07



 ここ数日玲王くんとは、直接顔を合わせることは勿論、電話で話をすることもなかった。
 楽譜を渡されて以降、家でもピアノの練習をしていたから時間を作れなかったのだ。玲王くんにはメッセージで事情を説明してあって、「へー、のピアノ聞くのとか久しぶりだな。小学生以来じゃね?」って言われた。そういうことを言われると何だか色々言い訳めいた言葉が浮かびそうになるけれど、全部飲み込んで、「がんばります!」ってスタンプだけ送っておいた。――白宝祭の三日前の話だ。
 文章だけのやりとりしかしない日が続くことなんて、これまでだって何度もあった。でも今回は、なんだかいつも以上に落ち着かないというか、居心地が悪い。それまで何の意識もせずに歩いていた道の両側が実は断崖絶壁で、後にも引けなければ先にも進めないことに今気がついてしまった――そんな感覚だ。
 胸の内側に不安の種があって、私はそれをずっと小さい箱に入れて見ないふりをしていた。学校中から注目を浴びる玲王くん。かっこいいって騒がれて、告白されて、バレンタインだってきっと私以外からも山ほどチョコをもらっていて、クラスの女の子から頼りにされて、大きな夢の実現のために自力で道を切り拓いている玲王くん。私は自分に自信がなくなりそうになる度、玲王くんからもらった言葉たちを背中に押し込んで立っていた。だけど一年の間私の中に転がった小さい箱は知らないうちに自損と修復を繰り返していて、それで、きっと今、それがもうほとんどギリギリの状態を保っている。そういうことなんだと思う、多分。
 その日私は夢を見た。玲王くんと夏に行った水族館を、一人で歩いている夢。
 館内の灯りはほとんど落とされていて仄暗いのに、私は先に進まなければここから出られないと知っている。迷路みたいに入り組んだ道を、水中を泳ぐような速度でしか走れない私は、だけどそうしながら、本当にここから出るべきなのかどうかがわからない。シマシマのイシダイ。ふにゃふにゃしてるようで芯が詰まってるような感触のヒトデ。洗濯機みたいに回り続けていたクラゲ。岩場から動かなかったペンギン。私はみんなを引き連れて、走って逃げている。どこまで、いつまでこうしていたら良いんだろう。そもそも私は一体何から逃げているんだろう。苦しくて、疲れてしまってどうしようもなくなったときに夢から覚めた。六月の白んだ光がカーテンの合わせ目から漏れて、枕から落ちた私の額に差し込んでいた。



「あ、あくむ…………」



 ベッドの淵ぎりぎりでどうにか引っかかっていた身体をそのままに、掠れた声で呟く。
 首筋のあたりがびっしょりと汗で濡れていた。なのに手足の先は冷たくて、身体はずっしりと重かった。白宝祭当日の朝は最低のコンディションだったけれど、ここ最近ずっと雲の広がっていた空は、薄い青色をしていて、それだけがたった一つの救いのように思えていた。








 いつもは閉ざされた正門は、大きなアーチと共に開かれる。壁を埋め尽くす風船や花は色鮮やかで、目がちかちかした。どこかのクラスから漂う食べ物の匂いが混じり合って、まだ正常とは言えない心とは裏腹に食欲が刺激される。賑やかな白宝祭の空気は、私の表面に生じたぬめりを拭い去るように優しい。
 私たちのクラスの公演は、十時と、十三時、それから十四時半の全部で三回で、どこか他のクラスをゆっくり見て回るなら一回目と二回目の間くらいしか時間を取れそうになかった。枝森ちゃんは一回目の公演の前に後輩のところに行ってくると別れていて、今私は皆瀬さんと二人だ。



「でもやっぱ隣のクラスは行きたいよねぇ」



 玲王くんの名前を出さずに、パンフレットに視線を落としながら皆瀬さんは口にする。
 着替えの時間を削減するため、それから歩く広告塔になるため、劇に出る私たちは既に衣装に着替えていた。白雪姫の皆瀬さんはフリルとリボンがいっぱいの、砂糖菓子みたいなドレスを纏っていて、歩いているだけで人の目を引いた。「え、なに皆瀬さん、めちゃ綺麗じゃんそのドレス」私の知らない子に声をかけられて、「ありがと~。十時からうちのクラスで劇やるよ~! きてね~」ってにこやかに手を振る皆瀬さんは、やっぱり人を引きつける魅力がある。



