06
部活を終えて家に戻ったとき、から数学の問題が画像で送られてきていたことに気がついた。「忙しいところごめんなさい! 時間があるときで良いので、この問題を解説してもらえませんか……」とのことだが、ノートに書かれたそれはもう解答まで埋められている。どうやら今日の授業で取り扱ったものらしい。
ぱっと見た感じだけど、ちょっと小難しいっつーか、妙に捻った問題だ。あいつのクラス、面白いのをやらせるんだな。考えながら画面に視線を走らせる。数学に苦手意識のあるにはちょっと荷が重いだろう。答えがあるからまだ理解に易いが、そうじゃなかったら俺でも少し考えなければならないかもしれない。
「起きてられんなら後で電話するけど、どーする?」って送ったメッセージにはすぐ既読がついた。「わ~い!」って馬鹿みたいな速度で飛び跳ねて喜ぶ犬のスタンプに、張り詰めていた感覚がふっと緩むのを感じる。この頃気を張りつづけていたのが、無自覚のうちに疲労に変わっていたらしい。――疲れてたんだな、俺。
サッカー部に正式に入ったこの春から、忙しさはこれまでの比ではなかった。自分の練習だけじゃない、部員の面倒まで見なければならないのだ。サッカー部の連中のレベルアップを図るのが無駄だとは勿論感じていないが、それでも「これだけじゃ足りない」っていう、はっきりとした不安があるのは事実だった。
足りない。そう、足りないのだ。
確かに部全体のレベルは底上げされつつある。最新鋭のVR設備や回復に酸素カプセルを使わせている上、部員一人一人に対応した明確なご褒美まであるんだから、そうでなくちゃ困るんだけどな。このまま地道に秋まで練習を積み重ねていけば、地方大会を勝ち抜くことは可能だろう。でも、上手く行って全国大会出場までだ。俺が目指しているのはその先の、「優勝」なのに。「そこそこ上手い」じゃ足りない。俺くらいズバ抜けて上手いヤツが、三人、いや二人でもいてくれればそれで充分なのだ。そうしたら活路は見出される――。
手早くシャワーを浴びて、食事をしながらが送ってきた数学の問題を眺める。頭の中で、どう教えたら伝わりやすいかを整理する。――はこういう時間を俺に使わせるのを申し訳なく思っているみたいだけど、俺からしてみればサッカーでいっぱいになった頭の良い転換にもなるし、そういう意味ではこういう時間も有り難かった。
脳内を埋め尽くす数字が、それまで俺を支配していた焦燥の輪郭をぼかしていく。それをどこか心地よく思うのは、袋小路に立ったとき、一度そこから離れるのも解決策の一つだということを、ちゃんと知っているからだ。
――なんか、こういうのってウィンウィンだよなあ。そう考えながら、サッカー栄養学の第一人者である栄養士さんの考えた食事を、黙々と咀嚼する。
「な、るほど~……?」
は俺の説明にうんうん唸りながらも、問題の考え方に関しては理解したらしい。最初、何を聞かれているのかもわからないって言っていたことを思えば、まあ、上々か。手取足取り、迷子にならないように誘導してようやく答えに辿り着いたときにはもう日付が変わって結構な時間が経っていたが、は明るい声で「ありがとう! なんかわかった気がする!」と俺に礼を言う。
「……ほんとかよ? 明日になったら忘れてんじゃねえの?」
「う、だ、大丈夫だもん……。今玲王くんに言われたことほとんどメモしといたし……。もう一回自分で解いてみるし……」
「そ? これ結構めんどいし、分かんなくなったらまた聞けよー。教えるくらいだったらいくらでもするしさ」
「ええ、そんな、悪いよ……!」
「や、悪くねーっつーの」
思った通り、はいちいち遠慮する。大体、一緒に解いてみて分かったが、この時期の高校二年生に解かせるには意地が悪い問題だ。毎回このレベルで授業を進められたら、程度の理解力しかない生徒はボロボロ脱落するだろう。それはやっぱ、見ていられないのだ、俺だって。
