03
「ほい、これ杖。さんと俺の合作ー」
凪くんがそう言って林檎のステッキを提出したものだから、文化祭の準備をしていた放課後の教室、その一角の空気が、ちょっとざわついた。同じ未亡人役の枝森ちゃんと台詞の確認をするのに台本を眺めていた私はその気配を敏感に感じ取って、凪くんたちの方、教室の前側の席に目線をやる。
今あのステッキは私の手からも凪くんの手からも離れて、他の生徒の元に渡ろうとしている。それだけで身体中の血がざわめいて、「どうしよう」って焦ってしまった。どうしようもないのに。今朝、「凪くんが大丈夫なら、じゃあ、凪くんに任せるね」と紙袋ごとステッキを渡したのは私なのに、いざあれを完成品として扱われてしまうと全身から嫌な汗がじとりと噴き出てしまうのだ。――何もかも今更だ。困るんだったら、やっぱり納得いかないから作り直させてほしいってお願いすべきだった。
紙袋を受け取る学級委員の男の子――雲津くんだ――と彼の友人達の一挙手一投足に、ドキドキする。耳のあたりに心臓があるんじゃないかってくらい、強い心音を拾ってしまう。玲王くんと凪くんは「いいじゃん」って言ってくれたけど、だってやっぱりあれ、どう見たって失敗作なんだもん。
昨晩のことを思い出すと、緩やかに発狂しそうになる。キッチンから持ってきた林檎と見比べながら作ったはずが、紙粘土の総量を考えていなかったせいで歪になってしまった。先に絵の具を混ぜてから成形するのがいい、ってネットで書いてあったからそうしたのに、思っていたよりもピンクっぽくなってしまったのも大きな敗因だったと思う。慌てたせいで判断力が鈍って、凪くんが作った柄とくっつければ案外いけるんじゃないか、って血迷ってしまったのも良くなかった。結果私は、良く言えば独創的、悪く言えばごつごつしたリアルめのハートにしか見えない何かがくっついたステッキを完成させてしまったのだ。
これがあの湊人の娘なのだと思うと、我ながら泣けてくる。お父さんの才能は隔世遺伝だ。私にはあらわれない才覚だったのだ。わかっていたのだから、過信すべきじゃなかった。
夏服に替わった制服の内側でだらだらと汗を流しながら、私は視線だけを凪くんたちに送っている。紙袋からステッキを取り出した瞬間、「おわ」と口をついて出たらしい雲津くんらの声に耳をそばだてて、教室のざわめきからその続きだけを拾おうと集中している。こんなの、もうほとんど判決を待つ罪人と変わらない。呼吸を止めて、少しでも近づこうと身を乗り出す。甲高い笑い声が、反対側の扉の方で響いている。薄曇りの空が、雲の切れ端を白く照らしている。
「え、てかこれ合作? さんと凪の?」
「そうそう、合作。いーよね? それで」
「え、あ、ああ。オッケー、バッチリ。ありがとな」
持ち手の部分は丁寧に作られている一方で、メインの林檎は一種独特なオーラを放っているそれを「合作」と言われてしまえば、受け取った学級委員の男の子が困惑するのも無理はない。
つか合作って、どこをどう?
彼の声色はそう問いかけているのに、「じゃ、俺部活いくからー」って、凪くんはもう用事は済んだとばかりに行ってしまった。部活のある彼は放課後の準備を抜けても許される看板を背負っているのと同義で、だから、彼がそれ以上誰かに呼び止められることはない(実際凪くんはその現状を「ラッキー」って言っていた。サッカーすんのしんどいけど、こうやって集まって延々となんかしてる方がしんどいし、って。凪くんらしい)。
さっさと教室を出て行った彼の背を見送っていたのはこの教室の中において、彼らと、私だけだ。扉を隔てた廊下の先で、玲王くんの「お、凪!」って声が聞こえた気がした。女の子達の、きゃあ、って声も。でも今はそれにいちいち反応できないくらい、おなかが痛い。
雲津くんと、彼とよく一緒に居る男の子たちは、残されたステッキを前に神妙な顔をしていた。いたたまれなかった。これで「やば」とか、嘲るような声が聞こえてこようものなら、私は今度こそ顔をあげられなかったと思うから。
でも、彼らはそういうことを、決して言わなかった。まじまじと眺めるだけで、その不出来を笑うことはしなかったのだ。俯いてしまいそうだった頭を持ち上げる。私が昨日半泣きで作った林檎のステッキは教室の前の方で掲げられて、光を受けて、微かに反射している。
