05
白宝祭を目前に控えた教室は、授業中であっても空気が普段のそれとはどこか違う。
微かなざわつきの隙間を埋めるように、絵の具やニスの匂いが薄らと、だけど満遍なく教室を満たしていて、いつの間にか鼻も慣れてしまった(授業のために教室に入ってくる先生の大半は大抵顔を顰めるけれど)。教室の後ろの方は劇で使う道具が所狭しと並べられていて、何となく窮屈だ。しかもどういうわけか今朝からそこにキーボードまで追加させられていて、益々混沌としている。でもこのごちゃごちゃ感が、却って心地よかった。
白宝祭まであと三日。黒板の隅っこに消されずに残っているその文字は、日々の授業のせいか「祭」の字の一部分だけが薄くなって、消えかけている。
「ここで使われている単語の意味は――」
先生が口にした瞬間、前の方に座っている女子の机から、劇で使う花が一輪落ちたのを見た。隣の席の子がそれを拾い上げて、手渡す。葉っぱの取れかけたそれは、彼女の机から出てきたマステですぐに仮どめされる。その斜め後ろの男子は、完成したばかりらしい派手なフレームの伊達眼鏡をかけて振り向き、周囲の子を吹き出させている――。
休み時間でもないのに、教室の方々でこっそり劇に使う飾りや衣装を作っている生徒がいるのは、滅多なことじゃ怒らない古典の先生の授業だからだろう。
「大事なとこだけはちゃんと言うから、そこはチェックしときなさいよ」
って、先生が暗に内職を認めるような言い方をしていたのも、皆がこっそりと、だけど適度に堂々と作業をする理由の一つだった。実際「ここ重要ね」って先生が言う度、皆の手は針や鋏からシャーペンに素早く持ち替えられる。一瞬だけ、空気がパリッと入れ替わる瞬間がある。薄曇りの窓から差し込む細やかな光線に目を細めながら、授業の頭から握りっぱなしのシャーペンを片手に小さく息を吐くのは、私にはそんな芸当絶対にできないって分かっているからだ。
私はいつだって、ついていくのに精一杯。
だけど、品詞分解をする先生の視線が黒板に向いたときだ。二つ斜め前の席に座る霧島さんが不意にこちらを振り向いて私に視線を合わせた後、胸の前で両指を忙しなく動かす仕草をしてから、何かを確かめるみたいにゆっくり小首を傾げてみせたのは。
「……?」
霧島さんは去年から同じクラスで、数学が得意な頭の良い女の子だ。一年生のときから物凄くお世話になっているんだけど、彼女は今年、女子の学級委員に立候補していた。
だから多分、今霧島さんが振り返って私に訴えているのも文化祭に関することなんだと思う。だけどその動きの意味するところがまったく理解できなくて、思わず眉根を寄せてしまった。彼女は同じ仕草を何度も何度もしてみせるだけで、言葉を発することはしない(曲がりなりにも授業中なんだから、当たり前だ)。バラバラに動く指は空を叩くみたいだった。授業中に見る光景としてはおかしくて、やっぱり良くわからなかった。
キョロキョロと辺りを見回してみても、前の席の二人は彼女の挙動を気にしつつも黒板を写す手を止めないし、隣の凪くんは相変わらず机に顔を突っ伏して寝ている。なんだろう。なんだろう。というか、私にしてる、んだよね? その仕草を凝視していたら、不意にその口元がゆっくりと動いたのに気がついた。
「さんて、弾ける?」
って。
そう尋ねられているんだと分かったとき、私はようやく彼女の指の動きがピアノのそれだって気がついたのだった。
わけもわからないまま軽率に頷いたのは、もしかしたら間違いだったのかもしれない。
授業が終わった後に手渡された楽譜を前に、私ははっきりと動揺している。誰もが耳にしたことのあるあの曲を弾きやすくアレンジしたものらしいそれは、コピー用紙三枚分もあった。
「実は昨日、さんが帰った後にラストシーンのBGMは生演奏が良いんじゃないかって話になってね」
霧島さん曰く、最後のシーンで出番のない登場人物がバックで演奏したら盛り上がるんじゃないかと提案した人がいたらしいのだ。確かに、それまでスピーカーで流していただけの音楽が生演奏に切り替わったら見ているほうも盛り上がるし、楽しいだろうとは思う。あの劇、ハッピーエンドだし、この曲もすごく明るいし。
「教室だし、流石にピアノは持ってこれないからさ、雲津くんがお姉さんのキーボード持ってきてくれたんだけど」
そう言われてはっとした。振り返ると、比較的コンパクトな作りのそれは劇で使う道具に紛れるように、だけど確かな存在感を放ってそこに鎮座している。
「あー、あそこにあるキーボードってそういうこと? 何に使うのかと思った……!」
「そうそう、あれあれ。雲津くん、昨日の今日で持ってきてくれたの。助かる」
「え~、仕事が早いね……! ところで、あの、ちなみに他の楽器は……?」
