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「でもびっくりしたよね。手繋いで教室に戻ってきたと思ったら、いきなり『俺の婚約者が迷惑かけました!』だもん」



 皆瀬さんの言葉に、飲んでいた紅茶が変なところに入りかけて、喉から「んぐ」って音が出た。
 味わう間もなくどうにか無理矢理飲み込んで、呼吸を整える。「あ、ごめん、めちゃくちゃタイミング悪かったね……」って謝ってくれる皆瀬さんに「だ、だいじょうぶ」って緩く首を振って、落ち着いたのを見計らってから小さく息を吐いた。
 白宝祭が終わって十日。ありとあらゆる熱が押し込められたあの一日は少しずつ過去のものになっていて、日々は元通りに私たちの前に広がって――いたらよかったんだけど、私の場合はそうもいかなかった。だって玲王くんが落とした爆弾は、とんでもなく大きなものだったから。
 白宝祭のあの日、玲王くんは私の手を掴んだまま教室に入ると、「最後の公演の前だってのにバタバタしてすみません」って前置いて、ぐるりと周囲を見回した。動揺して台詞が飛んでしまって劇を台無しにしかけたこと、その後の話し合いに参加しなかったこと、挙げ句ステッキの修復作業を手伝わず、教室を走って出て行ってしまったこと――皆に謝らなくちゃいけないと思っていたことはたくさんあったから、玲王くんが先に頭を下げたことに、私はすっかり動揺していた。混乱していたのだ。玲王くんが何をするつもりなのか、本当にはわかっていなかったから。
 私たちの手が繋がれていることに気がついた人たちが生んだざわめきも、ステッキの最終調整をしていた皆瀬さんたちの視線も、一足先に廊下で広がり始めていた混乱も、私の見開いた目も、全部押さえつけるように、そうして玲王くんは言った。私の手を引いて、身体を自分に一歩分寄せさせて。



「俺の婚約者が迷惑かけました!」



 って。
 水を打ったように静まった教室が、一瞬でどよめきに包まれたときの衝動を、私は多分、ずっと忘れない。



「……わ、私、あれ思い出すだけで心臓バクバクする。まさかあんな風に公表されるなんて、全然おもってなかった……」

「えっ、いいじゃん。私、やる~って思ったよ。かっこよかった、玲王。――あ、勿論そういう意味じゃなくてね」



 皆瀬さんはいつものようにそう続けて笑うと、ティーカップを口元に寄せた。
 駅の近くの、小さな喫茶店。程よく空調の効いた店内は以前訪れたときと変わらず微かなクラシックがかかっていて、あとは微かな話し声や咳払いが、少し離れたカウンター席から聞こえるだけだった。一月に皆瀬さんと来たときは蒸らしすぎてしまった紅茶も、今日は綺麗な琥珀色だ。桃のケーキの先端部分にフォークを入れて、そっと口に運ぶ。スポンジとクリームのじんわりした甘さが、泣けるほど優しい。
 皆瀬さんが言ったように、玲王くんは確かにかっこよかった。スマートだった。私とは父親同士が親友であること、だから私との婚約それ自体は小さいときから決まっていたこと、それでもお互いにきちんと好意があって、去年から恋人として正式に付き合っていること。婚約は今後の御影コーポレーションの経営にも関わることだから、在学中は関係を伏せたままでいようと話していたこと。けれど隠すことが難しくなってきたから、今ここで公表したのだと。
 矢継ぎ早になされる質問に、少しの嘘を織り交ぜて答える玲王くんは堂々としていた。「こいつ妙に打たれ弱いからこれからも迷惑かけるかもしれないけど、面倒みてやってください。俺の大事な人なんで」って眉尻を下げて笑えば、もう、誰も、何も言わなかった。私は劇が始まる直前まで女子に囲まれて根掘り葉掘り聞かれることになったし、廊下での玲王くんの発言が人を呼んで期せずして大入りになった最後の公演でも、酷く注目を浴びることになって、全然落ち着かなかったけれど(おかげで台詞はちょっとどもってしまったし、最後の演奏も一個だけミスをしてしまう羽目になった。でも演奏の方は、最後っていうのでみんなが歌ってくれたおかげで、私のミスは全然バレていなかったし、玲王くんも「よかったじゃん」って褒めてくれた)。
 白宝祭が終わってからも廊下を歩くだけで視線を浴びたり、教室を覗き込まれて「あの人あの人」って指を指されたりしているけれど、そこに分かりやすい悪意が込められていたり、逆に距離を置かれたり避けられたりとかは、今のところない。全てを知っていた皆瀬さんは当然だけど、「御曹司」にさほど興味を持っていなかった枝森ちゃんが今まで通りに接してくれているおかげもあったんだと思う。夏帆ちゃんやリサちゃんが休み時間に顔を出して、「水臭いじゃん!」って言いながらもそれまでと変わらずに話しかけてくれたのも、凪くんが「ねーさーん、レオに今日部活やすみまーすって言っといてー」って何の臆面も無く言ってくれるのも、多分、全部が「御影玲王の婚約者である私」を周囲に受け入れてもらうための、呼び水になってくれている。勿論、それまで廊下ですれ違っても目も合わせないようにしていた玲王くんが、あの日以来私に堂々と話しかけたりちょっかいを出してくれたりするようになっているっていうのも、そうだ。
 私はたくさんの人に助けられている。背中を支えてもらって生きている。



