02
「凪くん、ごめん、失敗しちゃった……」
玲王の彼女――なんちゃらさん――が神妙な面持ちでサッカーコートにやって来てそう懺悔したのは、薄い雲が空全体を覆うように広がっていた、ちょっと涼しい朝のことだった。
朝とサッカーコートとさんて、なんか変な組み合わせだ。寮と学校の往復だけで日々の生活を送っていた俺がサッカー部に入ることになったのは先月のことで、それぞれ単体で見たらそれなりに馴染みがあるくらいにはなってたけれど、この時間のサッカーコートに俺と玲王以外の人間がいることってそもそもあんまりなかったから(他の部員は昼と放課後しか練習ないんだよね。うらやましい)。
それで、もしかして夢かもな、と思った。だってさんがこんなとこに来てまで俺に声かけてくるの、やっぱ変だし。「ごめん」も「失敗した」も、何のことだか意味わかんないしさ。玲王に言われてさっきまで日課のランニングをしていたことを思えば、できたらベッドの中じゃなくてランニングの後でぶっ倒れている間に見ている夢だったら嬉しいんだけど、って、なかなか焦点の定まらない視界の中でぼんやり考えた。だってこの後もう一回走んなきゃいけないとか、無理でしょ、流石に。
さんは、フェンスの外側にいた。コートの外、ほとんどフェンスの間近で仰向けに倒れた俺と顔の距離が近づくようにしゃがみこんで、だけどパンツが見えないようにしっかり足を揃えて、スカートを押さえながら、困ったような顔をしていた。靴下に、猫の顔の刺繍がしてあった。リュックサックに、ペンギンのぬいぐるみがくっついていた。
「凪くん、おきてる……?」
「……死んでる~……」
「えぇ……し、死なないで……!」
困惑したように眉尻を下げるさんが紙袋を持っていることに気がついた瞬間だ。「――あれ、?」って、玲王がコートの端の方から声をあげたのは。
ああ、そっか、さん、ていうんだっけ。この人。玲王が駆け寄ってくる音が、寝そべった地面を通じて伝わってくる。それに慌てて立ち上がったさんは、目をぱっと見開いて姿勢を直してから、ちょいちょいって前髪とか横の髪をいじって整えた。恋する女の子の象徴みたいな光が、そのときさんの全身からぱって放たれたような気がした。目を閉じたのは、でもそれとは全然、関係ない。薄い光に包まれた俺は、耳だけで二人の存在を拾っている。
「れ、玲王くん! おはよう!」
「ん、おはよ。どうしたんだ? こんな時間に珍しいじゃん」
「あの、凪くんに用事があって。昨日のやつ……玲王くんにも写真で見てもらったでしょ? あれがね、やっぱり、その……」
「ああー、あれ?」
頭上から降り注ぐ話し声に、覚醒するどころか少しずつ眠気が増す。玲王の声もさんの声も棘がなくて柔らかいせいか、妙に耳に馴染むのだ。
雲が光源を隠して、眩しすぎないのも良かった。時折吹く湿った風が、汗ばんだ肌に心地よかった。春、もう終わったっぽいけど、これくらいの季節もギリ好きだ。
この二人が付き合っている、っていうのは、サッカー部に入るか入らないかの頃には玲王から聞かされていた。二人は幼馴染みで、ほとんど生まれた頃から婚約者同士として扱われていて、でも正式に恋人関係になったのは去年の夏とか、そういう話。一応周りには内緒なって釘を刺されたけど、話す相手いないし、別にキョーミないからどうでもいい。でも「俺のだから、隣の席だからって手出すなよ?」って笑う玲王は、ちょっと本気だった。ふつーに、出すわけなくない? 俺を牽制する必要なんか、ないのにね。玲王の声は、角がない。
「別にあれで良いだろ? そんな心配?」
「心配……っ! だってさっきお母さんに見てもらったら、ハート?って言うんだよ? そしたらハートにしか見えなくなってきちゃって……」
「ふは、ハート? それはおばさんが白雪姫モチーフの劇に使うって知らねーからだろ? だいじょーぶだって、林檎に見えっから。それにちゃんと湊人の娘の味、出てるって」
