09
「玲王、ありがとな~! マジで助かったわ……」
「いーって別に。軽音学部の晴れ舞台じゃん。しかもトップバッターなんだろ? そこ穴開けんのもよくねーしな」
「玲王…………っ!」
ステージ袖の奥にある階段下で、借り物の白いギターの弦を軽く押さえながら言う俺の背に、バンドメンバーが続々覆い被さってくるのを「やめろやめろ」と振り払う。制服に着替えたから良いけど、さっきまで着ていたカフェ用の衣装だったらどこか破いてしまっていてもおかしくなかった。「マジで感謝してる、俺達がお前にできることなんかないかもしんないけど、でもお礼させてな」って感極まった様子で言われて、「いーってそんなの」と緩く首を振った。
にしても、本来このバンドメンバーの一員であるギターボーカルの神澤も相当不憫だ。昨日までは元気そうだったのに、今朝になって突然下痢に見舞われるなんて。まあ、なんかよっぽど悪いもんでも食ったんだろうな。消費期限切れのパンとか。ああ見えて結構大雑把なやつだから。
各バンドに与えられた時間は、二曲分。その二曲ともが知っている曲だったのはラッキーだった。ギターはサッカーを始める前までの暇潰しの一つだったから、それなりには弾けるのだ。流石に練習と確認はさせてもらうけど。
「にしてもヤバイだろうな。告知なしで玲王がいきなり歌い始めたら、ステージ大混乱じゃね?」
「うわー、大スター気分だよそんなん」
「いや俺達が人気なわけじゃねーから。……つか尚更失敗できねーし、いつもみたいに出だしミスんなよ?」
「いつもはミスってねえわ!」
三人の声に紛れるように、ポケットに入れたスマホが震える。弦から手を放して確認して、それで思わず息を吐いた。――ほっとしたのだ。もしかしたら気がつかないかもしれないと思っていたから。
その返事がここ数日のそれとは違って、普段のに近かったのも救いだった。俺が感じていた違和感に、それは優しく布をかけてくれた。
「ほんとに!? 教えてくれてありがとう~! 今から行きます!」
からの返事でこんなにやる気になるなんて、俺も結構単純なんだろうな。
閉ざされたステージの幕の向こうに、大勢の人の気配がある。盛り上がりすぎないようにか、あるいは午後からある演劇部やダンス部、吹奏楽部の発表のためにか、ステージ手前には十数列分のパイプ椅子が並んでいるのをここに来る前に確かめた。ただ体育館のほとんどは立ち見席だし、キャットウォーク部分まで含めたら、流石にそこからを見つけ出すことはできないだろう。
それでもが俺をどこから見ていてくれるんだったら、それだけで益々、失敗はできねーな、って思うのだ。
鳴らした弦の音は、幕の向こうのざわめきと剥き出しの配管、冷たい機材に吸い込まれるようにして、消えた。
玲王くんは昔からなんでもできる。
ボールを投げるのも上手だったし、足もびっくりするくらい速かった。小さいうちから難しい漢字もスラスラ読めて、私が一冊の本を読み終わる間に、玲王くんは三冊読み切っていた。私が解くのを諦めてしまったパズルも、玲王くんは「やらないならやっていい?」って、代わりに終わらせてくれた。ルークだって玲王くんによく懐いた。なんなら私より。ちゃんとした先生の元で指導を受けていた私の手前か、玲王くんはうちのピアノに触ることはしなかったけど、本当は私なんかより上手だったんじゃないかと思う。たまに楽譜を覗き込んで、私が詰まったところを「こうじゃない?」って弾いてみせてくれたから。
玲王くんはなんでもできるから、目についたものに手を伸ばしてはあっという間にマスターして、次のものに手を伸ばす。「飽きっぽいんだよ」って自分では言っていたけれど、でも私は玲王くんのそういう、スーパーマンみたいなところが好きだった。力任せに投げたボールはあらぬ方へ飛んでいき、クラス対抗リレーで追い抜かれ、いちいち辞書を引きながら本を読む私より、玲王くんの方が圧倒的に格好良かったから。
