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「ちょっと待ってて」



 その時教室に響いた声は、あんまりにも耳馴染みがありすぎた。その言葉の後、仕切り壁の向こうの教室の扉が開いて人の走る音が遠のいていく。どうやら「彼」は教室を出て行ったらしい。それでも気は、決して抜けなかったけれど。
 ばくばくと音を立てる胸を手で押さえながら、私は相変わらず我関せずの状態でゲームをしている凪くんに視線をやる。壁を背にした凪くんは重力に負けて最初に座っていたときよりもお尻の位置が壁から離れはじめていて、その分上げた両足を窮屈そうに折りたたんでいる。人の荷物に足がぶつからないようにはしていたけれど、くつろぎすぎじゃないだろうか、この人。



「凪くん、あの……なんか、玲王くん、いたよね、今」

「うぇー? そう? 気のせいじゃない?」

「いたよ! 声してたじゃん!」

「聞いてなーい」



 なんてマイペースな人なんだろう。私は今、玲王くんの存在にめちゃくちゃ動揺して焦っているのに。
 でも絶対気のせいなんかじゃなかった。この仕切り壁の向こうに、さっきまで玲王くんは確かにいた。いつからいたのかは分からない。私、沈んじゃってたし、考え事をしていたし。でも間違いないのだ。今だって、「やっぱ頼りになるよな~玲王」って言う、梶原くんの声が聞こえてくるもん。
 どうしよう。どうしよう。
 玲王くんはどうやら、壊れたステッキの修復を手伝ってくれているらしい。それはほんとうに助かる。ありがたいな、って思う。ステッキがなんとかなったらいいな、とも。でも、それが済んだら玲王くんはどうするだろう。私があの場にいないのを訝しがって、心配して、探してくれるんじゃないだろうか。表向きは凪くんを探すっていう名目で。皆瀬さんは凪くんの――私の居所を教えるだろう。そうしたらこんなボロボロの姿を、みっともないところを、玲王くんに見られてしまうことになる。今は止まったとは言え、さっきまで涙と鼻水でぐずぐずだったこの顔を。玲王くんに相応しくなれないって落ち込んで打ちひしがれて、一人で鬱鬱としていたところを。私の汚点を。
 そんなの、絶対に嫌。



「い、いまのうちに逃げてもいいかな?」



 逃げたってなんの解決にもならないのは、私にだって分かっている。だってこの後の最後の公演に私はどうしたって出なくちゃいけないし、玲王くんはそれを見に行くって言ってくれているのだ。寿命が僅かに延びるだけにすぎない、なんて細やかな延命治療なんだろう。でも、私はその中で、今よりマシな気持ちと顔でいられるようにするつもりだった。少なくともそれは、今ここで玲王くんと相対するよりもずっとマシなはずだった。
 凪くんはそんな私の内心なんか全然興味ないんだろう。「良く分かんないけど、逃げたいなら逃げればー」って、相変わらず抑揚のない声で言うだけだった。けれど、それでも背中を押された気になる。そうだ、逃げよう。一旦玲王くんの見つけられない場所に逃げて、冷静になろう。
 そろそろと立ち上がって、「ごめん、通してもらっていいですか……!」と荷物置き場の出入り口に続く通路を壁のように塞ぐ形になっている凪くんに声をかけて、避けて貰……えなかった。「跨いでいいよー」ってスマホを頭の方にずらしながら言われてしまって、本当に本当に迷ったんだけど、凪くんが作ってくれた胸のあたりのスペースを跨がせてもらった。「う……し、失礼します……!」こんなときじゃなかったら、絶対こんな失礼なことできなかった。
 出入り口から向こうを見計らう。
 皆は教室前方の舞台上に集まって、話し合っていた。



「玲王くん、なんとかしてくれんのかな」

「てか、隣のクラスなのに面倒見いいよね」

「凪がいるからじゃないの? ほら、一緒にサッカーしてんじゃん二人」

「あ~、なるほど?」



 さっき教室を出た玲王くんがどこに向かったのかは窺い知れなかったけれど、教室を出るなら間違いなく今だ。皆には今そこに参加できていなかったことを謝って、ちょっと気持ちを切り替えるのに時間が必要だから席を外させてくださいとお願いする。皆瀬さんにだけはこっそり「もし玲王くんに何か聞かれても、知らないって言って」ってお願いして、それで、逃げるのだ。
 ここから出て、顔を洗って心を整えて、それで最後の公演を迎える――それが私にとって一番間違いが無くて、正しいことだった。玲王くんに今会うわけにはいかなかった。そりゃあ、いつまでもこのままじゃいけないとは思っている。私の問題は根本的なもので、このまま目を瞑っていても解決する類のものじゃない。だから、いつかは玲王くんに話さなくてはいけないのだ。「私はどう頑張っても玲王くんに相応しい女の子になれそうになくて、その気持ちとどう向き合ったらいいのかわからない」って。でもそれは絶対、間違いなく、今じゃない。
 私は皆が一生懸命作った最後の公演を良いものにしたい。淀みなく台詞を言って、頼まれた演奏だって完璧なものにしたい。例えステッキが壊れた瞬間を思い出しても、鍵盤を叩く指がもつれても、もう動揺しない。例え今の自分が「玲王くんに相応しい女の子」じゃなくても、自力で立ち直るくらいはしたいのだ。私だって。だからそのために、一旦、今だけは玲王くんから逃げさせてほしい。
 でも、できなかった。飛び出そうとしたタイミングで、玲王くんが戻ってきてしまったのだ。



