10
「なんかすごい顔してんね」
ちらりとこちらに視線を向けた凪くんに言われてびっくりして、ほとんど声が出る寸前だった。二回目の公演の始まる三十分ほど前の教室の、人目に当たらない隅っこでのことだった。
黒板のある前方を舞台、後方を客席として整えた教室は、窓側に設置した仕切り壁にもなっている背景の向こうに、生徒の荷物置き場として人がすれ違うことのできるくらいのスペースを設けている。白宝祭終了までは誰かが出入りすることは稀で、だから私は劇が始まるまでの残りの時間をそこで過ごそうと思っていたのだ。先客がいるなんて、想像もしていなかった。
荷物を置く用に並べてあった椅子の一つに、凪くんは膝を立てて座っている。微かにゲーム音のするスマホに目を落として、いつものように、さして表情も浮かべぬまま。
「えっ! 凪くん、ずっとここにいたの?」
「他にいるとこないからねー」
「そ、そんなことないと思うけど……」
折角の白宝祭でこんなところでただ徒に時間が過ぎるのを待っている人なんて、凪くん以外にいないんじゃないだろうか。だって、どこもかしこもこんなに賑やかで楽しそうなのに。そんな私の内心を読み取るみたいに、凪くんは「もう動くのがめんどくさいんだよね、俺」って零すみたいに口にした。ここから一歩も動きたくなーい。って、凪くんはハレもケも変わらない。
だけどお昼時なのに、お腹空かないのかな。――そう思って尋ねようとしたら、凪くんの足の間にメロンパンのゴミが挟まっていることに気がついた。それから、飲みかけのレモンティーも。白宝祭に、コンビニのメロンパンとレモンティー! お腹がいっぱいにさえならなければ白宝祭の飲食ブースを端から端までコンプリートと思っている私とは異人種すぎて、分かりやすく狼狽えてしまう。
「折角の白宝祭なのにメロンパン……!? い、いろいろお店あったよ! チュロスとかめちゃ美味しかったよ……!? 勿体ないよ……!」
「えー、胃に入ればどーでもいー」
「え~……!」
益々私とはかけ離れている。価値観の相違とは言え、凪くんが圧倒的少数派であることは誰の目からも明らかだ。やっぱり凪くんって、ちょっと変わっている。
本当は先客がいた時点で別の場所に移動しようかと思っていた。でも、凪くんだったらきっと私のことなんか気にしない。ゲーム音と薄い板張りの壁の向こうからの微かなざわめきの中、ちょっと躊躇ってから「私も次の劇までここにいてもいい?」って尋ねたら、「そんなんあんたの好きにしたらいいじゃん」って言われて、それでやっと肩の荷が下りた気がした。
即席の仕切り壁があるせいで舞台や客席までは陽の光が届かない分、ここは少しぬくくて気持ちいい。窓の向こうに目をやれば、呼び込みの生徒が声を張り上げているのが視界に入る。お手製の壁の向こうで、「なんか廊下、もう並んでくれてるわ」って言うクラスメイトの声がする。ポップコーンの香ばしい匂い。足音。笑い声。どうしてか聞こえたクラッカー音。焼菓子を抱えて走り回る私の幻影。「ほんとはさあ」凪くんが不意に口にした。
「――本当は文化祭自体休もうかと思ったんだけど、玲王に行けって言われたんだよね」
現実に引き摺り戻されるのは、けれどどうしてこんなにも容易く行われてしまうんだろう。
リュックサックやスポーツバッグ、しっとりした皮のスクールバッグは、密集すると独特の匂いを発した。畳を縦に三つ並べるよりも狭いスペースだった。その中で私は凪くんを見下ろしている。色素の薄い柔らかい髪。きれいに渦巻くつむじ。どんなに意識を外に飛ばそうとしても、だけど私と凪くんの間にはどうしたって玲王くんが横たわっている。春からずっと彼の隣の席に座っていても、その横腹をつついて起こした回数が数え切れなくても、サッカーを始めるまで彼に名前を覚えてもらえなかったのが、その証左だ。
「…………凪くんが休んだら、劇、困っちゃうよ」
玲王くんを話題から遠ざけたのは、だから、意図してのことだった。
「いや、通行人でしょ俺。さんみたいに台詞あるわけじゃないし」
「でも、折角だからクラスのみんなで当日迎えたいじゃん。そりゃ風邪とか体調不良だったら仕方ないけど。そっちの方が、みんな嬉しいと思うけどな」
