茶色がかった眼球の丸さを、覚えている。いつまでも。