02
「さん、おはよー」
登校直後、スチール製の下駄箱の蓋を閉めて、上履きに履き替えたタイミングで名前を呼ばれた。振り返った先にいたのは、今年も同じクラスになった皆瀬さんだ。
「皆瀬さん~! おはよう~!」
慣れ親しんだ一年生の下駄箱と二列違うってだけで、なんだか妙に落ち着かない気持ちになっていたものだから、皆瀬さんに会えてほっとする。思わず駆け寄ったら、皆瀬さんもその眦をそっと細めてくれた。
「また同じクラスだね~。よろしくね」
「うん! こちらこそよろしく!」
「さんいてくれて良かったよ~。他に仲良い子、皆ばらけちゃってさ」
仲良い子!
そう言われて、わ、と思う。仲良いって思っていてくれてたんだ、って。つい頬を緩ませながら「私も夏帆ちゃんとリサちゃんとバラバラになっちゃったから、皆瀬さんがいてくれて安心したあ」って素直に言えば、皆瀬さんもくすぐったそうに笑ってくれた。
二年生、新学期。
何度「進級」を体験しても、毎年新鮮にどぎまぎしてしまう。昇降口や、教室に向かうまでの廊下。少し景色が違うだけで、自分が全然別の場所に来てしまったみたいに思えて。
今まで四階まで上らなくちゃいけなかった階段は三階までで良くなった。四月の光は白んで眩しくて、生まれ変わったみたいに清々しい。この、馴染みきらない空気みたいなの、ドキドキするけど、好きなのだ、案外。
「でも、離れちゃったねー」
教室までの階段を上りながら、皆瀬さんがぼやくように呟いた。
誰と、とは言わなかったけれど、そうやって大事な部分をぼかすときの皆瀬さんが何を言いたいのかは、私にもわかる。要するに、「玲王くんと離れちゃったね」ってことだ。
なんて答えるべきかちょっと考えて、それから、素直に「うん」って頷く。
「離れちゃった……」
「ね。クラス多いし、選択授業とか被せたところでそんな上手くいかないよねえ。……私もまた一緒になりたかったんだけどなー。…………あっ! そういう意味じゃなくてだよ? 普通に、普通にね?」
慌てる皆瀬さんに、ちょっとだけ笑う。わかるよ、大丈夫だよ、って。
実際、でも本当に「わかる」のだ。
玲王くんがクラスにいたら、絶対絶対楽しい。恋人だからとか、好きな人だからとかじゃなくて。玲王くんって澱んだ空気を溶かして、いろんな「通り」をよくしてくれる。玲王くんがいれば大抵の問題は些細なものになるし、クラスも一本太い芯が入ったようになる。一年生のあのクラスが最後の最後まで問題なく、楽しく、温かいままでいられたのは、間違いなく玲王くんの存在あったからこそだった。文化祭も、球技大会も、なんてことない日だって全部全部楽しかった。本当は二年生も一緒がよかった。
玲王くん本人には、決して後ろ向きなことは言えなかったけれど。
「私もほんとは、一緒がよかったんだあ……」
天井を仰ぎながらそう言った瞬間、丁度前を通りかかった教室で、わあって盛り上がるような声がした。入り口にぶらさがるプレートを確認しなくても玲王くんの教室だって分かったのは、誰かが「玲王様~!」って叫ぶ声を耳が拾ったからだ。
壁一枚挟んだ向こう側に、はっきりとした熱がある。「おー、皆よろしくなー」って言う、耳に馴染んだ良く通る声が届いたのが、何だか妙に不思議で、胸が変に跳ねた。同じ教室にいられないなんて、へんなの。玲王くんと違うクラスってだけでそんな気持ちを抱くなんて、贅沢な違和感だ。
隣を歩く皆瀬さんと、つい目を合わせる。ちょっとしてから、どちらともなく笑ってしまって、でも、それになんだか安心した。
一緒がよかった。でも、仕方ない。これからは玲王くんの二つ隣の教室で、私なりに頑張らなくちゃいけないんだから。勉強も、学校生活も、全部全部。
リュックの肩紐をぎゅって握りしめて、揺れるペンギンの存在を感覚だけで確かめた。背筋を思いきり伸ばしたら、窓から差し込む光が丁度目に当たって、泣けるくらいに眩しかった。
