12



 ステッキが壊れた。ぶつけた衝撃で林檎の部分が砕けて、舞台の上に散らばってしまったのだ。
 観客席は同情と、「この場を一体どう収めるんだろう」っていう好奇が混じり合ったどよめきに満ちていた。姿の見えない怪物と相対しているみたいな恐ろしさがあった。柄だけになってしまったステッキ。バラバラになった、最早林檎だったとは到底思えない欠片たち。衣装の下をじとりと嫌な汗が伝って、呼吸が浅くなる。動揺は私を頭から覆って食べ尽くして、自分が舞台の上で一人ぼっちになってしまったような気すらしている。どうしよう、って、その五文字が私の頭を埋め尽くして、私は一歩も動けない。
 だけど、私以外の皆には、その時寸毫の迷いもなかった。同じ未亡人役の枝森ちゃんが「えっ、今の魔法じゃない? やば!」と叫び、それに反応した他の未亡人数人が台本通りに魔女を取り囲むと、継母役の子が「く、くそっ、今日のところは引き上げてやる!」と元の台詞に収束させながら袖に捌けていったのだ。その際、一際大きな林檎の残骸のいくつかをさりげなく回収していくのも忘れなかった。舞台の上は、それだけで、ついさっき起きた出来事をうやむやにしたみたいだった。
 だったら私も、それに合わせて動かなくちゃいけなかったのに。
 こんなに皆が力を合わせてくれたっていうのに、私の動揺は、完全には消え去っていなかった。皆が白雪姫の無事を喜ぶシーンで、なんとかその輪の外側にはいられたけれど、どうしても足元に転がった赤い破片を視界に入れてしまっていた。心臓がばくばく音を立てて、視界が緩く点滅していた。微かな吐き気があった。だから、未亡人DとFがお互いを責め合い始めた直後に口にしなければならなかった台詞が、咄嗟に口から出てこなかったのだ。



「ま、まあまあ」



 まあまあ――。
 この後、なんて言うんだっけ?
 微妙な間は、何秒くらいあったのだろうか。分からない。落ちた視線では、皆の衣装の胸元あたりしか見えなかったから。
 後で聞いた話だと、この時枝森ちゃんを含めた他の未亡人たちは、誰が私をフォローするかで一瞬お互いを窺ってしまったらしい。台詞がかぶってしまうのを、皆避けたかったのだ。
 観客側にその空気が伝わるかどうかのときだった。私たちの輪の外から、「まあまあ」っって、私の台詞を引き継いだ誰かの声があったのは。



「皆、仲良くしましょーよー」



 びっくりして振り向いた。皆もそうしていた。それで、思わず目を見開いてしまったのだ。そこにいたのが、そのシーンで通行人役として存在していた凪くんだって分かったから。



「いや、お前誰だよ!」

「通行人Cでーす」

「Cとか言うな!」



 未亡人Aを務めている草野くんがほとんど地で突っ込んだ、その自然さに客席から笑いが起きた。
 私たちのクラスは、皆優しい。台詞が飛んでもギスギスしたりしないし、アドリブで助けてくれる――。
 以前玲王くんに話したことが、染みこむみたいに胸の内側に浸透していく。私はそれをありがたく、嬉しく思うのに、自分に対する不甲斐なさの方が大きくて、今はどうしても笑えない。








「ステッキ、どうしようねえ……」



 その後、劇はなんとか無事に終わった。本当に、「なんとか」だ。あの後のラストシーンの演奏は曲の途中で止まらなかったことだけが幸いで、指がもつれてひっかかって、酷い出来だった。他の楽器をしていた皆がアドリブで歌ってくれたから、どうにか形になったようなものだった。普段の私だったら「でも止まらなくてよかった! 助けてもらえて嬉しかった!」で済むはずだったのに、今の私はそんなことにすらも打ちのめされている。
 お通夜、なんてほどの空気ではなかったけれど、観客のいなくなった教室で、皆の表情は芳しくなかった。バラバラの林檎を掻き集めて、それを真ん中に置いて、今、皆は色々と話し合っている。今からこれを立体パズルみたいにくっつけて修復するのはどうだろう。でも次の公演まで一時間しかないし、間に合うか分からない。林檎じゃなくても別のそれっぽいもので代用した方がいいんじゃないか。いっそ杖をなくして台詞も変えるのはどうか――。
 本当は製作者の一人として、私もあの輪に入るべきなんだろう。さっきまで傍にいてくれた皆瀬さんと枝森ちゃんと並んで、私も最後の公演をどうすべきか議論すべきだ。終演後、わざわざ駆け寄って謝ってくれた継母役の子が気にしないように、なんてことない顔でそこに混ざるべきだ。分かっているけど、できなかった。できないから私はさっき凪くんがいた壁裏の、荷物置きになっているスペースの最奥に引き籠もっている。凪くんがさっきまで座っていた椅子に、皆の荷物に紛れるようにして、息を潜めて座っている。私がここにいることで教室の空気が良くなることはないって、わかっているのに。



