09



「今日の試合、すごかった……! ほんとにほんとにすごかったぁ……!」

「はは。、さっきからそればっか」

「や、だってびっくりしたんだよ! まさか駄々田高校に勝っちゃうなんて思ってなかったから……!」

「ふーん? まさかって言われるなんて、に随分見くびられてたんだなー、俺たち」

「み、見くびってないよ! それはちょっと語弊があるよ……!」



 慌てた様子で首を振って、「だって駄々田高校、Aランクって書いてあったから……!」ってもごもご話すに、思わず笑う。Aランクって何だよ。俺の言葉にはなんとかのブログがどうとか言っていたけど、なんか知らないところで変なもん見てるんだな、って。からかうと分かりやすく慌てるところとか、こっそりサッカーについて勉強しているところ、面白いし何だか可愛くて、好きだった。
 西日を背負った二人分の影が、住宅街に続く閑静な道に伸びていた。の自転車を引いて歩くときの手に感じる重みや、タイヤの回る規則的な音、俺よりもずっと狭い歩幅で歩くの頭の高さ。遊歩道に植えられた木々の影、草の濃い匂い。全部、むず痒くなるくらい懐かしかった。サッカーを優先させた俺が手放した日々のあまりの柔らかさに、張り詰めていた神経が緩んだ気がした。
 は眉尻を下げて照れくさそうに笑う。俺が今思って、口にしかけたことを、なんの逡巡もなく口にする。



「なんか、玲王くんとこうして歩くの、久しぶり。――うれしい」



 それが素直に嬉しかったのだ。
 試合の後、「今日、一緒に帰れたりとかしますか」とから連絡が来ていたのに、夕方まで待って貰うことになるけどそれでもいいか、と返事をしたのは俺だ。後片付けも部室の戸締まりも終えて(電池切れの凪はばぁやに頼んで寮まで送ってもらうことにした。車まではおぶってやったけど)、それで今に至るが、練習試合後の午後練もミーティングも、全部終わるまで図書室で待っていてくれたは、けれどその目にちっとも疲労を浮かべてはいなかった。指摘した俺に、「今日、すっごいドーパミン出てるかも」って首を傾げるその仕草は、いつもののものだった。



「でもね、午後はちゃんと勉強もしたんだよ。皆瀬さんに教わったりしてね――あ、皆瀬さんもさっきまで付き合ってくれてたの。一日付き合ってもらっちゃった」



 サッカーの脳からそれ以外に切り替えるのは、少し時間が要る。どうしてもその日の動きや思考を脳が反芻してしまうし、映像は網膜にこびりついていて簡単に離れないから。でも、それはもそうだったのかもしれない。「や、でもやっぱり試合がすごかったの! ほんとにほんとにすごかった!」って、話がサッカーに戻ってきたのだから。



「さっきからすごいしか言ってねえ」



 そう笑った俺に、は「ね、語彙なくなっちゃった!」って素直に口にする。そういうところ、飽きずに、好きだな、と思う。真っ直ぐでねじ曲がってないところ、正しく愛されて育ったが故の残酷なまでの無垢さ。時折それは眩しすぎるきらいがあるけれど、傍にいると、ひなたにいるみたいで。
 千風が先に口にした通り、今日の駄々田との練習試合は完勝と言っても良かった。欲を言うなら、もうちょい点は欲しかったけどな。でもそこは流石全国常連の強豪校だ。格下と見下していた俺達が先制点を取ったことで動揺はしていたが、そこからの立て直しは俺の想像よりも早かった。次は同じやり方じゃあ勝たせちゃくれないだろう。まあ、何回やっても俺達が勝つとは思うけどさ。
 俺の立てた作戦はちゃんと通用したし、ファウル紛いの行為をされても得点に繋げる凪の身体能力は抜きん出ていた。他の部員連中も、最低限、作戦通りに動けるだけの力をつけていてくれた。反省点はいくつかあるが、どれも修正可能範囲だ。父さんの望んだ結果にならなかったことだけでも御の字だった。
 不意に、が呟いた。「でも」って。さっきまでとは少し違う、感極まったような、感情の詰まった声が、俺との間を埋めるように落ちて行った。



「ほんとにすごいって思ったんだよ」



 試合終了のホイッスルが鳴ったとき、真っ先に凪の背に飛びついたのは俺だけじゃない。ハイタッチを求めた俺に、面倒そうにのろのろと腕を上げた凪のそれに勢いよく手の平を打ち付けて、他のやつらともひとしきり喜び合って、それからを探した。フェンスを握りしめて俺を見ていたは、隣に皆瀬を伴って、泣き出しそうな顔をしていた。もしかしたら本当に泣いてくれていたのかもしれなかった。「おめでとう」ってその口が動くのを見ていた。それだけで俺は、どうしてか、報われたような気がしたのだ。
 背負ったリュックサックが跳ねないように肩紐を両手で掴みながら、地面に敷き詰められたタイルを一つ抜かすように、は一歩分だけ飛ぶ。靡いた髪の先を、無意識に見る。



