03



 仲の良い夏帆ちゃんたちとまた同じクラスが良かったとか、玲王くんと一緒に授業を受けたかったとか行事のあれこれをやりたかったとか、欲を言えばキリがないけれど、そういう「上」を望まなければ、新しいクラスも決して悪いものではなかった。
 皆瀬さんは私と一緒にお弁当を食べてくれるし、一年生のときにこんな要領の悪い私に親身になって数学を教えてくれた霧島さんや、皆瀬さんと元々顔見知りだったって言う枝森ちゃんって言う女の子もそこに混ざってくれる。明朗快活で美人な皆瀬さんと一緒にいるおかげか男女問わず声をかけてくれる人もたくさんいるし、玲王くんとよく話していた宮前くんや梶原くんは早速クラスの中心になって皆を笑わせたり仕切ったりしてくれるから、新年度特有の、お互いがお互いを探り合うような独特の空気感は呆気なく消え去った。懇親会と銘打った日曜日のボウリング大会も(参加者、なんと九割!)、大層盛り上がった。だから、居心地は良かったのだ。物凄く。



「担任がちょっと暑苦しいのがね~」



 ちょっと毒舌な枝森ちゃんがそう言ったのには「確かに……」と思ったけれど(実際一番前の席の子はたまに汗が飛んでくるらしい。ちょっと机を下げていたのを見て、皆に同情されていた)、だから、皆が「このクラスで一個気になるもの」を挙げるとするんだったら、それだった。
 玲王くんのいない教室に欠けがあるように思えていたのは最初だけで、うちのクラスはそういう一個体として、良い感じに完成している。誰かが誰かを毛嫌いしているとか、グループの境がくっきりしすぎていてちょっと排他的とか、そういうのはなくって、温いさざなみの届く波打ち際にでもいるみたいに平和。学級委員も今年は立候補してくれる人が男女共にいたし、まだ先の白宝祭の話で盛り上がれるくらいには仲が良い。
 ただひとり、凪誠士郎くんっていう男の子の存在を除いては。



「じゃあここの和訳を凪……。…………凪!」



 ちょっとおっかない英語の先生の声にビクッと肩を震わせたのは、机に突っ伏して寝ている凪くんではなく、隣の席の私だった。
 凪誠士郎くん。去年球技大会で、チームメイトにどやされていた男の子だ。
 あの時眠たげだった瞳は教室にいると開いていること自体ほとんどなくて、彼はその長身を窮屈そうに折りたたんで、いつも机に突っ伏して眠っている。あんまりにも堂々としているものだから早々に見切りをつけて放っておく先生もいるんだけど、初老に片足をひっかけている英語の竹内先生は、まだ諦めていないらしい。
 もしも私たちの席が前の方だったら先生も席まで直接来て彼を起こすのかもしれないけれど、ここは最後列。ごちゃごちゃした机の隙間を縫って教室の後ろまで行くのは「非効率」みたいで、先生はいつものように隣の席の私に視線を寄越した。これはそう、起こせ、ってことだ。
 正直、これには毎回「う……」って思う。だって、私凪くんのこと、良く知らないし。たまたま隣の席になっちゃっただけで、きちんと顔を合わせてお話したこと、一回もないし。他の皆が思うだろう、このクラスにおいて気になること、って言ったら「大量に噴き出て時折飛び散る先生の汗」だと思うけど、でもそれは「皆の」だ。こと凪くんの隣の席である私は違う。私は遠く離れた先生の汗よりも、隣の席の凪くんの方が気になっていたし、その対応にちょっと困っていた。
 居住まいを正して、引き攣った顔をやや俯かせながら、シャーペンのお尻で凪くんの、ブレザーに包まれた腕をつんつんつつく。最初は机を叩くだけだったんだけど、彼はそれじゃ絶対起きなかったから、そうせざるを得ないのだ。……それでもほとんどの場合、反応はないんだけど。
 でも今日は、彼にしては珍しく眠りが浅かった方らしい。閉じられた瞼がぴく、と動いたのに、縋るような気持ちで声をかける。



「凪くん……! 凪くん、おーい、指されてるよ……!」

「…………んが」

「起きて~……! また個別で課題出されちゃうよ……!?」

「んにゃ…………ねむい、きつい……。俺のかわりにこたえといて……」

「そういう問題じゃないんだ~……!」



 それを許してくれる先生なんて、多分どこを探してもいないと思う。……まあ結局、起きない凪くんを飛ばして私が該当箇所を答えることになる、っていうのはままある話なんだけど。
 私の必死のつっつきも虚しく、その日も凪くんが身体を起こすことはなくて、最終的に私がその分の和訳をすることになってしまった。予習していたからなんとかなったけど、毎回こうだと結構しんどい。でもそのしんどさを、朝から夕方までのほとんどを机に突っ伏して、移動教室すらもままならない凪くんに切々と訴えることができるほど、私は自己主張できるタイプの人間ではなかった。