「わぁ……ッ」



 喉元まで出かかった悲鳴を両手で押さえる。玲王くんが「悪い、待たせた!」って、まるで最初からうちのクラスの人みたいな自然さで飛び込んできたのを、私はこんなときなのに、なんだかとても眩しいものみたいに思っている。








「これうちの喫茶店からもらってきたんだけど、使えねえ?」



 譲り受けた林檎を全員に見えるように掲げ、「この林檎の底を切ってボンドで柄にくっつけたらいけるんじゃねえかって、うちの女子が譲ってくれたんだけど」と話した瞬間、停滞していた教室の空気が大きく動いたのを感じた。



「マジ? うわ、林檎じゃん!」

「うわ~、探し求めてたやつすぎる!」

「これならいけるんじゃない?」

「御曹司やば! ありがとう~!」

「鋏持ってる人いる? 定規も!」

「私、ちょっと隣のクラスにお礼言ってくるよ」



 それまで膝をつきあわせて唸っていただけのやつらが、息を吹き返したようにばらばらに動き始める。それぞれができることを見つけ、役割を担う。自分のクラスのことじゃないのに、それが妙に嬉しいのだ。「ありがとな玲王~!」と宮前たちにハイタッチをせがまれ、「なんもしてねーっつの」と応えるように手をあげた。
 あとの問題は、だった。恐らくステッキが壊れたことや台詞が飛んだことは、にとってさほど重要なことではない(それが原因で怪我人が出たとか、劇がぐちゃぐちゃになって進行不能状態に陥った、とかであれば話は別だろうが)。には何かもっと他に思い悩むことがあって、今回の劇での失敗や事故がの自尊心を奪ったんだろう。昔から、変なところで打たれ弱いからな、あいつ。
 思い返してみればここ数日、はずっと様子がおかしかった。電話を避けられているように思ったのも、きっと気のせいじゃなかったのだ。白宝祭が終わったらとっ捕まえて、無理にでも話を聞かせて貰って――そう思っていたが、こうなったらあいつを捕まえるのは白宝祭の後じゃない。
 今だ。



「玲王、ちょっといい?」



 の居場所を確かめるため皆瀬を探そうと辺りを見回しかけたとき、肩を叩かれた。向こうも同じ考えていたんだろう。そこにいたのは、皆瀬だった。








 ――どうしよう。
 出るタイミングを完全に逸してしまった。玲王くんが教室にいる以上、ここからバレずに出て行くことは至難の業だ。それにもう、皆ステッキの修繕のために動き出している。皆の意識がそこに集中したこの状況で、玲王くんが私を探さないとは思えない。
 でも今は、玲王くんに会いたくないのだ。
 今玲王くんに会って、この内情を暴かれたら、絶対に劇どころじゃなくなる。これ以上私は皆に迷惑をかけられない。だって今だって、お手伝いも、案出しもできなかった。仕切り壁の奥に引き籠もってぐずぐずしていただけだった。皆はそれをゆるしてくれた。だからせめて、最後くらいはしっかりしたかった。
 「今は話したくない」って素直に言ったら、どうだろう。悲しませるかな。怒らせちゃうかな。「わかった」って言ってくれるかもしれない。でもその「わかった」すら、私は多分、重いのだ。情緒が乱れてぐらぐらで、玲王くんを前に平生の自分でいられる気がしない。何をどうしたって泣いてしまう。だったらもう、逃げるしかないのだ。それにはもう、今しかない。
 冷静では、なかったんだと思う。
 玲王くんと皆瀬さんが話しているのを、私はそのとき見てしまった。時間がないって思った。直後、私は仕切り壁の向こうへ走り出していた。教室後方の扉へ向かって。並べられた椅子に足を何度もぶつけて、手持ち無沙汰になった男子たちの隙間をすり抜けて。「え!?」「うわビビった」「なんだなんだ」って声を背に、私は教室を飛び出す。私はその間決して顔を上げなかったし、振り返らなかった。だから教室の前方にいた玲王くんがどんな顔をしていたかなんて、分からなかった。名前を、名前を呼ばれた気がした。「!!」って。私、やっぱり間違えたのかな? 頭に靄がかかったみたいで、わからなくなる。
 人波をすり抜けて走る私は、前もこんなことをしたな、って、考える。去年の夏、玲王くんに呼び出されて、どうして三浦くんに勉強をみてもらっているのかって言われた、あのとき。わけがわからなくて、私も玲王くんに、抱え込んでいた嫉妬心をぶつけてしまった。あのときも、私は玲王くんに、醜い私を見ないでほしかったのだ。
 だから玲王くんもあの日みたいに、追いかけてこないでくれたらよかった。








「――!!」



 皆瀬に呼ばれて振り向いたとき、視界の隅にの姿を見た。
 名前を呼んだのは、が椅子にぶつかりながらも教室を走って出て行ったからだ。空気の丸くなり始めていた教室に、俺の声は馬鹿みたいに響いた。舌打ちが漏れる。でも、どうやって取り繕えっつーんだよ。無理だろ、もう、全部。だって俺はあいつの恋人で、婚約者なんだから。
 静まった教室で誰もが俺か、後方扉から走り出て行ったを見ていたけれど、気にしていられなかった。廊下に駆け出してその姿を追う。朝よりかはマシになったとは言え、廊下はまだ人で賑わっていた。の姿がどんどん遠のいていくのを見て、ほとんど無意識に走り出した。なんで逃げんだよ、馬鹿。そーいうの、何にも気にせず叫べたら楽だったのにな。