「――でもよかった。全部丸く収まって」



 ずっと思ってたから。婚約者だってバラしちゃった方が、絶対気が楽なのに、って。
 ケーキを口に運びながら、皆瀬さんは笑う。こうして私たちのことを気に懸けて一緒に笑ってくれる友達がいるのは、優しい奇跡みたいだって、心の底からそう思う。








 玲王くんから電話があったのは、皆瀬さんと別れて、一人帰路についているときだった。
 薄紫色に染まった空には三本の指でぎゅって引っ掻いたような雲が薄く伸びていた。強い光を放つ星がいくつかその奥に散らばっていて、飛行機の点滅が、東の方へと向かっていた。白っぽい半月は空にぽっかり浮かんでいて、笑ったときの口みたいだった。
 耳にスマホを押し当てて、「はい、です」と口にする。すれ違う人が連れていたチワワを振り返って見送りながら、玲王くんの「よ、おつかれ」を聞く。
 どうやらサッカー部の練習が終わって、凪くんを寮に送り届けたところだったらしい。私も丁度皆瀬さんと別れたところで、一人で歩いてるよ、と伝えたら、玲王くんは「じゃあ行くわ、駅前だろ? そのへんにいて」って言って、数分後、本当にばぁやさんの運転する車で迎えに来てくれた。駅前のロータリーに停まるリムジンはそれなりに目立って、玲王くんはだけど私を車には呼ばず、私のリュックを左の肩に引っかけて、「ん」って手を寄越す。ちょっと躊躇ってからその手に自分の手を重ねたら、玲王くんはぎゅって指を絡めてくれた。「一緒にいてぇし、歩いて送らせて」その言葉に、無性にドキドキしたのだ。付き合ってもう、一年になろうとしているのに。
 玲王くんはどぎまぎしている私に小さく笑って、指の先に力をこめる。それで、「皆瀬と行ってたの、そこの喫茶店だろ?」って、奥の通りに視線をやる。



「ケーキ、美味かったか?」

「う、うん、美味しかった! 本日はね、桃のショートケーキだったよ」

「あー本日のケーキな? いいじゃん。美味そう」

「美味しかったよー、スポンジもクリームもしっとりしてて、最後まで飽きないんだ。玲王くんも今度……って、今玲王くんは栄養士さんついてるもんね。ケーキはだめかぁ……」

「一個くらいいーよ別に。今度行こーぜ」

「えっ、やったあ! すごく良い雰囲気のお店なんだよ。絶対玲王くんも好きだと思う。楽しみだな~、いつ行く!?」

「あー、とりあえずテスト終わったらな」

「ッ…………!」

「いや、そんな分かりやすくしょげんなよ」



 駅前の歩道に、寄り添う私たちの影が薄く長く伸びている。
 人通りの多い駅前の通りをこんな風に手を繋いで歩くなんて、ちょっと前までの私だったら、きっと信じられなかっただろう。こんな風に、学校の近場のお店に行く約束をするのだって。本当のことを言うと、今でも不思議な気分だ。
 でも、玲王くんが私を「婚約者」と言ってくれたあの日から、私はびっくりするくらい息がしやすい。
 玲王くんに、そういう目的でもって声をかける人がゼロになったわけじゃない。相変わらず玲王くんは男女問わず人気があって、頼りにされている。勉強会がしたいって声をかけられているのも何度か見かけているくらい。サッカーが忙しいから無理って断る玲王くんは、けれどそういうとき、きちんと私の存在を意識してくれている。二人で、って言われたときは、「あのさ、俺が彼女いんの知ってんだろ?」って、言ってくれている。
 それだけで、私は充分幸せなのだ。
 玲王くんの髪を、初夏の風が優しく靡かせる。プラタナスの木々が作る影に、私たちのそれが重なり合う。街灯に灯りが灯る。学校帰りの、仕事終わりの人たちのざわめきが、私たちの周囲に広がっている。日常の営みの、なんという美しさ。
 無意識に、繋いだ手に力をこめた。人の目を気にせず隣を歩けることがこんなに幸せだって知ってたら、私は去年、「隠したい」なんて言わなかったのかな。だけど、この一年が無駄だったとは、死んでも思わない。あの日々はあの日々なりに、愛しいことだらけだった。どれも大切だった。だから今があるんだから。
 どんな形でも、どんな思いを抱えても、玲王くんの隣にいるときが、私の最大の幸福だ。
 私の視線に気がついた玲王くんが、「なんだよ」って、眉尻を下げて笑う。私の髪に、何かゴミでもついていたんだろうか。玲王くんの視線が、私の頭に向けられた。







 玲王くんが私の名前を呼ぶ。何気なく呼びかけられただけなのに、私はそれが、とてつもなく尊い響きをもっているように感じている。玲王くんの空いている方の手が、私の髪に伸ばされる。玲王くんの体温は、いつも優しく私の傍に落ちている。