「林檎ってか若干ハートっぽいけど……。でもこれさあ、めっちゃよくね?」
びっくりしすぎて、息が止まった。
「な。豪快でいいわ。男の林檎~って感じする」
「わかる。かっけーよこれ。色とかちょっと毒々しくてさあ」
「…………!!」
どれがお世辞でどれが本気なのか分からなかったし、凪くんが作ったのは林檎じゃなくて柄の方だ。だから「男!」って感じがするとしたらそれは、皆の勘違いだ(私の作ったそれが女らしさからかけ離れ、繊細じゃなかった、と言うべきなのかもしれない)。
「ハートっぽい」とか「毒々しい」とか、そういう心当たりのある単語にはちょっとドキッとしたけれど、でもそれらを否定的なニュアンスでは口にしない彼らは、今の私には神々しくすら見えた。なんて優しい、良い人たちなんだろう。善良の塊だ。ありがとう、って台本の上で指を組む。ありがとう雲津くん。それから草野くん、菅谷くん。ずっとドキドキしていた心が救われた。昨日の私が報われた気がした。
感謝を込めて自分の席から拝んでいたら、枝森ちゃんが「ちゃん、何で祈ってんの?」って笑ったけど、私はもう、「ありがたくて……」としか言えなかった。こんな私でも気味悪がらずに面白がってくれる枝森ちゃんも、間違いなく善性の人だった。
林檎のステッキはその日から劇の練習でも使われるようになったけど、誰かに笑われることも馬鹿にされることも、一回もなかった。翌日、男子たちに林檎の出来を褒められた凪くんが私を指差して「いや。その林檎作ったの、俺じゃなくてこの人だけど。合作だって言ったでしょ」って言ったものだから、変な注目を浴びてしまうことになるけれど。でも、皆は「さんが作ったとか、めちゃくちゃ意外」ってびっくりしながらも褒めてくれて、どこまでも優しかった。
去年に引き続き心優しい人たちに囲まれている私は、きっと恵まれているんだろう、ものすごく。
「だから言ったろ? 大丈夫だって」
からの報告にそう言えば、は幾分か柔らかい声音で「ほんとに大丈夫だった~……よかったよ~……! もっとなんかこう、やば~って言われるかと思って、お腹痛かったんだよ……!」って、安堵のため息と一緒に口にする。その様子から察するに、本気で不安だったらしい。そこまで心配していたとは思っていなかったから、ちゃんと話を聞いて、不安を取り除いてやれなかったのは悪かったな、と頭の隅で考えた。だけどが作ったあの林檎は、そもそも自身であそこまで卑下するほど出来が悪かったわけじゃなかった。演劇で使う分には何の問題もないクオリティだったし、あの無骨な荒削りの造形におじさんの血を感じたのだって、決して嘘ではなかったから。
今年の文化祭で、のクラスは教室で演劇をやることになっている。白雪姫をモチーフにした創作演劇だってこと、はそこに登場する未亡人Bを演じるらしいこと(未亡人Bて、なんだよそれ、って笑った俺に、は「未亡人Bは二年前に夫を水難事故で失ったんだよ」と細かく教えてくれた)、白雪姫は皆瀬で、凪は小道具製作がメインだけど当日は台詞のない通行人の役が与えられていること――隣のクラスの話だってのに、全部知っている。凪は文化祭の話なんかこっちがふってもしないけど、が全部話して聞かせてくれるから。
「ほんとに皆やさしいんだよ。台詞飛んでもギスギスしたりしないし、むしろアドリブで助けてくれるし……」
「へえ。だったら当日も安心だな」
「そう! 安心! 私ドキドキしすぎて、絶対台詞飛ばすもん」
「の台詞、何個だっけ?」
「三つ……!」
「ぶは、飛ばしようがねえじゃん」
「それがそんなことないんだよなあ……! 台詞のない凪くんが羨ましいよー……」
「はは、凪なぁ……」
壁一枚が煩わしい。
たった一つクラスが違うだけで、見ているものも、感じているものも違う。「なんかあったら飛んでくから」って言った春を思い出す。一緒に過ごしたかったな、って今更思うなんて、馬鹿みたいだ。の隣には凪が、凪の隣にはがいると知っているせいだろうか。ただ、いいな、と思う。「俺もお前らと一緒のクラスだったらな」喉元まで出かかった言葉は少しみっともない気がして、寸前で飲み込んだ。
の小さな欠伸が、スマホの奥に溶けるみたいに滲むのを聞いて、我に返る。「ねみぃ? 今日はもー寝るか?」と尋ねたその声だけが、我ながら優しかった。