玲王くんはそう言う私に笑って、「でもさ」って言う。
でもさ。
その後の言葉が、塗り潰されたみたいに思い出せない。
「あ、あそこの椅子三つ空いてる。座っちゃお~」
枝森ちゃんが見つけてくれたのは、体育館の前方に並んだパイプ椅子の、丁度真ん中くらいの席だった。まだ軽音学部の演奏まで時間があるせいか、空席はちらほらと見つけられる。相変わらず演劇の衣装のまま移動している私たちは、親御さんと見られる世代の方や、ステージには出ない軽音学部らしい生徒たちの中でも割に目立った。
「今から行きます」と返事をした後、玲王くんからは「トップバッターだから遅れんなよ」ってメッセージが届いた。ということは、あと二十分もすればあのステージの向こうに玲王くんが現れるんだろう。なのにさほどお客さんがいないのは、時間のせいもあるだろうけど、きっと玲王くんが代打で出るってことを皆知らないんだと思う。実際教室からここに来るまでの間、「玲王くんのクラスいこーよ」って会話は聞こえてきても、「玲王くんが歌うって」って声はついぞ耳にしなかったから。
がやがやとした無数の声の中に紛れ込ませるように、隣の椅子に座っていた皆瀬さんが私に頭を寄せる。「連絡あったの?」って、極端に言葉を削ぎ落とされた問いかけに、私は小さく頷いた。そう、あったの。玲王くん、これからお手伝いで歌うんだって。トップバッターなんだって。言いたいけど、それは全部その首肯に込めた。皆瀬さんは得心がいったという風にゆっくり瞬きをした。皆瀬さんの向こう側で、枝森ちゃんが伸びをしているのを、ドキドキしながら見ていた。
急遽代打で、なんて、だけど玲王くん以外の人だったら絶対にできないだろう。私なんか三日前の打診でひいひいしてたんだもん。それだけの能力と度胸を持った玲王くんを、私は格好良いなって思うのに、同時に小さじ一杯分くらいの感覚で、引け目に感じてしまう。楽しみ、って気持ちに、それは簡単に水を差す。
衣装の上から、脈打つ胸をそっと押さえた。誰よりも近しく思っていなければならない玲王くんは、やっぱり今の私には遠い気がした。
――悲鳴と歓声は体育館を占拠して、瞬く間に学校中に広まった。
席を取っていたことに、意味なんかもうなかった。立ち見席の生徒たちが溢れかえって、運営係の制止を余所にステージへと詰めかけたから。でもきっと、椅子に座っていなかったら押し流されて、皆と離ればなれになっちゃっていたと思う。そこを押し潰すほどの非常識さを、白宝の生徒は持っていなかった。コの字型のキャットウォークはあっという間に埋まった。去年の球技大会なんか、比じゃないくらいだった。
ギターをかき鳴らす玲王くんはステージに設置された紫色のスポットライトを浴びて、その声を張り上げる。伸びやかな歌声は夥しい数の歓声をものともしなかった。彼が拳を振り上げれば、誰しもがそれに続いた。みんなの世界に真ん中があるとしたら、今の玲王くんがそうだった。音圧がびりびりと皮膚の表面を撫でていった。すごい、って思うのに、圧倒されているのに、どうして私は自分が摩滅していくように感じているんだろう。
目が熱かった。どうして泣いているのかもわからなかった。私の涙はあちこちに引っかかって、鬱陶しかった。皆みたいに熱狂できたら良かった。私はあの人の恋人なんだよ、ってこっそり胸を張れたらよかった。どうしてよりによって、今、こんなにまで思い知らされなければいけなかったんだろう。どれだけ自分が追い付こうと頑張っても、玲王くんはずっと遠くにいる。すべてのひとに愛されて、神様みたいに立っている。
自分を取り囲む全てに殴られながら、それでも私は必死で堪えていた。打ちのめされても、指差されても、身を引きたくなかった。誰にも譲りたくなかったから、相応しくなりたかった。図々しいことに、今もそう思っているのだ。一年前から私の気持ちは、ちっとも変わっていなかった。