「でも今からじゃ十時までに戻れるか微妙だよね~。だってこの『大正ロマンの喫茶店』て、要するにコスプレなわけでしょ? そりゃ皆行くよ~。もう売上部門ぶっちぎりだよ、絶対」

「さっき前通ったときも行列すごかったもんねえ」

「ね! 行くならやっぱお昼前かなあ。この時間なら体育館のステージライブもあるみたいだし、ばらけそうじゃない?」

「え~! ステージライブなんかあるんだ。去年全然見てなかったからなぁ、そっちも楽しそうだね」



 玲王くんからは、朝、「そっちのクラス、最後の公演見に行くわ」って連絡があった。それから、「頑張れよ」って激励も。それはすごく嬉しいし、わあ、って思うんだけど、やっぱりどうしても心が晴れない。どうしてだろう。私の悩みなんて全部一年前からのもので、今更で、ここにきて表面化する類のものではなかったはずなのに。昨日のことが鉛になって、そこから異常な熱が漏れ出ているみたいで、窒息しそうになる。
 他校の学生や生徒の親族の行き交う廊下は、世界の綺麗なところだけを切り取って縮図にしたみたいだった。私は今、だけどそこから浮き上がっている気すらしている。九時二十分。窓から見える中庭の時計で確認する。「てか玲王くんて何組?」白宝のものじゃない、可愛いセーラー服を着た二人組の女子学生がそう言うのに、心臓が音を立てる。気がつかないふりをして、小さく咳払いをする。



「ほんと、時間足りないよねぇ。他の学校みたいに二日間やってくれたらいいのに」

「ね~。二日間もあったら、いいとこ全部まわれそうだもんね」



 皆瀬さんの言葉に相槌を打ちながら、一緒にパンフレットを覗き込むふりをした。
 胸の内側で何かが燻っている。
 精神がバランスを崩すタイミングって女の子だったら多かれ少なかれあると思うけど、多分、それも影響している。劇に対する不安と緊張、玲王くんへの感情が同じ容器の中で混ざり合ってどろどろになって、どこにも流し込めない。
 混雑する廊下で、向こうから歩いて来た男の子と肩がぶつかって、ついでに長い衣装の裾を踏まれてしまった。「わ、ご、ごめんなさい」って咄嗟に謝ったけど、男の子は気付いてもいないみたいだった。「大丈夫?」って、皆瀬さんが尋ねてくれるのに頷きながら、こっそり息を吐く。心臓がどきどきと音を立てているのが、こんなに騒々しい中でもわかってしまう。



「無理しないでね、ほんとに」



 皆瀬さんがそう言ってくれるその背後に、私は昨日のことを思い浮かべていた。もしかしたら皆瀬さんもそうだったのかもしれない。昨日の放課後、なんとなく空気が濁った瞬間に、皆瀬さんが気遣ってくれたこと。玲王くんの傍にいるのは、相応の女の子じゃないとだめなんだ、ってそのとき感じてしまった。皆瀬さんの存在は、だけど全員が全員そういうふうに考えてるんじゃないってことを、私に教えてくれる。それがすごく、今の私にとっての救いになってる。
 ああ、でも、落ち着かないな。こんなんでほんとに、今日の劇、ちゃんとやれるのかな。台詞、飛んじゃったらどうしよう。キーボード、指がもつれたりしたら大変だよね。
 ドキドキする。指の先がひんやりして、血の巡りが悪くなっている。無意識に指と指とを絡ませながら、澄み切った空を見た。向こうの校舎で、うさぎの着ぐるみを着た誰かが風船を手に走っているのが見えた。「あ、さん見て、チュロス売ってる!」って、先の教室を指差す皆瀬さんに手を引っ張られて、それで少し、どうしてか、ほっとした。