07
最近の玲王くんは人材発掘のために学校中を駆けずり回っている。
いくら上手くなってきたって言っても、今のメンバーじゃ全国優勝までの道が見えないんだって。私はサッカーのことはよく分からないけれど、できたら自分くらいにサッカーセンスのある人が各ポジションに一人ずつくらいはいてほしいそうなのだ(となると、三人くらい、ってことかな?)。ありとあらゆる運動部に顔を出して、文化部にも眠れる逸材がいないかをその目と足で確かめてまわる玲王くんは、だけどなかなか上手くいかないって、深いため息を吐いていた。
「運動神経が良いヤツは結構いるんだけどなー」
それでも何人かはサッカー部に引き抜いたって言うんだから、それもこれも玲王くんのカリスマ性があってのことなんだろう。だってそれまで所属していた部活から鞍替えするのって、本人だけじゃなく周囲の負担も大きいものだろうし。恨まれないように立ち回る手腕は、やっぱり玲王くんが持って生まれた才能の一つだと思う。
日曜日の午前中、部活が始まるまでの短時間で悪いけど、って、玲王くんは私の家に来てくれていた。部屋のテーブルに並んで座る私と玲王くんの手元には、いつも通り数学の問題集が開かれているけど、今日はあんまり進んでいない。こうして顔を合わせてお話するのは久しぶりだから、浮かれちゃって、落ち着かないみたいだ。
玲王くんの足の近くで、完全に気を抜いているタマが寝返りを打つ。白いお腹をその手で撫でながら、「相変わらず野生失ってんなーこいつ」って、話しかけるみたいに玲王くんが言う。切り揃えられた爪がタマの毛に埋まるのがなんとなく羨ましくて、ついじっと見つめてしまう。
「あ、そーだ」って玲王くんが言ったとき、だから、ちょっとびくっとしてしまった。
「そういや前から聞こうと思ってたんだけど、のクラスには誰かサッカーできそうなやつっていたっけ?」
「え、サッカーかぁ……。う、うーん……宮前くんとか梶原くんが運動神経良いことくらいしかわかんないかも……」
「あーはいはい、宮前と梶原の球技大会バスケ組な。あいつらバスケは上手いんだけど、サッカーはイマイチなんだよなあ。点がばかすか入った方がテンション上がるんだって」
「そっかぁ……。ごめんね、まだ全然新しいクラスの人たちのことわかってなくて、運動ならこの人! っていうの、わかんないや……」
「や、男子と女子じゃ体育も別だし分かんなくても仕方ねえよ。……それより手、止まってんぞ」
「わー、バレてた……!」
真っ白なノートを指の先でとんとんと叩かれて、決まり悪くなってしまう。「ま、俺がこんだけ話しかけてちゃ問題解くのも難しいよな」って言ってくれる玲王くんの声は、だけどものすごく優しい。
どうにか玲王くんの力になれたらいいんだけどな、って、シャーペンを握り直しながら考える。私がもっと顔が広くて、色んな人と知り合いだったら、何か有益な情報だったり実はサッカーが得意な人だったりを玲王くんに教えることができたかもしれないのに。でもな、玲王くんでなかなか上手くいってないんだから、私ができることなんてやっぱりそんなにないのかも。いろいろ難しい。
こっそり眉を寄せていたら、玲王くんが「よし」って短く言って、立ち上がった。時計を見ると、もう正午だ。
「んじゃ、俺もそろそろ出なきゃだから、行くわ。邪魔してごめんな」
「えっ、もうそんな時間かぁ……!」
「も勉強頑張れよー。わかんないことあったら、送っとけ」
「うん、ありがとう、そうさせてもらいます……! 玲王くんも部活、頑張ってね……!」
あと何週間かしたら、二年生最初のテストがある。最低でも全教科平均点はとりたいところだから、午後からもみっちり勉強しなくちゃいけないし、玲王くんだってこれからサッカー部の人たちと練習をしなくてはならない。
分かってはいるんだけど少し寂しくて、玲王くんの見送りをするのに立ち上がってその背を追いながら、物悲しい気分になってしまった。「ここでいいよ、おばさんに顔見せてから――」その時唐突に玲王くんが振り向いたのに、だから、びっくりしてしまったのだ。だって私、今、すごく情けない顔をしていた自覚があったから。
