02



 いつも通り部屋で課題を片付けていたら玲王くんから着信があって、慌ててスマホを手に取った。お風呂もあがって、髪や肌の手入れも済んだ夜半だった。この問題が終わったら寝る準備をしようと思っていたのに案外苦戦してしまって、問題集と睨めっこしたまま思いきり眉間に皺を寄せていたときだった。
 突然画面に浮かんだ「御影玲王」の名前に、珍しいな、って思う。だって玲王くんは大抵、「よ、おつかれ」とか、「これから電話してい?」とか、メッセージでそういうワンクッションをくれる人だったから。だからよっぽど急を要するのか、或いは重大なことがあったのかもしれない。例えばおじさまと言い争いになったとか、その結果、見過ごしてもらえていたサッカーに関する全てをおじさまに潰されてしまったとか――。
 嫌な想像にお腹がすっと冷える。「は、はいです!」上擦った声でスマホを耳に押し当てた先で、だけど玲王くんの声は酷く明るかったのだ。ここ最近の玲王くんからじゃ、ちょっと考えられなかったくらいに。



「よ。ごめんな急に。今大丈夫か?」

「ぜんぜん大丈夫……!」



 勉強中だったのか。眠くはないか。そういうことを私に尋ねる玲王くんの声は、分かりやすく弾んでいる。ウキウキしている、って言った方が正しいのかもしれない。その声色にちょっとだけ安心して、スマホを机の端っこに置いてからスピーカーに切り替えた。カーテンの閉め切られた室内に、玲王くんの声が響くのが、私は好きだった。
 解いていた問題を一旦諦めて、問題集を閉じる。まだ中身の半分残っていたマグカップに手を伸ばして、温くなった紅茶に口をつける。



「でも、急にどうしたの? 何かあった?」

「ん? やっぱ分かるか?」

「うん。なんだか玲王くん、嬉しそう。……あ! もしかしてサッカー、すごい人が見つかったとか……!?」



 思いつきを口にしてしまったけれど、玲王くんの機嫌がいい理由ってこれしかない気がする。
 玲王くんは二年生になってサッカー部に入ってから、ずっとサッカーの才能を持った誰かを探していた。運動部だけじゃなく文化部まで覗いて、自分の夢を一緒に追いかけてくれる人を求めていたのだ。それがとうとう見つかった、って考えると、玲王くんが前触れもなく電話をしてきたことも、こんなに嬉しそうにしているのも、全部説明がつくのだ。
 想像通り、玲王くんは「ああ」って、熱を帯びた声で肯定した。いつもの自信に満ちた、玲王くんの声だった。



「見つかったんだよ、センスもズバ抜けて良くて体格も良いやつ! 俺が望んでた逸材!」

「え、すごい! とうとう見つかったんだね……! おめでとう~……!」

「ん、あんがとな。……でもそいつの名前聞いたら、多分、ビックリすると思うぜ」

「え?」



 玲王くんの言葉に首を傾げる。ビックリするような人? 言われてもちっとも想像がつかない。自慢じゃないけれど、男の子の交友関係は狭いのだ。クラスの男子だって、話したことがない人がまだまだたくさんいるくらいなんだから。
 玲王くんはだけど正解をすぐに教えてくれる気はないみたいで、私は考えこんでしまう。ビックリって、でも、なんでだろう? バスケみたいにポンポン得点が決まる競技じゃなくちゃ性にあわないって言っていた宮前くんや梶原くんに、やっぱり眠れる才能があったとか? そうじゃなかったら、文化祭でお世話になった調理部の三浦くんが実はサッカー経験者だったとか。唸りながら色々挙げても、玲王くんは笑うばかりで答えてくれない。じゃあ、去年同じ学級委員だった一個上の先輩とか、一年生のときに同じクラスだった他の誰か――。記憶を昔の方から辿っていったせいだろう、私が隣の席の男の子の存在を思いつくのが、最後になってしまったのは。
 脳裏を過ぎったのは、器用にボールを返していた去年の球技大会だった。



「………………もしかして、凪くん?」

「そ! 凪! 凪誠士郎!」



 凪誠士郎。
 玲王くんの口から飛び出したその名前を先に出したのは私の方だったのに、脳に染みこむまで時間がかかってしまったなんて、鈍臭すぎて笑えない。
 でも、上手く飲み込めなかったのだ。あの凪くんが玲王くんと一緒にサッカーをやる姿が、全然想像つかなかったのもあって。
 いつも朝はギリギリに登校して、学校にいる時間のほとんどを寝て過ごす凪くん。テスト中ですら居眠りしていたくらいなんだから(お陰で国語、赤点だったみたい。今日のお昼休み、それで先生に呼び出されているのを見かけた)、そのやる気の無さは最早筋金入りなんだろう。表情が全然変わらなくて、何を考えているのか分からなくて、でも頭がすごく良い不思議な男の子。去年彼が球技大会で、目立たず得点を重ねていたことは覚えているけれど、あの時だって自ら進んで参加していたようには全然見えなかった。そんな彼が、サッカー?



