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「――今のあれ、やっぱ事故だよね?」
並んでいた客を誘導しようと教室から出たときに耳に入ったその言葉に思わず視線を向けたのは、その直前、女子生徒らが隣のクラスから出てきたばかりだったのを視界の端でみとめていたからだ。
「多分そうでしょー。急に壊れたもん、びっくりしたわ」
「破片、前の人とかに当たんなくてよかったよねー」
事故。壊れた。――破片?
あまり聞きたくない言葉のオンパレードに、思わず眉を顰めた。
とは言え別の場所でその単語を聞いていれば、俺もそのままスルーしたとは思う。でも彼女らはのクラスから出てきたのだ。それが劇に関するものだってことは、馬鹿でも分かった。
思い出すのは十分ほど前、客の注文を受けていたときにどこからか漏れ聞こえた悲鳴とどよめきだ。隣の劇の演出か、そもそも聞き間違いか、あるいは全然別の場所から聞こえたものなのかは判然としなかったが、恐らくそのどれでもなかったのだろう。
――なんかあったな、これ。
「わ、やっと入れる~」
「御影先輩が接客してくれるの? ラッキー!」
「あー…………ごめん、あいつと行ってくれる?」
嬉しそうに身体を寄せてくる客は、丁度様子を見に顔を出したクラスメイトに任せ、先の三人組の背を追った。「えー!」と非難めいた声があがったのを聞いたけれど、それどころじゃなかった。嫌な予感がしていた。それが確信に変わったのは、前を行く彼女らの肩を叩いて振り向かせる寸前、「あの壊れたやつって結局ハートだったのかな。私林檎かなーって思ったんだけど、前の方にいた子供はハートって――」って話しているのを、この耳で聞いてしまったからだった。
ああ、あれが壊れたのかと、腹の底が冷たくなる。の作った、あの林檎。
「すみません」
振り向いた女子生徒が目を丸くする。その喉がひゅ、と鳴るのを聞く。
「今の話って、あそこの――白雪姫のやつですよね?」
から連絡は、ライブの前からなかった。俺から送ったメッセージについていた「既読」の小さな文字を、こんな時に思い出していた。
一時半を過ぎて客足が落ち着いたのはラッキーだった。
丁度午後から体育館でダンス部や演劇部、吹奏楽部の発表が始まったのもでかかったんだろう。おかげで俺の「悪い。隣でなんかアクシデントがあったらしいから、様子見に行かせて」っていう頼みも、渋々ではあったが了承してもらえることができたのだ(流石に朝から我儘聞いてもらってばっかだし、今回の打ち上げ場所くらいは提供してやらねーとな、とは思っている。俺も)。
俺が凪の実力に惚れ込んでいることは最早広く知れ渡っていて、俺が口にする「隣」に関しては全て「凪誠士郎か」と思ってもらえる。いちいち無粋な詮索や疑念を持たれないのは楽だったし、おかげでも変に気負うことはないから、その勘違いは有り難いっちゃ有り難いんだろう。
ただ、なんつーか、まどろっこしいなとは思うのだ。を「幼馴染み」ではなく「恋人」、あるいは「婚約者」として堂々と隣に置けたら、それで何の問題もないはずなのに。俺がの周囲の人間関係に気を揉めることもなければ、変に牽制する必要もなくなる。人の目を気にすることなく声をかけられるし、一緒に帰るのも、(今はサッカーでそれどころじゃないっていうのが正直なところだが)デートだって好きにできる。――よくよく考えたら良いこと尽くめじゃん。がそれを良しとしてくれないことだけが問題ってだけで。
でもその一点が最重要なのだということを俺も分かっているから、何も言わない。の準備ができるまで待つって、決めたのだ。
だから今の俺は、「騒ぎを聞きつけてやって来た凪の相棒」だ。何か公演中問題が起きたらしいっていうのを知って、心配して隣の教室を覗いただけ。
ついさっきまでステッキだったものを中心に置いて円になり、ああでもないこうでもないと話し合っているそいつらは、まるで何かの儀式でもしているみたいだった。
「え、玲王くんじゃん」
教室を覗き込んだ俺と目が合った霧島さん(今は彼女が学級委員らしい)が口にする。瞬間一斉に、彼らの顔がこちらを向いた。ちょっと気まずい思いを抱きながらも「どーも」と言えば、球技大会バスケ組の宮前、梶原が「おー久しぶりじゃん、どしたん玲王」と今の空気に似つかわしくない親しげな声をあげ、ドレスを着込んだ皆瀬は目を丸くして俺を見る。
「なんかさっき事故があったって聞いてさ」
ある意味野次馬みたいなもんでしかない俺が気安く受け入れてもらえるのは、日頃の行いの成果かもしれない。「耳はや!」と誰かが笑ったのに、「はやいんだよ、俺」と返せば、作られていた円が切れ込みでも入ったみたいに開かれた。クラスの一員みたいにされるのは、ちょっと笑えた。
