16
玲王くんは、スーパーマン。
私が困っているとどこからともなく現れて、手助けしてくれる。沼の底にいるときは引き摺り上げて、ぼろぼろになった私を見て、「何してんだよ」って眉尻を下げて笑って、泥のついた顔をぬぐってくれる。小さいときも、去年の夏も、玲王くんはいつもそう。
でも今は、来ないでほしかった。だって今の私の頭の中はぐちゃぐちゃだし、そうじゃなくても、とんでもない顔をしちゃってるでしょ? 折角綺麗にしていた髪は走ったせいでボサボサになっちゃったし、階段を駆け上がったせいで息もあがっている。玲王くんは顔色一つ変えること無く、ケロリとしているのに。
玲王くんを前に、屋上へと続く、開くことのない扉に背中を押し付けて、そのままずるずると腰を落とす。逃げられる場所は、だってもうどこにもなかったから。目の前に立つ玲王くんをすり抜けようとしたって、そんなの無謀なことだった。どうせすぐ追い付かれてしまうし、それ以前に玲王くんが私の通行を許してくれないのは目に見えていた。
どうして玲王くんは、私を追いかけてきたんだろう。
私の名前を呼んで、人波をかきわけて、玲王くんは私を追ってきた。今日は見逃してほしかった。玲王くんには私の、一番きれいなところだけを見ていてほしかった。そうじゃないと、釣り合いが取れなかった。何と?なんて、考えるまでもない。
玲王くんは私がもう逃げる気がないのをみとめたのか、私の隣じゃ無くて、真ん前にしゃがみこむ。ライブのときに着ていた制服じゃなくて喫茶店の衣装なのは、当番の途中だったのを抜けてきたからなんだろうか。……うちのクラスの騒ぎを耳にして? だとしたら、益々どうしたらいいか分からなくなる。玲王くんが私のためにしてくれるすべてのことが、今の私には痛くてたまらない。だけど同時にそれは、複雑に編み込まれた感情を解く柔らかい手でもあるのだ。それと一体、どうやって向き合えっていうんだろう。
こんなときなのに「玲王くんのクラスの、喫茶店の衣装、ちゃんと見たい」っていう欲と、「でも私は見られたくない」っていう自分勝手な感情がせめぎ合うのが情けなかった。でも、壮絶なつばぜり合いの末、結局後者が勝ってしまう。無言で膝に顔を押し付ける私は、玲王くんからしたらだいぶ態度の悪い女の子だっただろう。
「……おーい、さん?」
でも玲王くんは、ちょっと笑いながら私の名前を呼ぶ。
他の人に向けるのとは違う声色だった。柔らかくて、角がなくて、電話で聞くよりもちょっと掠れて低い。怒ってなんかいない。受け入れる声。でも、それでも顔が上げられない。両足を抱える手に力を込めて、おでこを膝を押し付けたら、頭のてっぺんあたりを指で弾かれた。痛くて、びっくりして、つい「いっ」って口にしてしまう。でも玲王くんは容赦がなかった。私が顔を上げる様子がないのを見ると、「おーい」って、何度も指で私の頭を弾くのだ。――玲王くんからしたら、私の方が強情で意地っ張りだったんだろうけど。
「なあ、顔見せろって」
「…………」
でも、やっぱり顔を上げたくなかった。今玲王くんの顔を正面から見たら、堪えられる気がしなかったのだ。
私は、何か特別な才能があるわけじゃない。
湊人の娘でも造形は不得手だし、作った林檎にニスを塗って壊れないようにするっていう考えすら抜けていたせいで劇を台無しにするところだった(その動揺で、「飛ばしようがない」はずのたった三つの台詞すらすっ飛んじゃうし)。お母さんみたいに料理上手じゃないし、バレンタインのチョコだって冷蔵庫に置いてくるようなうっかり屋で、ピアノだって、同年代のトップレベルの子たちには追いつけなくて辞めてしまった。文化祭での細やかな演奏ですらミスをするなんて、過去の、それでも真面目に練習していた私が知ったらどう思うだろう?