たった数時間でも、こうして一緒にいてもらえて嬉しかった。時間を作ってもらえて、幸せだ。充分だって思っているのに、どうしても欲深くなってしまう。もうちょっと一緒にいたかったな、って。玲王くんの美しい形をした、アーモンドみたいな双眸の中に、眉尻を下げた私がいる。めちゃくちゃ、めちゃくちゃ重い女! いつだって「頑張ってね」でニコニコ送り出すのが、私の理想だったのに。
でも玲王くんは、面倒臭そうな顔とか、困った顔、全然しなかった。は、って小さく息を出していた。笑ったんだって気付いたときには、玲王くんの大きな手が私の前髪を掻き上げていた。さっきタマを撫でたよりも、酷くやさしい手つきに思えた。丸出しになった額に、玲王くんが軽く口づける。瞬間血とか、皮膚とか毛とか、全部が意思を持って沸き上がるみたいにざわざわして、耳の奥がキンって鳴った。玲王くんの意地悪そうな笑顔が、私の眼前にある。
私の部屋。いつもの、なんてことない、小物ばっかり並んだ部屋。タマに似た毛足の長い白いカバーのかけられたクッション、きれいに整えたベッド、夏帆ちゃんがこの前、バレンタインのお返しにってくれたドライフラワー、そういうのを背負う私の前に立つ、私の恋人。キラキラ、バチバチしていた。玲王くんはいつも私の前で、光そのものみたいだった。
「んな顔すんなって」
またいつでも会えるんだからさ。って、玲王くんは慈しむように優しい声で続ける。全部、夢の中にいるみたいだった。玲王くんは私の頭をわしゃわしゃって遠慮無く撫でて「じゃーな」って短く言うと、そのまま部屋を出て行ってしまう。私はそれを、ただ見送っていた。「あら? 玲王くん、もう帰っちゃうの?」遠くで聞こえるお母さんの声は、まるで膜の外にあるみたいだった。「はい、これから部活があって――」玲王くんの、ちょっと余所行きの大人びた声も。
お見送り、したかったのに、動けなかった。不意打ちだったから、びっくりした。玲王くんにキスされた額は微かな熱を孕んだみたいに、痺れていた。立っていられなくて、座り込む。急に私が座ったものだから、すぐ傍にいたタマがびっくりしたみたいに身体を震わせたけど、尻尾も足も踏んだりしなくて済んだ。
「わ~……!」
玲王くんの恋人になってもう随分経つのに、全然慣れない。いつまでも新鮮にドキドキする。好きだって、会う度に強く思う。
顔がみるみる熱を持ってしまって、困った。立てた膝に顔を埋めながら、さっきの感触を反芻させる。好きだ、すっごく、すっごく好き。玲王くんが迷惑に思っちゃうくらい、玲王くんのことが好き。溢れ出る感情をどうにか抑え込んで目を閉じる。早く明日にならないかな、って、考える。クラスが違っても、同じ授業を受けられなくても、玲王くんの存在が近くにあるなら、それだけでうれしい。
もしも、もしも私がもうちょっと冷静にいろんなことを覚えていたら。
「隣の席の、いつも寝ている凪くん」のイメージに、去年見た彼の記憶が塗り潰されていなければ。宮前くんたちの話をしたとき、そのまま球技大会のことを思い出していたら。そうじゃなくても、あの秋の段階で私が「バレーの男子にすごい子がいたよ」って玲王くんに話していたら。――「たられば」はいくらでも思いつくけれど、でもやっぱり、玲王くんがああして凪くんと出会うのは必然だったと思うから、だから、私が変に余計なことを言わなくたってよかったのだ。
玲王くんは、凪くんをちゃんと見つける。宝物って呼ぶようになる、大切な人を。
玲王くんは凪くんと、それこそドラマみたいな運命的な出会いを果たして、それで、今よりももっとずっとサッカーに夢中になるのだ。
それが寂しくないなんて死んでも言えないけど、でも、私は玲王くんのことをずっと応援するって決めたから、だから、せめて笑っていなくちゃいけないな。
玲王くんは光のひとだった。私の目には、いつもきらきら光って見えていた。