07
正直、サッカーのことは良く分からない。
十一人でやるスポーツだってことと、ボールをゴールに入れたら得点が入るってこと。最後まで同点だった場合はPKで勝敗を決することくらいは知っているけれど、本当にそれくらいで、ほとんど門外漢なのだ。――高校サッカーだと四十分で前半が終わるってことは、この前調べて初めて知った。プロよりも多少短いとは言え、四十分でやっと半分って、ものすごく大変なスポーツだと思う。あんな広いコートを走り回って、集中力は切らさず、虎視眈々とゴールを狙うなんて、私だったら十分でも難しいもの。そう思うと、やっぱり玲王くんってすごい(勿論、凪くんも)。
図書室の壁にかかった時計にちらりと目線を送る。練習試合は十時半から、って話だったから、まだ三十分は時間があった。図書室の窓からはサッカー部のコートは見えないとは言え、時計に向けていた視線を窓の向こうにやってしまったのは、やっぱりどうしても落ち着かなかったからだ。
向かいの席で予習をしていた皆瀬さんが私の様子に気がついて、「さん、落ち着かないねぇ」って、からかうみたいに目を細めた。その手元にあるノートには相変わらず流れるような美しい字が並んでいて、ともすれば見惚れてしまいそうになる。
この日図書室の自習席には私たち以外他に生徒の姿はなく(サッカー部が練習試合をするってこと、だから全然伝わってなかったんだと思う。もしも皆の知るところになっていたら、休日の校舎でももっと大勢の人の姿があったはずだから)、こうして声を出しても、誰かから咎められるようなこともなかった。内緒話でもするみたいに口元に手を添えて声をひそめたのは、だから、癖みたいなものだ。
「全然落ち着かない……! すごくそわそわする。勉強なんか集中できないや……」
「練習試合でそんなになってたら、公式戦だともっとヤバそうだね」
「わー、公式戦……! そうなったら緊張で爆ぜるかも……」
「あは、爆ぜちゃうんだ」
皆瀬さんには、本当に感謝している。玲王くんがサッカー部に入ったことをいち早く聞きつけた彼女は、練習試合があることを私の口から聞くや否や、「じゃあ一緒に応援行こうよ!」って、わざわざ予定を空けてくれた。「一人だと行きづらいでしょ」って。本当にその通りで、私は皆瀬さんが提案してくれなければきっと直前まで自意識過剰に人の目を気にしてうだうだ悩んで、最後の最後でこっそりコートを覗きに行くくらいしかできなかったと思う。それで「最初から見に来ていたら良かった!」って後悔していたんだ、絶対。
感謝を込めて両手を合わせたら、「拝まれてる?」って、皆瀬さんは笑った。皆瀬さんは笑うと目尻が下がって、益々可愛く見えた。
皆瀬さんが予習に戻ったのを受けて、私もそれで、解きかけの数式に目を落とす。だけどそうしていても数字と記号がぐるぐる回って、ちっとも整理できなかった。本当に緊張しているのだ。今回の練習試合はおじさまが手を回して実現したものだって玲王くんから聞いていたから、余計に。
青森駄々田高校。全国常連の超強豪校で、県内では敵なし。全国大会でも毎年上位に食い込む、県内外から優秀な選手が集まる実力派揃いのチーム。
高校サッカー大好きおじさんを自称する男性のブログには、「今年も文句なしのAランク」って書かれていた(特にキャプテンの「舐岡くん」の実力は飛び抜けていて、彼は高校サッカー界でも屈指のFWなんだって)。去年の基本フォーメーションはこうこうで攻撃パターンはどうこうで、ってたくさん説明されていたけれど、専門用語が多すぎて解読を諦めたのは記憶に新しい。兎に角、駄々田は強いのだ。
駄々田高校が東北で圧倒的な強さを誇っているっていう事実は、その経歴から見ても疑いようのない事実だった。彼らは明らかに、白宝高校のサッカー部よりも優れているのだ。勿論それが、去年までの白宝高校のと比較して、という意味であるとは言え。
おじさまは、その駄々田高校に勝てって玲王くんに言っている。
駄々田に負けるようならこれ以上の時間の浪費は無駄であると。サッカー選手の夢は諦めろと。そして、自分の後継者としての自覚を持って生きるのだ、と。
だから玲王くんは、今日駄々田高校に勝たなくちゃいけないのだ。一回でも負けたらおしまいの公式戦と、じゃあ、それの一体何が変わらないって言うんだろう? 玲王くんの後ろは、いつだって断崖絶壁だ。それがたったの一度だとしても、敗北は、玲王くんの夢を呆気なく終わらせてしまう。
そう思ったら、やっぱり胸がぎゅうっとなって、息がしにくくなってしまった。シャーペンを置いて、さっき皆瀬さんを拝んだときと同じように手を組んで、祈る。どうか、どうか玲王くんが勝てますように。これからも夢を追い続けることができますように。例えマネージャーとして傍にいることはできなくても、それでもやっぱり私は玲王くんの恋人として、彼が夢を追う背中を見続けたかった。応援がしたかった。玲王くんの笑顔が見たかったのだ。
私の緊張とは裏腹に、窓の向こうに広がる空だけはすっきりと晴れていて、それだけが救いだった。
ミーティングで作戦を確認してから軽めの柔軟とアップで身体を温める。目を離すと凪はそれですらサボるから、なるべく俺の隣、目の届くところに置いておく。怪我でもされたら困るからな。
雲はそれなりに出ていたが、天気の良い日だった。仕上がりも上々。部員連中も俺の立てる作戦を実行できるくらいには上手くなっているし、相手チームの研究だってばっちりだ。半年もの間元イタリア代表の名監督から戦術をみっちり学んだ俺は今回の作戦にだって自信を持っているし、何より俺には凪がいる。例え全国常連の相手だろうと、負ける要素なんて一つもない。……は心配してたっぽいけどな。昨夜送られて来た、爆速で神楽鈴を振る犬のお祈りスタンプを思い出して、笑いそうになる。
「――今日は頼むぜ、凪」
他の連中がパス出ししているのを抜け出した凪に声をかけると、凪はぼんやりとした目をこちらに向けて、「うーん」と、肯定なのか否定なのか判然としない声音で返事をした。試合が午前のせいで、まだ半分寝ぼけているらしい。軽くチョップすると、「いで」と凪は声をあげる。
「作戦は前教えたまんま。凪はゴール狙える位置で俺のパスを待ってりゃいいから」
「……前も言ったけどさあ、ほんとにそんなんでいーの?」
「いいよ。お前は俺だけを信じてサッカーをしろって」
凪の目が俺の言葉を受けて、ゆっくりと瞬く。
覇気のないこの男は、だけど間違いなく天才なのだ。大勢の連中の積み上げてきた血の滲むような努力を、凪は一足飛びで超えていく。その様を見ていると、背筋が粟立つような感覚があるのだ。恐怖なんかじゃない、これは間違いなく、興奮だ。
俺がこいつを世界一だと証明してやる。そのための道は俺が整える。夢を、俺達の手で叶えるんだ。
コートの外で声がする。少し前に駐車場の方でバスのとまる気配があったことを思えば、恐らく駄々田の生徒たちのものだろう。
揃いも揃って日焼けした、鍛えた身体の男たちが明らかな敵意を持ってこのコートに足を踏み入れたのは、それから数分後のことだった。