それにしても、結構雰囲気凝ってるな、この教室。教室後方に並べられた客席用の椅子は一つ一つ飾り付けがなされているが今はがらんとしていて、ステージ上は所狭しと小道具が並んでいる。窓側とを仕切るように壁ができているところを見ると、多分あの向こうは荷物置き場かなんかにしているんだろう。――さりげなく教室中をぐるりと見回したが、と凪の姿はない。
「実はさっきの公演で小道具のステッキが壊れちゃってさあ」
「最後の公演まであと一時間近くあるけど、どうしようって話になって」
「俺は勿体ないし、元のやつカッコよかったからさ、いっそ欠片集めて接着剤で固めたらいいんじゃないかって思うんだけど……っていうか今実際やってんだけど、やっぱきびしーなこれ。激ムズ」
「今から代わりのもの用意するのも難しいしね。台詞とか諸々を変えるのが一番現実的かなって話してたところ」
「まあでも、本当はやっぱステッキありでやりたいんだけどねー……。折角作ってくれたんだし、それでずっと練習してきたわけだし」
「へー…………」
その「作ってくれた本人」が二人ともいねーけど。って言葉は飲み込んだ。いずれにせよ、と凪の作ったものを、このクラスが大事にしようとしてくれているってのは伝わって、嬉しくなる。ありがたいよな。そういう気遣いでもって向き合ってくれるのは。
公演の最中に林檎のステッキが壊れたってのは、劇を観ていたと言う三人組の女子生徒に聞いた。継母がステッキを振り下ろしたとき、それが木箱にモロに当たったらしいのだ。その後何とか軌道修正して、一応はきちんと劇を終わらせたらしい。とは言え衝撃の余波でか台詞が飛んだ子がいたとか、明らかに関係のない通行人が助け船を出していた、とかっていうのも聞いている。間違いなくと凪のことだった。
「ステッキの林檎のとこ作ってくれたさんもショックだと思うんだよね。壊しちゃったの、さっき謝ったんだけど、自分がちゃんと作らなかったせいだから気にしないでって言われちゃって……」
そう目線を落とす女子生徒が、恐らくステッキを壊してしまった本人なのだろう。「誰が悪いとかなくね?」と思わず漏らした本音に、彼女は「いや、絶対私が悪いから……」と益々落ち込んでしまって、ちょっと困った。悪循環だな。せめてがカラッとしていたらこの子もそこまで気負うことはなかったろうに。
だけどそんなんでクラスの輪に入れなくなるほど凹むって、どうもらしくない。台詞を飛ばしたのもダメージになっているんだろうか。それとも最後の演奏もミスったか? でもなあ、例え全部上手くいかなかったとしても、あいつがそこまで落ち込むとは思えないんだよな。どっちかっつーと「ごめんなさいー!!」って謝罪行脚するタイプだろ。だけどが今ここにいないっていうのは、間違いの無い事実だ。
引っかかるものを感じながら視線を彷徨わせる。何か言いたげにしている皆瀬と目が合ったが、俺の位置からじゃ声をかけるには遠い。
ステッキの先端には、僅かにこびり付いた紙粘土があった。ニスとかでも塗っときゃ、もーちょい強度足せたか。でも多分本人もそれは分かっているんだろうな。時計を見る。最後の公演が始まるまで、あと四十五分。
一度と話がしたい。少しで良いのだ。この場にいられないくらい落ち込んでるなら放っておけないから。この状況でもう一公演なんて、流石に酷だ。
でもいずれにせよ、その前にこっちをどうにかしなくちゃならない。
林檎の部分が壊れたステッキ。柄は無事だから、要は林檎だけありゃあ良いんだろう。の作った通りにしてやれないのは悔しいが、何分時間がなさすぎる。問題は材料と、時間。クオリティは最悪二の次でも良い気がするが、如何せん舞台が思ったよりも本格的すぎて、あまりにもチープな出来じゃそれ自体が浮くだろう。
その時、喫茶店として飾り付けた自分の教室にいくつか林檎をモチーフにしたものがあったのを思い出して、「あ」と呟いた。手芸部の女子が余り布で作ったあれは中に綿がぎゅうぎゅうに詰め込まれていたはずだ。今からアレとおんなじのを作って残された柄に刺せば、代わりにはなるんじゃないだろうか。
「ちょっと待ってて」と言い残し、走って自分の教室に戻る。運良くカウンター付近にいた手芸部の女子に声をかけて、事情を話して布と綿が余っていないかを尋ねたら、「だったらこれそのまま使っていいよ」とカウンター上の林檎を一個譲ってくれた。
「マジ? 多分これ、そのまま戻んねーよ?」
「いいよいいよ。どうせ文化祭終わったらお役御免だし、好きに使って。林檎の底に穴を開けて、ステッキだっけ? 柄に差し込んでからボンドでガチガチにくっつけたらいけるんじゃないかな?」
「助かる! 今度礼させて!」
じゃあ美味しいチョコでいいよ。そう言って笑う彼女に「オッケ、チョコな。期待してて」と言い残して教室を出た。廊下の窓の向こうに雲の切れ端が散らばっていて、その輪郭が明るく白んでいたのが、タマみたいだった。