「はは、そりゃ災難だったな」



 おつかれさん、って柔らかい声で言ってくれる玲王くんの声に、ほっと身体の力が抜ける。
 私が予備校に通い始めたおかげでなかなか一緒に帰ることができない分、電話ではつい雄弁になってしまうのだけど、玲王くんはそんな私を咎めたりはしない。一応勉強しながらだから、あんまり喋ってると「勉強ちゃんと進んでんのか?」って確かめられたりはするけれど。



「うん……ほんとに凪くんていつもすやすや寝てるから、私まで眠くなるときある……」

「いや、そこはつられんなよ」



 スマホ越しの玲王くんが軽く笑うのに、私もちょっとだけ笑った。眠気とかだけじゃなくて、こういう笑い声にもつられてしまうらしい。影響を受けやすいんだろうか、私って。
 でも、凪くんには特につられちゃうんだよね。春ってあったかいし、窓際の席って午睡には丁度いい塩梅の日差しが差し込むし。お弁当を食べた後の授業に古典とかがあると、ほんとに危険だ。先生の穏やかな声が段々呪文とかお経に聞こえてきて、意識がじわじわ遠のいていくんだもの。隣で堂々と眠っている凪くんがいると、その眠気も五割増しくらいにはなってしまう。
 部屋の隅っこで丸くなっていたタマは、夢でも見ていたんだろうか。突然「ぴ」って高い声で鳴くから、思わず振り向いた。無防備な白いお腹にちょっとだけ笑って、机の上に置いたスマホに改めて視線を落とす。夜の、十一時。降り積もるみたいに静かに堆くなる通話時間は、いつも私の胸をぽかぽかにしてくれる。
 さっき解き終わった問題に貼っていた付箋を集めて、無意識にグラデーションができるようにノートの上に貼り直す。その付箋を指先で撫でながら、「そういえば玲王くんはサッカー部、どうだった?」って、話題を変えた。まだ勉強に戻りたくなかったのもあるけれど、玲王くんとお話がしたかった。



「あー…………」



 でも、玲王くんの声色は芳しくない。
 二年生になってVRでの特訓期間を終えたらしい玲王くんは、とうとう白宝高校サッカー部の改革に取り組もうとしていた。おじさまに納得してもらうため、サッカー部を全国優勝に導くことが玲王くんの当面の目標であるわけで、玲王くんがサッカー部の現状を把握することは、その第一歩だ。それでまずは見学に行く、とは聞いていたんだけど。
 でも進学校に貼られがちなレッテル通り、白宝高校は部活方面ではそんなに優秀じゃない。武を切り捨てて文に走る、っていうか。実際サッカー部じゃなくたって、運動部が全国大会に出場した、なんて話はとんと聞かなかった。だから多分、想像通りだった、ってことなんだろう。



「…………ま、こっから何とかするっきゃねーよな」



 明言はしなかったけれど、その言葉の裏に何が隠れているのかは私でも分かった。だけど「玲王くんなら何とかできるよ」って言ったのは、その場限りの励ましなんかじゃなく、本当にそう思ったからなのだ。
 そのための才能も、人望も、環境も揃っている玲王くんができないことなんてきっとない。サッカー部の人たちがどんなに……その、上手じゃなくても、やる気がなくても、玲王くんだったら絶対にどうにかするに違いない――なんて、なんだか崇拝しているみたいで、でも、ちょっと気持ち悪いかな。
 そう思ったんだけど、玲王くんは少しの間を空けた後、はっきりと笑った。からっとした声だった。太陽に当てすぎてぱりぱりになってしまったシーツみたいに、つきぬけるくらいの清々しさがあった。



「そーだな」



 手の平くらいでも、ううん、指先くらいでも、玲王くんの力になれたらいいなって私は思っている。



「あんがとな、



 だから、わ、と思ったのだ。ありがとうって言われたことが、心の底から嬉しくて。
 たったそれだけで心臓が大きく音を立てた。口を押さえなきゃ、もしかしたら、変な声が出ちゃっていたかもしれない。でも、私、玲王くんに何て答えたら良いんだろう? 「ど、どういたしまして……!」って首を捻りながらも口にしたら、スマホの向こうで、やっぱり玲王くんは笑った。