「タンバリンとトライアングルと、それからカスタネットかな? そのへんは音楽室から借りてくるよー」
「私タンバリン超~得意だよ……!」
「あ~、でも実は昨日から声かけてまわってるんだけど、この最後のシーンで手が空くメンバーで他にピアノ触ったことある人、誰もいないみたいなんだ~。……さん、急でごめんなんだけど……ピアノ、頼まれてくれないかな?」
両方の手の平を合わせて頭を下げられてしまうと、う、となってしまう。だって私、押しに弱いのだ。ものすごく。そうじゃなくても、相手は霧島さんだ。一年生のときからあれだけ勉強を見て貰っておきながら、恩を仇で返すような真似は流石にできない。
改めて楽譜に目線を落とす。三枚に渡ってはいるけれど、Bメロからサビのところだけでいいってことなのか、蛍光ペンでその部分がチェックしてあった。簡単に弾けるようアレンジがされているそれは、フラットとかシャープといった調号も一つも無い。この歌も、知ってる。春くらいから物凄く流行ってるし、私も大好きな曲だから。
ピアノなんか、中学で辞めて以来ほとんど触っていない。だけど小さい頃からずっと習っていたから楽譜は読めるし、指が動かないってことも流石にないだろう。家にはまだピアノは置いてあるし、練習もできる。弾けなくはないのだ、これくらいだったら。……ただ、ちょっと物怖じしてしまっているだけで。
何度か口を開きかけては閉じ、ちょっと考えて、それから黒板の隅っこを見た。白宝祭まであと三日。三日。三日かぁ。せめてあと一週間余計にあったら、こんなに葛藤しなかったんだろうけれど。
でも、やっぱり首を振ることができなかった。それはもしかしたら、どこかに「玲王くんに相応しい女の子になりたい」って気持ちがあったからなのかもしれない。だって玲王くんだったら、絶対引き受ける。私だってそうしたかった。誰かが困っているんだったら、手伝いたかったのだ。
スピーカーからのBGMで済ませるよりは、私のへろへろピアノでもきっと場の雰囲気はばっと華やぐはずだ。だってタンバリンもカスタネットもあるんだもん。主役の皆瀬さんの見せ場に花を添えられるに違いない。
「…………もしミスしたら、みんなでカバーしてもらえる……!?」
「するする! そうなっちゃったら皆で歌お!」
底抜けの笑顔でそう言われて、覚悟は決まったはずだった。
「凪~、部活行くぞー」
白宝祭の準備で賑わう放課後、隣の教室を覗きがてら凪を呼んだら、近くにいた女子が「わっ御影玲王くんだ!」と声をあげた(「どーも」って笑って手だけは振っとく。愛想いいんだよ、俺って)。普段だったらそれで伝播するざわめきは、だけど今日は奥までは行き渡らないらしい。なんだなんだと首を伸ばせば、教室の後ろ、凪との席のあたりで人だまりができていた。男子と女子に囲まれた中央に座っているのは――だ。
俯きがちになりながら席に座っているを、数人の男女が取り囲んでいる。各々何かを手にもっているようだが、折り重なる人影でその手元までは窺えない。が不意にびくりと身体を揺らして、「わー、ごめん……っ」と漏らしたのがざわめきを縫うようにして耳に届いた。何が「ごめん」なのかは、ここからでは判然としなかった。
――なんだありゃ。
そう思った瞬間だ。丁度教室の前の扉から出てきたところだったらしい凪が、背後から「あ、玲王だー」って、俺の名前を呼んだのは。
「凪。……なあ、あそこにいるのってだよな? 何やってんだ? あれ」
「えー、知らなーい。気になるなら自分で聞いてくればいーじゃん」
「俺が行ったらがびっくりするだろ」
「させればいいじゃん別に。話しかけたって死ぬわけじゃないんだしさー」
部室までの道中の時間を潰そうとでもしているのか、凪は「部活めんどーい」と言いながらスマホを取り出す。
凪の言い分は尤もだ。実際、さっと教室に入ってのところに行って尋ねるのは簡単だったし(何せ、俺達は「幼馴染み」なんだから)、そうじゃなくても去年同じクラスだった宮前や、主役を演じる皆瀬を探せば答えは簡単に手に入っただろう。
でも多分、今それをやって凪から目を離したら、こいつ、そのまま部活に来ないで寮に帰る気がするんだよな。……前も一回やられたし。
前科のある以上、放ってはおけない。そうじゃなくたって文化祭の後はほとんどの土日が練習試合で埋まっているのだ。連携の確認はいくらでもしておきたかったし、ボールに触らない日がある、なんて状態は避けたかった。俺の夢のために。
逡巡したのは一瞬で、結局俺は教室には入らず凪の背中を追いかけることになる。凪の方に爪先を向けた瞬間、の教室からどよめくような笑い声が響いたのを聞いた。カーンと甲高く響いたあれは、トライアングルの音だろうか。その中にの笑い声があるのを察したけれど、「おい、待てよ凪」と口にした自身の声で、それは遠くなった。