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 玲王くんは先日、正式にサッカー部に入部届を提出したらしい。
 二年生の春に突然入部して、現状では到底達成し得ないと思われる「全国制覇」なんていう目標のために周囲を巻き込むなんて、玲王くんじゃなかったらきっと許されなかったと思う。鬱陶しがられるか、そうじゃなかったら無謀を笑われるのがオチだ。でも玲王くんは本気だったし、それを実現に導くための力もあった。去年の夏からずっとその牙を研いで、「先」を見据えて動いていた。今のサッカー部のメンバーに対してどう行動すれば彼らがついてくるかも、きちんと考えていたのだ。自分自身の、サッカーに関するありとあらゆる技術を磨きながら。
 サッカー部の意識改革のために具体的に玲王くんがどういうことをしたのかは、だけど私は教えてもらってない。曰く、皆に「特大のにんじん」をぶら下げたそうなんだけど、その仔細は知らないのだ。



「男子高校生のヨクボーなんて、は知らなくていいって。大体くだんねーんだからさ」

「くだんねーの?」

「おーおー、くだんねーくだんねー」



 欲望って単語でまず真っ先に思いついたのが机に突っ伏して爆睡している凪くんの姿だったのだから、最近の私の意識が凪くんに向いているのは紛れもない事実なのだろう。誰に怒られてもどこ吹く風で眠っている凪くん。お腹が空いたら授業中でも平気でパンを貪る凪くん。珍しく起きていても「めんどくさーい」が口癖の凪くん――。玲王くんとは全然別の意味で、彼は私の意識の淵に引っかかっている。
 そんな今の私にとっては凪くんこそが欲望の権化だったけれど(でも、彼の場合は欲望よりも本能っていう方が近いのかもしれない)、彼が「普通」から大きく逸脱しているのも分かっていたから、だから一旦凪くんのことは頭の片隅に追いやった。玲王くんの言う「サッカー部員の目の前にぶら下げた特大のにんじん」は、恐らくもっと分かりやすい、即物的なものなんだろう。
 サッカー部の中心に立った玲王くんは、そうしてその強すぎる影響力と求心力でもって、部員全員のモチベーションと実力を底上げした。勿論それには御影コーポレーションの御曹司っていう肩書きと財力がついていたからっていうのもあるんだろうけれど、私の目から見てもその勢いは凄まじく、畏敬の念さえ抱いてしまったくらいだった。玲王くんのこういうところ、きっとおじさま譲りなんだろうな、って思ったけれど、胸にしまっておいた。この頃の私は、自分の夢のために持てる力を惜しまず使う玲王くんの後ろ姿を、ただ眺めていただけだった。
 今のところ、玲王くんがサッカー部に入ったっていう情報は大きく広まっていない。彼らが今のところ学校に併設されたサッカーコートではなく、御影の施設で活動することが多いせいだからなんだと思う。自分のために開発させた例のVRラボを、玲王くんは惜しみなく部員に開放しているのだ。最新の設備と技術を使っての練習は、部員のモチベーションを上げるのに最適だったらしい。「面白いくらい上手くなってるよ、あいつらも」そうスマホの向こうで笑う玲王くんの声は、気概に満ちている。
 玲王くんがサッカー部を全国優勝に導こうとしているってことは、だけどいずれ、皆の知るところになるんだろうなあ。
 そうなると、玲王くん目当てのマネージャー志望の女の子がわっと押し寄せるんだろう。近くで玲王くんの勇士を拝めるなんて言ったら、誰だってやりたいに決まってる。今のところマネージャーはいないって玲王くんは言っているけど(元々いなかったんだって)、最終的には引く手あまたの状態になるんだ、絶対。玲王くんにタオルを渡したり、サッカーのお話をいろいろしたり……あとはユニフォームを洗ったり、スポーツドリンクを作ったり、差し入れをしたり、とか? 部活のマネージャーなんてドラマとか漫画くらいでしか知らないから、この妄想が正しいのかは、ちょっと自信がない。
 でもそういう先々の想像をしてお腹が痛くなってるなんて、格好悪すぎて、玲王くんに打ち明けることすらできないな。
 サッカー部のために時間を費やす玲王くんとの通話時間は、最近、目に見えて減っている。寂しいけど、玲王くんが夢中になって夢を追いかけるその後ろ姿を見るのは、寂しいのと同じくらい、ううん、それ以上に、ずっとずっと嬉しいから、私はそれでも構わなかった。