「凪くん、どんな姿勢からでもシュート打てるのびっくりした……! ボール、生きてるみたいだった。あれで未経験なんてとんでもないよ、玲王くんが言ってた通り、ほんとに天才なんだって思った」



 凪を褒めるの言葉に、少しも胸が焦げ付かなかったとは嘘でも言えない。でも、「だろ?」とそれを肯定した俺も、嘘ではないのだ。凪は天才だ。俺の夢を叶えるために必要な存在で、俺の宝物だ。「凪はすげーんだよ」ただ俺は我儘だから、には俺だけを見てほしいと、腹の底で鈍く反射するくらいの気持ちで思っただけで。
 でも、は「でも、玲王くんもすごかった」って言った。俺自身もはっきりとは認めていなかったものを、は掬い上げてくれた。



「あんなに囲まれてるのに、凪くんに向かってドンピシャなパス出せるんだもん。駄々田の選手からボールをバンバンカットしたのもすごかったし、ドリブルだって足にボールがくっついてるみたいだった。作戦もちゃんと立ててたんだよね? 多分、それが上手く嵌ったんだろうなって思った。なんか、ドキドキした。全部、魔法みたいだった。すごくかっこよかった、玲王くん」



 思いも寄らなかった言葉に、一瞬面食らう。
 嬉しくなかったわけじゃない。ただ、が俺の動きをそこまで見ているとは思わなかったのだ。



「神様みたいだった!」



 サッカーに対して知識がなければないほど、人は直接の得点となるシュートの方に意識を奪われる。試合の後、皆瀬が凪をすごいすごいと称賛していたように(美人の皆瀬にデレデレする部員たちとは違って、凪は全然、どこ吹く風だったけど)。だってそうだと思っていた。別に、それで良かった。
 胸の内側がむず痒くなって、顔に出そうになる。「魔法でも、神様でもねーけどな」会話に間が開かないよう口にした言葉に、一歩前を歩いていたはぱっと振り向いた。屈託のない子供みたいな、ひたむきな眼差しをしていた。



「そう、だから余計すごいの! 全部玲王くんの努力で、玲王くんの技術で、玲王くんの力なの。すごかった。キラキラしてた。わーってなっちゃった!」



 だから、今度こそ言葉に詰まったのだ。
 の言葉に、喉の奥が痛くなる。歩き慣れたはずの遊歩道。の輪郭が光に滲んで、溶けかかっていた。空は光と夕焼けが混じり合っていて、目を凝らせば、多分星の一つや二つは見つけられるくらいの明るさだった。ぬるい風が、ジャージの隙間を縫うように、心地よく吹いていた。



「玲王くんがずっと頑張ってたことがきちんと形になったのに、感動したんだよ、すごく」



 ――に認めてもらったって、何か変わるわけじゃない。
 分かっている。だけど、それでも嬉しかった。今、見届けてもらえていることが。寄り添ってもらえていることが。親がしてくれないことを、は俺にしてくれていた。
 俺を見ていてくれた。
 それだけでこんなに胸が震えるなんて、子供みたいだな。



「また試合あったら、応援に行きた――わ、ぶッ」



 言いかけたの顎を持ちあげて唇を塞いでしまったのは、ほとんど無意識だった。
 遊歩道は道路に面していたけれど、等間隔に植えられた木々が全ての視線を遮っていた。俺が手を放したせいでの自転車は楢の木に倒れかかって、からからと乾いた車輪の音を響かせていた。すぐ傍の街灯が点滅を始めて、の頬を緩く明滅させていた。そこにくっついていた髪の毛を、指の腹でなぞって落とす。長くそうしていると、強張ったの身体から、ゆるゆると力が抜けていく。酸素を求めて薄く開いた唇に、もう少しで舌を入れてしまいそうだった。――我に返って、やめたけど。
 唇を離す直前、それでも名残惜しくてもう一度だけそれに軽く触れた。びくりと震えたの肩は細くて頼りなくて、だけどそれがどうしようもなく愛おしい。ため息を吐きながら肩に額を押し付けた俺に、は「わ、な、なに、どうしたの、玲王くん」って動揺しながらもそのままでいてれる。
 がいると、息がしやすい。
 深く呼吸をすると、疲弊した脳や身体が微かに痺れる。その痺れは、俺を正しく動かしてくれる。



「――ありがとな、



 掠れた声に、は少しだけ間をあけて、「ありがとうは、こっちの台詞、だよ」と、呟くみたいに口にした。互いの欠けたものを補うみたいに、俺達はいたのかもしれなかった。
 だから、凪とがいてくれるなら、何にだって打ち勝てると本気で思っていたのだ。例え本当に認めてほしい人たちに俺を認めてもらえることがなかったとしても、どれだけの障害があっても、進む先に底なしの地獄が待っていても、何だって。