「えー……そう?」
みんなとか、そーいうの、俺よくわかんない。
凪くんの言葉、面白かったわけじゃないのに、笑ってしまった。
いいな、って思ったのだ。彼の身軽さが。私みたいに色んな物に雁字搦めになっていなくて、息がしやすそうで。
もし私が凪くんみたいな性格だったら、玲王くんがどれだけ騒がれてもきっと意に介さないんだろう。「だって玲王くんって昔からそうだったじゃん」って、当たり前みたいな顔をして、自分の不甲斐なさも能力の低さも気にせず、玲王くんからの優しさだけを享受して真っ直ぐ生きていた。でも、「私」はやっぱりそうじゃない。
――どうしたら玲王くんの隣にいても恥ずかしくない自分になれるんだろう、って、ずっと考えている。
一朝一夕じゃ解決しない問題だって分かっているのに、それはいつも私のすぐ隣にある。ありありとした温度と手触りを持ってそこにいる。熱狂に包まれた玲王くんのライブ。二度と抜け出せない渦の中にいるみたいだった。声援も歓声も、一学生に向けられるものとは到底思えなかった。誰もが知っている歌を二曲歌いきった玲王くんは「今日だけこのバンドに代理で出させてもらいました! この後の軽音学部のライブも楽しんでってください!」って手を振って、舞台袖に消えて行った。余韻は玲王くんたちが去ってからも冷めやらなくて、演奏なんかもう終わっているっていうのに体育館に人が増える一方だった。ごった返す生徒たちにもみくちゃにされて、抜け出すのにどれくらい時間がかかったか。
「人やばすぎ! 御曹司パワーどうなってんの?」
「すごかったね~……立ってたら多分みんなバラバラになってたよね」
「ほんとに」
「あの、皆瀬さん、枝森ちゃん」
私を見て首を傾げた二人に「ごめんね。私、なんか人混みに酔っちゃったみたい」と謝って、先に教室に帰って来てしまったのは、彼女らの前で平生を装える自信がなかったからだ。昨日から――いや、一年前からずっと私の底にこびりついていた「玲王くんに相応しい人間になりたい」っていう感情が黒く濁って、澱として積み重なっていくのが、どうしようもなく怖かった。「完全無欠の愛される玲王くん」を目にした直後で取り繕って笑えるほど、私は器用な人間じゃなかった。
一年で解決できなかった問題とここで決別するなんて、私には無理だ。分かっているのに「どうしたらいいんだろう」って考えてしまう。こんなんで、玲王くんが見に来てくれるっていう最後の劇、ちゃんとやれるのかな。客席の玲王くんを前に緊張して、台詞、飛んじゃわないかな。キーボードもちゃんと弾けるかな。ワンピースの裾を踏んづけて転んだりしないかな。玲王くんに呆れられたりしないかな。
考えれば考えるほど怖くて、お腹が痛くなった。眉根を寄せて、押し黙っていたからだろうか。凪くんが私の異変に気がついてくれたのは。
「やっぱ顔色、めっちゃ悪いね」
さっきも言われた言葉に、つい凪くんの顔を見る。マッチング中、って文字の浮かんだスマホの画面は、カウントダウンが始まっている。「具合悪そうだし、これあげる」って、その隙を縫うように、傍らのパックのレモンティーを差し出された。飲め、ってこと? 凪くんの飲みかけを? びっくりしたけど、一桁になった液晶の数字に急かされるみたいに受け取った。――受け取って、予想外の軽さに「これもう空じゃん……ッ!」って口にしてしまったけれど。
「俺の飲みかけとかいらないでしょ。捨てといてー」
「もー……! そっちのメロンパンのゴミも捨てちゃうから、ちょうだい!」
「やったー」
凪くんの足に挟まっていたゴミを回収して、荷物置き場と舞台の境目くらいに置いてあるゴミ箱へと向かうのに踵を返した。その瞬間、凪くんが独りごちるように「面倒見いいとこは似てるよね」って私の背に向かって言ったのが、どうしてか、刺さって抜けなかった。
いつの間にか次の劇が始まるまで十五分を切っていた。ゴミ箱にゴミを放った瞬間、「そういえばさっき玲王くんがステージに出てたらしいよ」ってクラスメイトの声が聞こえて、ほとんど無意識に唇を噛んだ。