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 いろんなものが、去年よりも駆け足で過ぎ去っていく。
 無意識に目で追いかけてしまう人が同じ教室にいないせいだろうか。私と玲王くんとを繋ぐ線が、学校だと薄れて曖昧になってしまっているからだろうか。学級委員じゃない分やらなきゃいけないことが少なくて、同じような毎日に感じてしまっているからか。――やっぱり全部なのかな。
 日々の生活は私の真横をすり抜けるみたいに流れていって、気がつけば六月になっていた。皆瀬さんや枝森ちゃんと過ごす学校での日常も、隣の席の凪くんも、放課後に玲王くんの姿が見たくてわざと横を通り抜けるサッカーコートも、予備校の数式で埋まったホワイトボードも、本当は一つ一つ手の平にのっかってありありと存在感を示しているのに、いつも気がつくと夜になっている。玲王くんとお休みの日に会ったり出かけたりすることは今はなくて、その埋め合わせでもしてくれるみたいに、玲王くんは電話だけは毎日くれた。「あんま構えなくてごめんな、」って玲王くんは言ってくれるけど、こうして声が聞けて、他愛もない話ができるだけで充分だった。本当だ。



「全然! 私、サッカーしてる玲王くん、すきだよ。いつもね、こっそりコートの横を通って帰ってるの。玲王くんが凪くんのこと引き摺ってるの、見てる。ずるずるって凪くんの足引っ張ってるところ」

「ぶは、なんだよ。見てんなら声かけろよ」

「え! むりむり! こっそり見てるのが精一杯! それに私が声かけたらへんでしょ?」

「そうかー? 幼馴染みってのは割れてるんだし、去年同じクラスだったんだし、そんな気にしなくてもいーと思うけどな。凪とだって今クラス一緒なんだしさ」

「えー!? 大丈夫かな!?」



 玲王くん目当てで練習を見学している先輩とかが、嫌な気持ちになったりしないかな。そう思ったけど、玲王くんは「いーよ。外から話しかけてくるやつ、結構いるし。声、かけろよ」って言ってくれた。結構いるなら、いいのかな。ゆるされるんだったら、いいな。ぼんやり思って、そうしてみる自分を想像して、胸がむず痒くなる。
 マネージャーは、結局今も見つからないみたいだった。玲王くんももう、積極的には探していないんだって。「いなくてもやっていけるしな」って話す玲王くんに、私はやっぱり、少しほっとしている。「もそっちのが不安になんねーだろ」って続けられて、飲んでいたお茶がうっかり気管に入りかけたけど。
 いろんなことが、順風満帆だ。駄々田との試合に勝ったことでおじさまの目論見も阻止できたし、今後の練習試合も順当に決まっているらしい。波風は、今の玲王くんの周囲には一つも立っていない。平穏だ、と思う。この平穏がどのくらい続くのかは、私には分からないけれど。








 今年も例年通り、六月の頭に白宝祭を迎えることになる。
 去年同様、五月の終わりにはうちのクラスの出し物は決まっていた。演劇をするのだ。抽選で漏れてしまって体育館のステージを使用する権利は得られなかったから、教室での演劇になるけれど。
 タイトルは「白雪姫と七人の未亡人たち」。演劇部の女の子が作ったオリジナルの台本を何人かで精査して完成したそれは、笑いありどんでん返しありで、贔屓目に見なくたってよく出来ていた。皆瀬さんが白雪姫で、私は未亡人B。台詞らしい台詞は三つだけの、とっても丁度良い役どころ。
 学級委員という立場じゃない私の肩には、余計な力が入らない。重圧のない中での白宝祭の準備は、随分気が楽だった。出しゃばる必要も無く、遠慮しすぎる必要も無く、ありのままの自分でクラスの歯車の一つになれたから。
 演劇ってなると、大変なのは当日よりも準備の方だと思う。そういう意味では去年よりも放課後にクラス皆で集まる回数は多かった。簡単な背景に、大道具や小道具の製作。衣装はどうしても難しそうだったから、基本的には家にあるそれっぽいものを持ち寄って、手を加えることにした。演者は台詞を覚える時間も必要だったし、合間合間にかけるBGMの厳選もしなくてはいけなかった。各々が自分にやれることを探して、協力しあっていたのだ。
 そういう「行事」に、だけど凪くんは圧倒的に向いていない。