「それは嘘でしょ……! むしろ娘としては恥の域だよこれは……。やっぱり作り直した方が……」
「作り直すまでしなくていーっつの。可愛い可愛い」
「ええ……ほんとに……? か、可愛い…………?」
「嘘なんか吐くかよ。俺を信じろって。な?」
「う~、でもなぁ……」
遠のいていく意識の中で、「おい、凪」って、玲王が俺を呼んだ。頬を左右に引っ張られて、「んぇ」って声が出る。玲王は案外容赦なくって、ほっぺは結構痛かった。流石に起きざるを得なくて、瞼を開ける。
フェンス越しのさんが「凪くん」って声をかけたから、こっち、入ってきたらいいのにって思った。でもさんはその場から動かない。まるでそこから先の線を越えないと予め決めてでもいるみたいに。彼女は持っていた紙袋から何かを取り出して、再び俺の頭と距離を近づけるように、しゃがみこむだけだ。その手に持っていた物が差し出される。赤い物体がついた、棒状の何か。
「あの、昨日の夜これ作ったんだけど、林檎に見え…………ないよね?」
今玲王と彼女がしていた会話が、脳内をゆっくり巡る。
俺に用事。白雪姫の劇。ハート。おばさん。湊人。娘。恥。その中で、二人にしか分からないのだろう言葉たちだけが、隙間から落ちて行く。
「最悪作り直そうかと思ってるんだけど、でももう凪くんが昨日作ってくれた柄とくっつけちゃってね。やり直すなら柄からになっちゃうんだよね。凪くんの頑張りまで無駄になるのは悪いなって思って、どうしようって悩んでて……」
お母さんがどうとか言っていたから、俺には関係ない話かと思っていた。
ああ、でもそっか。これ、昨日俺が「無理」って言ってさんに押し付けた、クラス演劇で使うとかいう、杖じゃん。
腹筋に力を入れて、起き上がる。忘れてた、ってつい漏らしてしまった声に、玲王がちょっとだけ笑った。さんは、ええ、って、それとは対称的な顔で俺を見ていた。似てないな、この二人、って、頭の隅っこで考える。でも、似てないから良いのかも。俺も俺がもう一人いたら、嫌だし。
フェンス越しでは、彼女が一晩かけて俺の代わりに作ってきてくれたそれは受け取れない。柄の先にくっついたお手製の林檎がハートに見えるかどうかも、本当は判然としない。でも、彼女の顔の前で傾けられた杖は、そう悪い出来には思えなかった。じって見つめた俺に、さんはちょっとだけ、緊張したように顔を強張らせていた。「いいじゃん」って、だから、言ったのだ。少し歪な形をした、赤い塊。
「――林檎でしょ、誰がどー見ても」
ハートって言われたら、正直そう見えなくもないのかもしれない。でも、林檎だ。自分の仕事を一方的に押し付けた上にそれすら忘れていた罪悪感があるからとか、そういうんじゃない。なんならこの状況でも、そういう感情は湧かない。俺、あんま性格良くないのかも。マジで作ったんだこの人、偉いな、って思うくらい。でも、偉いなって思うから、その頑張りを、頑張りすぎない程度に、丸ごと大事にしてほしくなるのだ。
「え、え? いいの、これで」
「いーよ、めちゃくちゃ林檎」
「や、ほ、ほんとに? これクラスの皆は凪くんが作ったって思っちゃうよ……!?」
「え、全然いいけど。……てか別にさんが作ったって言えばいーじゃん。俺の手柄にしなくても」
「これ手柄になるかな!? 美的センス疑われるよ!?」
「いやそーか? 結構味あるよなあ、凪」
「あるある。独特なセンスでいいねー。俺は好き」
「ええ~……!」
さんは困惑した顔で杖と俺たちとを見比べて、それから深く首を傾げた。彼女が掲げて見せた林檎の杖は、やっぱりちょっとハートに見えなくはないなって思ったけど、視界の端で眩しそうに笑う玲王とこの人の間に横たわる空気をそのままにしておきたくて、全部、飲み込んだ。
面白いなって思ったのだ。ころころ表情が変わるさんも、そんなさんのことを、なにかこの世界にひかる唯一の一点みたいに見つめる玲王のことも。