そういうことを口にしたら、は「へへ」って小さく笑った後、素直に「ありがとう、そういう風に言ってもらえるのは、うれしい」と続けた。こういうところ、可愛いよな、と、口には出さずに考える。気遣いを持ちながらも、人の厚意を素直に受け止めるところ。斜に構えた部分がないところ。真っ直ぐな愛情を受けて、ひなたで育ったようなところ。――そんなんだから、心配にもなることもあるんだけどさ。
「……あのね」
実際、その後に続けられたの言葉は、俺の中に生まれた細やかな不安を後押しするような類のものだった。言葉を選びながら、はぽつぽつと話す。
「これね、本当は今日、私が当てられた問題だったの。寝てた隣の席の子の代わりにね、黒板に出て解くようにって言われて。で、むずかしい、どうしようって困ってたら、その子……凪くんがパッと起きてね、私の代わりに解いてくれたんだあ。……すごいよね」
問題が解けたら安心して眠くなってしまったのか、先よりも幾分か柔らかい声音だった。「すごいよね」の部分が殊更優しく聞こえたのは、きっと気のせいではない。
「ありがとうって言ったら、『なにが?』って言われちゃったんだけどね。でも、ほんとにびっくりした。私なんかより全然頭良いんだもん。やっぱり白宝はすごいねぇ……頭の良い子ばっかりで、恐れおののくね……」
いや、おののくなよ、だって頑張ってるだろ。得意な教科だってあるじゃん。それ以前の発言を聞かなかったことにしてそう言いたかったけど、どうしてもつっこみたい気持ちがあとからあとから湧いて、言葉に詰まるのだ。
これ、寝起きで解けるのやべーだろ。「頭良い」の枠、超えてね? とか。ていうか、そもそもその「凪」ってやつが当てられた問題だったんだから、代わりに解いてくれただの、ありがとうだのは、違うんじゃねえの、とか。そりゃそいつも「なにが?」って言うだろ。が感謝する必要は一ミリもない。――言いかけたのを全部飲み込んだのは、それを口にしたら嫉妬深い男の文句にしか聞こえないんじゃないか、っていう危惧があったからだ。
仕方ないから、一旦全てを押し込んで「、もー眠いだろ」とだけ尋ねた。は益々気の抜けた声で、「……ねむい、かも」と短く答える。それにちょっと笑って、「もう寝ろよ」って言えたのだけは、よかった。きっとには、俺が薄らやきもきしていたことはバレなかったと思うから。
同じクラスじゃないって、やっぱなんつーか、色々心配だ。別にその凪ってやつがに好意を持っていてそういう行動を取ったとは思わないが、見えないところで誰かと交流を深めているって考えるだけで、正直面白くはないし。こういうとき、恋人っていう関係を表に出してないことの弊害が出るんだよな。……がオープンにはしたくないって言ってる以上、どうしようもないんだけど。
「……うん、じゃあ、そうするね、そろそろ寝る。玲王くんも疲れているのにありがとう。……だいすき」
そう思っていたのに、半分寝ぼけたにそう言われただけで、全部どうだってよくなるのだ。
一瞬言葉に詰まりかけたけど、「……ん、気にすんな。ゆっくり休めよ」とだけ言って、が通話を切るのを待った。「おやすみなさい……」とふわふわした声がスマホの奥に消える。スマホを机に放って、前もあったな、これ、と、胸に生まれるむず痒さを消しきれないまま考えた。眠くて思考が定まらなかったが「大好き」って零してくれたこと。まだ俺達が付き合いはじめて間もなかった、俺の誕生日。
机の上に鎮座したペンギンのマスコットを視界に入れて、指でつつく。そういえばに、そっちのクラスにサッカーが得意そうなやつがいないか聞こうと思っていたのにすっかり忘れていたと、のリュックについているのと同じ、とぼけたペンギンの顔を見ながら考える。
もう五月になろうとしていた。焦燥ははっきりと俺の中にあるのに、が今までと変わらずに俺の傍にいてくれているおかげか、それが苛立ちに変質することはなかった。それが俺には有り難かったのだ。ともすれば、長く吐き出した呼吸の終わりが震えそうになるくらいに。