「小道具とか作るの、めんどくさーい。全部家にあるもので賄えばいーのに」



 彼がぼやいたのは、担任の先生が厚意で文化祭準備の時間にと譲ってくれた、水曜日最後の授業であるLHRのときのことだった。
 私たちの席は相変わらず隣同士で、こういう凪くんのぼやきはどうしたって耳に届いた。だけど与えられた作業を放っておいて寝る――とかしないだけ、まだ今日の凪くんはやる気があった方だったのかもしれない。もらったチラシを幾重にも重ねて巻きながら(演劇部の子曰く、こうすると頑丈になって、そう簡単には折れなくなるんだって)、凪くんはステッキの柄の部分をちまちまと作っている。
 放課後は部活動のある凪くんは、比較的負担の少ない小道具係の一人だ。作らなくちゃいけないのも、林檎がモチーフになったステッキ一個だけ。劇本番でも台詞のある役どころは与えられていないし、客観的に見れば面倒くさがりの彼への配慮は最大限なされていると思う。



「家にあるものかぁ……先っぽに林檎のついたステッキはあんまりなさそうだよね……」

「……ニセモノの林檎にこの棒くっつけたらいいんじゃない?」

「あ~、百均とかにあるよね。フェイクの果物……。あっ、でも棒とくっつけることを考えたら、やっぱり紙粘土で作った方が良いんじゃないかな。紙粘土が固まる前に、それに刺しちゃえば良いんだし! フェイクのやつだと重すぎてくっつけられなそう」

「ああ、そっか。くっつけなきゃなんだっけ、これ」



 もー自分が何作ってんのかもわからなくなってた。凪くんはぼやきながら、再び目線を手元に戻した。
 普段の授業中とは違うざわざわした空気の中、凪くんはその長い指先で、ぐるぐる、ぐるぐる、机の上でチラシを丸め続けている。凪くんの存在感は、教室の中では平らだ。誰かと特別仲が良かったり、話し込んでたりすることはない。見えない溝が凪くんの周囲に円を描いているみたいに、凪くんは「特別」。
 だけどこのぼんやりした男の子がひとたびサッカーボールを与えられたら凄まじい活躍をするってことは、少しずつクラスの皆にも知れ渡るようになっていた。だって一緒にいるのが超超有名人の玲王くんなのだ。注目されないわけがない。
 最近の玲王くんは、いつにも増して生き生きしている。廊下ですれ違うとき、隣の教室を素通りがてら覗き見たとき、凪くんを引き摺っているとき。電話の向こうにいるときも、玲王くんは明るい。小さいときよりも、中学生の頃よりも、去年よりも、曇りがない。それは玲王くんが凪くんを見つけたからだ。信頼できる相棒が、今玲王くんの隣にいるからだ。それはなんだか、これまで玲王くんを見てきた分、奇跡的なことのように思えた。
 凪くんがいてくれて良かった。彼の性格を考えたら、サッカーなんかしないって逃げたっておかしくなかったのに、凪くんは玲王くんと一緒にサッカーをしている。サッカーに関しては無関係な私が凪くんに「ありがとう」って言うのはおかしくて、傲慢なことだと思うから、私は心の中で玲王くんに、「よかったね」って思う。よかったね、玲王くん。玲王くんが夢中になれるものを見つけて、心から楽しんでいるその横顔を見ていられるのが、私はうれしい。



「――ねえ、さん」



 不意に凪くんが呟いたのが私に向けられた言葉だと理解するのに、少し時間がかかった。未亡人Bの羽織るショール(お母さんが使わないからって譲ってくれたものだ)に装飾を縫い付ける手を止めて、「ん?」って凪くんに目線を向ける。
 凪くんの背はいつの間にか丸くなっていて、もうほとんど机に突っ伏しかけていた。そのとろんとした目を見た瞬間、どきっとする。嫌な予感で。傍らには、きちんと形になったステッキの柄と、手つかずの紙粘土。凪くんはふわふわした声で「……俺、もう限界かも。おねがい、これやっといて」って言い残すと、私の言葉を待たずに、がくん、って電池が切れたみたいに眠ってしまった。
 あの凪くんが柄だけでも作ったことをすごいと思うべきか、面倒臭そうな林檎の製作を残して放り投げたことを怒るべきか。なんて言ったら良いかわからなくて私は「えっ……!」と声とも音ともつかないものを吐き出してしまう。



「え~……!」



 机に突っ伏して、すやすや寝息を立てる凪くんの寝顔は健やかだった。終わりかけの縫い物と凪くんの肘あたりに転がった紙粘土を見比べて困惑する私のことなんか、全然気にしていなかった。
 「彼女さん」とか「あんた」じゃなくて「さん」って呼んでくれたこと、この時じゃなかったらちゃんと気がついて、「私の名前知ってたの!?」って、本人に聞くことができたのにな。結局「あれ?」って思ったのは、家で作ろうと林檎(未満)を持ち帰ったその日の夜、玲王くんと電話をしているときだった。「そういえば今日凪くんに初めて名前呼んでもらったかも」って漏らした私に、「逆に今まで呼ばれてなかったのかよ」って笑う玲王くんの声は、やっぱり明るくて、まるかった。