そういうのを並べてみただけで、私は自分が玲王くんに相応しいとは思えない。
人望があって優秀で、何をやらせても完璧にこなす玲王くんは、恋人だけが完璧じゃない。――そう思うと絶望しそうになる。私が完全無欠の玲王くんの唯一の汚点だって思われたら、「ウケる」って言われるような人間だったら、他の誰かがどうとかじゃなくて、私が私を許せない。それなのに一丁前に、他の子にこの場所を譲るなんて死んでも嫌って思っているのだ。玲王くんが「そういう意味」でもって女の子に声をかけられたりしているのを見ると、真っ黒い感情が私の中にどんどん沈殿していく。それらを溜め込んでいたガラスの瓶はいつの間にか間断なく並んでいて、もうどこにも行き場がない。
でもこんな私、玲王くんには見せられないじゃない。
物分かりのいい恋人を、ずっと演じていたくせに。
てこでも動かない私に、玲王くんの方が先に折れたらしい。小さくため息を吐かれて、どきっとした。もし今ここで玲王くんに「話したくないならいいよ、もう」って、行かれてしまったらどうしよう、って思いが、ちらりと頭を掠めたのだ。顔を見られたくない、話がしたくない、って思っていたくせに、ここで置いて行かれたら傷つくなんて、なんて自分勝手なんだろう。玲王くんが私の前で立ち上がった気配がある。「じゃあもういいわ」って、言われてしまう。「先戻ってるから、話したくなったら連絡して」って、そういう類のことをもう、いつ口にされてしまってもおかしくない――。
「お?」
玲王くんが珍しく、上擦った声をあげた。
顔を上げなくても、それがどうしてか分かる。だって私は、今玲王くんの服の裾を掴んでいるから。それも、がっちり。玲王くんに見せたくなかった顔を、それで、ようやくちょっとだけ上げる。なんとか絞り出した「行かないで」って声は、水分を含みすぎていて、泣き出す寸前みたいに響いてしまった。鼻を啜って、小さく咳払いをする。ちゃんと届いてほしくて、だからもう一回、口にした。
「いかないで、玲王くん」
玲王くんの無言は、どれくらい続いただろう。ほんの一瞬だったかもしれない。数秒あったのかもしれない。でも私たちの間に落ちていた沈黙を破ったのは、「ふは」っていう玲王くんの、いつもの笑い声だった。それで、今度こそしっかり顔を上げた。ステンドグラスからの採光を受けて、玲王くんの輪郭は白んで、ぼやけていた。そんなときではないはずなのに、私は、ああ、って思う。玲王くんはいつも、祝福されたみたいにきらきらしている、って。
制服のものと違って、脇腹あたりにチェックの布地が使われているベスト。ウィングカラーの襟元。アスコットタイもチェックで統一感があって、世界を恨みそうなくらいに落ち込んでいるのに、素直に、素敵だな、って思う。似合ってる、って。世界で一番かっこいい、私の恋人。
玲王くんのパンツの裾を掴んでいた手から無自覚に力が抜けた瞬間、玲王くんはそのまま身体の向きを変えて、私の隣に腰を下ろした。いつも拳一つ分か、それ以上を開けて隣に座る玲王くんの身体は、この時初めて、私のすぐ真横にくっつくみたいにあった。それだけで充分だったのに、玲王くんは立てた片足に腕を置いて、私の顔を覗き込むみたいに笑った。呆れたような、困ったような笑顔だった。
「――行かねえよ、馬鹿」
たった一言で、どうして全部報われたみたいに思うんだろう。
顔をこれ以上ぐちゃぐちゃにしたくないって思っていたのに、瞬間、ぼろりと涙が落ちた。顔のどこにも引っかからない涙だった。喧噪は遠く、立ち入り禁止のテープが張られた屋上へと続く階段の突き当たりには、他に人の気配はなかった。