「じゃあここの問題を凪――おい、凪、起きなさい」

「…………凪くん、呼ばれてるよ…………!」

「………………んが」



 いつもより気持ち少し強い力を込めてシャーペンのお尻を凪くんの腕に押し付けたら、凪くんはびっくりしたみたいで、ごん、って机に頭を打ち付けた。その鈍い音に私までびっくりしてしまって、「ご、ごめん……!」って小声で謝ったけれど、とうの凪くんから反応はない。
 もう五月になろうとしていた。アーチ型の形をした教室の窓から差し込む光は枠にくりぬかれたみたいにいくつもの四角形を作って、窓際の、私と凪くんの机の上に落ちていた。凪くんの色素の薄い髪がその光に透けて、きらきらして、綺麗だった。――こんなときでなければ。
 今年の数学の先生は、ちょっとおっかない。予習復習はしてきて当たり前、指された問題は正答できなければちくりと……どころかしっかりと苦言を呈される。だから私も数学はとりわけ時間を割いて取り組んでいたのだけど、やっぱり難しいのだ。進度も速ければ分かっている前提で進められてしまう。授業で扱うのも、少し癖がある問題が多い。実際今先生が凪くんに解いてみるよう言ったのだって、どこかの大学の過去問らしく、眺めていてもとっかかりすら掴めなかった。予備校通いを始めたって言っても、それで苦手な単元がどうにかなるんだったら世の中の全員が秀才だろう。要するに、私は相変わらず数学ができなかったのだ。ついていくので精一杯だった。
 先生が、ぴくりともしない凪くんに対して大きなため息を吐いたとき。それから、おろおろしていた私とばっちり目があってしまったとき。嫌な予感は、短い時間の中で二回訪れた。うわあ、って、ほとんど反射で思ってしまう。次に先生が言う言葉を正しく想像するのは、あの問題を解く労力の百万分の一くらいで済んだから。



「じゃあ、かわりに出てきて解きなさい」



 でも、この問題はちょっとどころか、すっごく困るのだ。
 「はい」って言ったつもりが、嫌が全面に出過ぎて、「ひゃい」になってしまった。教室の空気が私に対して同情的なものに変わったように思えたのは、私の都合のいい勘違いだろうか。でも、きびしい。どうせ黒板の前に立ったって、最初の一行すら書けないに決まってる。だってちっとも思いつかないのだ。先生だってこの問題に関しては私が完答することまで期待はしていないだろうけれど、それにしたって少しもわからない。とっかかりもない。頓珍漢な定理を引っ張り出して、「はあ?」って言われたら一生立ち直れない。皆からも「馬鹿」のレッテルを貼られるんだ(それはまあ、間違いじゃあないんだけど)。こんなことになるなら、もうちょっと普段から色んな問題を解いて、引き出しをたくさん作っておくべきだった――。
 半泣きで立ち上がりかけたそのときだった。今まで完全に眠っていた、隣の席の凪くんが、突っ伏していたその身体をゆっくりと起こしたのは。
 長い前髪の下でその目を擦りながら、彼は黒板をちらりと見る。「あー……」って、その声が漏れ聞こえてこなければ、私は多分、今度こそ席を立ったと思うんだけど。



「…………せんせー」



 長身に相応しい長い手がゆるゆるとその頭上に伸びるのを、隣の席から見ていた。ライトグレーの制服の袖が、重力につられて僅かに下がる。上着の内側に着ている黒いパーカーの袖が、そこからはっきりと覗く。



「俺、それ解けるかもー……」



 ぼんやりした、まだどこか輪郭の定まらない声だった。
 彼は私を、一瞥もしなかった。ただ先生が返事をするよりも先にふらりと立ち上がって、黒板の方に向かって行った。眠たかったのか、途中、他の子の机に何度かぶつかりながら。黒板の前で寝癖のついた頭を一度掻いて、凪くんはチョークを手にする。
 凪くんがそうして黒板に書き出した数式が正しいのかどうか、私には最後まで分からなかった。でも、「おおー……」って、どこからともなく聞こえてきた小さな歓声も、先生が口を挟まないのも、ぜんぶ、それが正答の証左であるように思えた。やがて導き出された解答に、先生が「やるじゃないか。よく思いついたな」って感心したような声を出す。文句なしの完答。慌ててノートに写すけど、家に帰ってじっくり考えても、理解できるか怪しい。
 いつも眠ってばっかの凪くんは、本当は、すごく賢い人だったらしい。席に戻ってきた凪くんに「あ、ありがとう凪くん……!」って言ったら、凪くんは不思議そうに首を傾げて、「? なにが」って言うだけだった。それからすぐに彼は机に突っ伏して眠ってしまったけど、その日先生が凪くんを咎めることは、もうなかった。