06
白宝祭直前に頼まれたキーボード演奏は、私が不安視していたほど大変なものではなかった。
数人で集まっての練習はどうしても必要だったけれど、柔らかいキーボードの鍵盤はピアノのそれよりもずっと楽に運指できたし、知っている曲っていうのもあって数年のブランクがあっても演奏自体は難しくない。タンバリンやカスタネット、トライアングルを持った枝森ちゃんたちが合間合間に音を鳴らしてくれるのも賑やかで、実際ラストシーンに合わせてみたら、スピーカーで流していただけの初期案が随分寂しいものに見えたくらいだった。だから、よかった。ほっとしていた。私でも上手くやれそう、って。慢心ではなかったのだ。決して。
黒板のカウントダウンは「あと二日」で一度止まって、今は「白宝祭明日!」って、殴り書きがされている。教室どころか学校全体が浮き足立って、忙しない。普段何かと忙しい私たちは、多かれ少なかれ、こういう行事で日頃のストレスを発散させているのかもしれない。
白宝祭の前日。普段部活を優先して放課後の集まりには積極的に参加していなかった生徒たちも、この日ばかりは練習を早く切り上げて教室に戻ってきてくれていた(凪くんは、やっぱり他の部活の子たちと同じように今日は早く部活が終わったみたいだったけれど、一時間ほど前にちらっと顔を見せた後、「なんかもーやることなさそーだし帰るー」って言い残してスマホを片手に教室を出て行ってしまった。相変わらず自由な人だ)。
明日に備えて既に机が運び出された教室は広いはずなのに、大道具や皆の荷物があちこちに点在しているせいで、窮屈にすら見えた。開封されたお菓子の甘ったるい香り。普段話をしないような男女が笑い合う跳ねるような声。窓硝子は教室の明りを反射させ、薄暗くなった外と私たちとを遮断するから、余計にこの四方の空間が何か特別なものに思えた。終わりのある特別だった。その寂しさが、好きだな、って思った。
「えー! 最後のシーン、めっちゃいいじゃん!」
「ね。三日前から急遽で、よくここまでできたよねえ……」
「ほんと、さんがピアノやってくれてよかったよー」
「そ、そんなそんな……! 恐縮です……!」
「恐縮て」
普段あまり話をしない女子のグループに囲まれて褒められてしまうと、どうしてもドキドキしてしまう。「でも、シナリオも音楽も、演じてる皆も、背景とか小道具とかも、全部すごいから……!」だから、ここまでのものができあがったんだと思う。本当に。
さっき最後の通しで撮っておいてもらった動画を皆で見返したときの感動を思い起こしながら、「ほんとに、すごく楽しかった」って思わず口にしてしまった。「いや、まだ白宝祭始まってすらないよ。本番明日だから」って笑われちゃって、ちょっと恥ずかしかったけれど。
でも、ほんとにすごく楽しかったな、って思ったのだ。失敗したと思ったステッキは、褒めてもらえた(特に男の子達の間で評判が良い)。衣装を作るのも楽しかった。まさか本番直前でもう一つ大仕事を任されることになるなんて想像もしていなかったけれど、でもそれだってきっと上手くいくと思う。そういう一つ一つが自信になって、私の踵にくっついて、それでようやく私は玲王くんに近づける気がしている。
玲王くんに相応しい女の子になりたかった。この一年、私はずっとそれだけを思っていた。
だから、ボタン一つ掛け違えるだけで、私は滑落して、色んな物を見失ってしまうのだろう。後に振り返ってみて、そう思う。
「れ~お! 待って~!」
そんな声に振り向いたのは、皆瀬さんや枝森ちゃん、他のグループの女の子たちと、大人数で靴を履き替えているときだった。
「そろそろ下校時刻ですー! 校舎から出てってー!」って生徒会の先輩たちに怒られて慌てて教室を飛び出してきたのは私たちのクラスだけじゃなかったから、昇降口で玲王くんと一緒になるのは何も不思議なことじゃない。白宝祭の前日だから、凪くんが顔を出して颯爽と帰って行ったあのタイミングで、玲王くんも自分のクラスの準備を手伝っていたんだろう。分かってはいるんだけど、でも、ちょっとドキっとしてしまう。昨日と一昨日は電話をしていないとは言え、メッセージのやりとりくらいは毎日していたはずなのに。