「あ、取られた」



 そこに凪くんが来るのは、だから、少し考えれば分かることだったのかもしれない。
 凪くんはスマホを片手に私を見下ろしていた。きっとまた、最後の公演までの時間をここで潰そうと思ったのだろう。凪くんは、ステッキが壊れたことなんてどうでもいいみたいだった。話し合いに加わる気なんか、ちっともなさそうだった。私が咄嗟に腰を浮かせるよりも早く、凪くんは壁に背を預けて、そこに座り込む。「私、どくよ」って言ったのに、凪くんは「え、もう立つ方がめんどいからいーよ、座ってて」って、低く口にした。凪くんのスマホから流れるゲーム音が、壁の向こうの皆の声を、やわく塗り潰す。
 そのまま素直に浮かしかけていた腰を下ろしたのは、凪くんがそれ以外、劇のことについては何も言わずにいたからだ。「おりゃ、逃げんな」って独り言を言いながら、ゲームに没頭していたからだ。凪くんは、何も考えていない。この状況でどうするのが最善なのか考える気もなければ、明らかに落ち込んでいる私を慰める気もない。その無関心さが、今の私には心地よかった。壁の向こう側とこっち側が切り離されて、全くの無関係なものみたいに思えた。
 だから、私は、「さっき」って、タイミングを見計らうこともなく切り出せたのだ。



「……さっき、ありがとう、凪くん」

「? なにが」



 こんな時なのに、いつかの春を思い出す。私が凪くんの代わりにあてられた問題を、凪くんは結局自身で解いた。あの時も彼はお礼を言った私に、同じ事を言った。よくよく考えたら確かに凪くんからしたら、あれは本当に「何が?」ではあったのかもしれない。でも今日のは、全然、「何が?」じゃなかった。私は本当に、助けられたから。



「さっき台詞、私、完璧に飛んじゃってたから。凪くんが代わりに言ってくれて、すごく助かったの。……ありがとう、ほんとに」

「あー」



 凪くんの指は、のんびりした口とは裏腹に、器用に動いている。弾けるような銃声。色素の薄い、柔らかい髪の毛。窓から伸びた陽に爪先部分だけ晒されている、私のよりもずっと大きな靴は、ちょっと傷んでいる。空に浮いた塵が光を吸って、きれいだった。目の奥が少し痛くて、ほとんど無意識に閉じてみたら、瞼の裏に弾けた林檎が映った。それに紛れるように、凪くんが言う。「レオに頼まれてたから」、って。
 びっくりして顔を上げた私の視線を、彼は気にも留めていないのだろう。凪くんの目は、今もずっと、スマホに落ちている。



「…………玲王くんが?」

「そー。あ、ずっるこいつ、おりゃ死ね」

「あ、あの、玲王くんが、なにを」

「えー?」



 凪くんはやっぱり顔を上げなかった。頭の端っこに落ちたそれをそのまま掬い上げて私に放るみたいに、口にしただけだった。どうして私はその言葉に、こんなに殴られたような気でいるのだろう。



「『がなんか困ってそーだったら、助けてやって』って、レオが」



 光が目の中いっぱいに飛び込んで、一斉に爆ぜ散ったみたいだった。その感覚がどういう意味を持つのか私はその時全然わからなくて、考えられなくて、ただ、あちこちが痛かった。目に見えないところも、そうじゃないところも、ありとあらゆるところが。
 玲王くんや凪くん、周囲の人たちに助けてもらってばかりの自分の無力さに、ほとほと嫌気が差したんだと思う。こんなんで、一体どうして玲王くんの恋人だって胸を張れるだろう? いつまでも子供みたいに守られて、一人じゃ何もできなくて、玲王くんや皆を頼ってばかりで。私はやっぱり、玲王くんに全然相応しくない。一年経っても、相応しくなんかなれなかった。
 喉が痛くて、苦しくて、凪くんが見ていないのを良いことに、ちょっとだけ泣いた。その時自分の左隣にある壁の向こうで悲鳴があがったのを、だから、私は気がつかなかったのだ。「え、玲王くんじゃん」って、誰かが彼の名前を呼んだのに、私はちっとも気がつかずにいた。