「凪くんってサッカーするの……!?」



 バレーのコートの中ですらほとんど動こうとしなかった彼が、サッカーコートを走り回る姿なんて、だってちっとも想像できなかったのだ。
 つい口に出してしまったその疑問に、玲王くんはからっと明るく笑う。



「一応頼みはしたんだけどな。ちゃんとした説得はこれから。――ま、なんとかなるだろ」



 さっき解けなかった問題を前にしたときよりももっと深い皺を眉間に刻んでしまったのは、凪くんのやる気のなさを痛いほどに知っているからだ。
 玲王くんと、凪くん。二人が並んでいるところを考えても、上手くいかない。噛み合うのかな? どんな不可能をも可能にしてしまう玲王くんであっても、あの凪くん相手じゃ一筋縄ではいかない気がする。だって口癖が「めんどくさーい」なんだもん。運動なんて、彼からしたらきっと「めんどくさい代表」だ。
 でも、それを除けば、確かに凪くんは恵まれた体格を持っていた。球技大会で見かけただけだったけれどバレーだってあれだけ上手だったんだから、きっと運動全般が得意なんだろう。私の知らないところで一体何が二人の間にあったのかはわからない。どうして彼らが出会ったのかも。玲王くんが何をもってしてそこに才能を見出したのかも。それでも玲王くんが凪くんを「逸材だ」って言うんだったら、それは間違いないはずなのだ。
 自分の信念を曲げない玲王くんは、きっとあの凪くんだって自らの内側に引き摺りこんでしまう。――他の人たちみたいに、それが一朝一夕にはいかなくても、絶対に。
 「そうだね」って、なるべく一つ一つの発音に力を込めて口にする。嬉しかったのだ、玲王くんがこうして話をしてくれて。だったら私にできることは、やっぱり「がんばってね」って言うことだけだった。



「応援してるね……!」



 私の言葉がどんな風に玲王くんに届いているのか、私は知らないけれど、それでも玲王くんは少しの間をあけた後、「ん」って短く言ってくれた。それだけで、視界がわって開けて、いろんなものが色づいたみたいに思えたのだ。
 直後「あ、それでさ、事後報告で悪いんだけど」って玲王くんが続けた言葉は、すぐにはちゃんと飲み込めなかったけれど。








「あ、彼女さんだー」

「…………か、彼女さんって呼ばないでもらえますか……!?」

「なんで? 彼女でしょ? あのお金持ちの人の……」

「わー! だめだめ! 内緒にしてって言われたでしょ!?」

「そーだっけ、忘れたー」

「…………!」



 凪くんの言葉が誰かに聞かれてはいないか、慌てて教室の中を見回すけれど、半数ほどが登校を済ませた教室は賑やかで、誰も教室の片隅にいる私たちを注視している人なんかいなかった。胸を撫で下ろしながら咳払いをする。彼女さん、って呼ばれたのがじんわりと嬉しいような気になっても、でもやっぱり、学校では内緒にしていてもらわないと困るのだ。だって私なんか、玲王くんにまだまだ全然相応しくないんだから。
 昨夜玲王くんは、凪くんに私のことを話したって言った。どういう流れでそんな話をしたのかは分からないけれど、「付き合ってる」って、言ったんだって。
 曰く、これから凪くんとは長く深い関係を築くことになるだろうから、だそうなんだけど、例えそうだったとしてもまだ伝えなくたってよかったんじゃないだろうか。だって凪くん、まだサッカーするなんて言ってないみたいだし。お昼休みも放課後も、玲王くんの勧誘に「うん」とは言わなかったみたいだし。――でもそんな話をするくらい、玲王くんは本気だってことなのだ。本気で凪くんを相棒にすると決めたのだ。きっと。ならば、私が口を挟む余地はない。
 凪くんはリュックサックを自分の席に放ると、スマホをポケットから取り出しながらぼやくように口を開いた。「あのさあ」って。凪くんののんびりとした柔らかな声は、教室のざわめきにあっという間に飲み込まれて、それが少し心地よかった。玲王くんとは違う柔らかさのある声だった。



「今朝、歩いてたら長い車横付けされて乗せられたよ。しつこいね、あんたの彼氏さん」

「え、そうなんだ……。やっぱり本気で口説いてるんだね、凪くんのこと……」

「でも俺、サッカーなんて面倒だし、やりたくなーい。あんたから断っといてよ」

「わ、私からそんなことできないよ。応援してるもん……」

「へー、そうなんだ。……ま、夢って言ってたもんね。W杯」



 変わってるよね、あの人。
 そう言いながら、凪くんは横にしたスマホに目を落とす。なんだか難しそうなゲームが起動されたのを横目で見ながら、こっそりため息を吐いた。凪くんも結構変わってるよ、って思ったけど、そんなの口に出せるわけがなかったから、仕方なく飲み込む。
 起きている凪くんとこんなにたくさん会話をしたのは初めてだった。思ったよりずっと話しやすい人だったのにはほっとしたけれど、だけどこの人が玲王くんと一緒にサッカーをする絵っていうのは、私にはやっぱり上手くは思い描けなかった。