皆瀬さんがちらりと私を見る。無言のアイコンタクトは一瞬で、私は何てこと無いようにそれまでしていた会話の――去年の文化祭の話に相槌を打つ。えー、そっちのクラス、去年そんな楽しそうなことしてたんだ。私はカップケーキ抱えて走り回ってたから全然他のとこ見れてなかったんだよね。ああ、カップケーキ抱えてるちゃん、見かけたかも。なんか薄ら覚えてるよ。そういう会話をしていた。めっちゃ走り回ってたよね。って。でも、「一緒に帰ろうよ玲王」って声に、ちょっと息が止まった。複数の女の子の気配が、すぐそこにあった。
「あー、悪い。俺、車待たせてるんだよ」
「え、車だったら送ってほしい~」
「あ、玲王くんのリムジン私も乗ってみたい!」
「嘘ズルい、私も私も! 駅まででいいから~! ね、だめ?」
「………………」
でも、その声が近づくにつれて、私たちの会話は飲み込まれるみたいに止まってしまった。玲王くんのクラスの下駄箱と、私たちの下駄箱は、丁度真裏。だから多分、玲王くんたちは私たちの存在に気がついていなかったんじゃないかな。玲王くんたちの気配がそこで止まった瞬間、「うける」って、私たちの中の誰かが言った。さっきまで私たちがしていた会話の流れだったのか、そうじゃなかったのか、ちょっと判別がつかない絶妙なタイミングだった。
身体を巡る血が、逆流したみたいな感覚になった。お腹が冷えて、断崖に立つ背の後ろに何者かの両手を添えられた気すらした。
私がちょっと、変に考えすぎなのかもしれない。その「うける」が悪い意味に思えてしまったのだ。心臓が変な音をたてていた。視界がちょっと歪んだ。「うける」。たった三文字が、こびり付いて離れない。玲王くんに明らかな好意を寄せる女の子が「うける」なら、私だってそうだ。
流れてしまった白々しい空気を壊してくれたのは、皆瀬さんだった。「ね、さんて今日も自転車? もう暗いけど大丈夫?」って、大きめの声で尋ねてくれたのだ。
だから私は玲王くんが、玲王くんのクラスの女の子たちにどういう返事をしたのか知らない。あの子たちに対して、ここにいる皆がどういう感情を抱いていたのかも、私は目を逸らす。「うける」は、いつか私に向けられる言葉かもしれないって恐怖ごと、全部、なかったことにする。
最近増え始めた、サッカー部の練習を見学するギャラリー。夜、玲王くんに送られてきた誰かからのメッセージ。次の練習試合は、もう駄々田のときみたいに片手で収まる観客数、なんてのは有り得ないんだろうな。そういうのに勝手に追い詰められて馬鹿みたい。これ以上苦しい思いをしたくないなら、私は背伸びをするしかない。自分にできることを全部やって、頑張って、頑張って、勉強もお洒落も頑張って、胸を張れるように。
「そう、今日も自転車! でも爆速で漕いでいくから大丈夫!」
そう言った声は上擦っていたけど、下駄箱の裏にいた玲王くんが、私の動揺に気がつかないといいなって思った。
「今日、ちゃんと帰れたか?」
玲王くんから届いていたメッセージに気がついたのは、お風呂からあがってきたときだった。
大丈夫だよ、って、平静を装って返事をする。そか、ならよかった、って、短い返事はすぐに来た。
ね、今日、あの子たちと一緒に帰ったの? この間の夜玲王くんに質問してきた子は、あそこにいた?
私の髪の先から膨らんだ雫が、何も文字を打ちこめずにいるスマホの表面に、ぱたりと音を立てて落ちて行く。
「電話するか?」
そのときぱっと浮かんだその文章に、私はどうして返事ができなかったんだろう。
緊張して、ナーバスになってるのかもしれない。だって私、明日の劇で台詞あるもん。三つも! それにキーボードだってするもん。そういう不安が積み重なって、上手く昇華させられないんだ、きっと。
少し時間をかけてから、「今日は明日に備えて寝ることにします! 電話、また今度したいです」って送った。玲王くんは「ん、りょーかい。明日、頑張れよ」って、私の半分の時間で返事をくれた。その優しさに、胸の内側がぽかぽかしていたのも嘘じゃなかった。玲王くんは私があの時昇降口にいたことは気がついていても、その直前、あの女の子たちとの会話を聞いていたことは気がついていなかったのかもしれなかった。だったらやっぱり、聞いちゃいけない。
好きだって言われたことを思い出していた。それだけで私の踵はどうにか地面から離れずにいられる気がした。