新しいクラス、どうだった? って。
本当は直接尋ねたかったけれど、が通い始めた予備校の時間と被っているのに気がついて、練習前、電話はせずにメッセージだけ送っておいた。でも、数時間経った今も返信はまだないらしい。ロッカールームの真ん中にあるベンチにスマホを放って、Tシャツに袖を通す。
練習、早く切り上げすぎたかな。もうちょいボールに触っておくべきだったか。――だけど先日、とうとう最高難度のコクリツくん(例のVRのアレだ)をもクリアしてしまった俺は、個人練習よりも次のステップを考えなくてはならなかった。次の目標――全国優勝のための布石を打つのだ。
そのためにはそろそろ本格的に、うちのサッカー部をどうにかしなくてはいけない。あの、超進学校に相応しいヘボサッカー部のレベルアップを図る。設備も、そのための資金もいくらでも出せるし、成功報酬さえあれば部員を懐柔してある程度の戦力を底上げすることはできるだろうが、とは言えサッカーが一人でやるスポーツじゃあない以上、どっかで行き詰まるだろう。せめて俺レベルのポテンシャルを持つ人間が二、三人いてくれれば良いが、都合良くそんな逸材が転がっているとも思えない――。
スマホが振動した気配があって、目線をやる。液晶に浮かんでいたのは、の名前だ。どうやらの方も予備校が終わったところらしい。「おつかれさま!」のスタンプに続く形で、短いメッセージがぽんぽん送られてくる。
「クラス、いいかんじだったよ! 皆瀬さんと席が近くてね、ラッキーだった! あと、皆瀬さんと顔見知りっていう子とか、何人か紹介してもらえたの。 楽しくやれそう!」
それから、「やったね!」のスタンプ(最近が気に入っているらしい、猫みたいなキャラクターがバンザイで飛び上がっているものだ)。少し心配だったが、上手くやれそうならよかった、と思う。何かあったら助けるつもりではいるとは言っても、同じクラスでない以上、どうしたって限界はあるから。心の中で皆瀬の存在に感謝しながら、ベンチに腰を下ろす。返信のためのメッセージを打ちこみながら、足を組む。
心配事は、まあまあ尽きない。
恋人としての贔屓目もあるかもしれないが、はそれなりに可愛いし、誰にでも優しい。俺と付き合っていることを表沙汰にしていない以上、勘違いした男がにちょっかいをかけることだってないとは言い切れなかった。そういうとき、鈍感なははっきりと拒否することもしないだろう。「まさか、○○くんが私のこと好きになるわけないじゃん」って暢気な顔で笑うのが、容易に想像できる。でもな、あいつと同じクラスになったバレー部のあの辺とか、ありそうなんだよな、そういうの。「そういう勘違いをしかねない男」の顔を幾つか浮かべる。めんどくせえな、と、ちらりと思う。
あの辺は気を付けろよ、と言うべきか、黙っておくべきか。でも、あんま狭量な男だと思われるのも、嫌なんだよな。
さっきまでサッカー部のことで悩んでいたはずだったのに、のこととなると同じくらいの重さで物事を考えてしまう。少し悩んで、「隣の席誰だった?」って、当たり障りのないことだけ質問しておいた。既読はすぐについたのに、返事は妙に遅かった。多分、言葉を選んでいたんだろうとは思うけど。
「凪くんていう子。窓際の席だから、隣は凪くんだけだよ」
凪。
――凪?
言われても、パッと顔が出てこない。男バレのあのへんじゃねえな、っていうのだけはとりあえず分かったから、こっそり胸を撫で下ろした。俺がそれに何かを返す前に、「玲王くんはクラスどんなだった?」ってメッセージが届いて、それで俺は、「凪」のことを頭から消してしまう。
もしもこの時俺が、サッカーのための相棒探しという意味もこめた上で、もっと突っ込んでに「凪」のことを聞いていたら。そうすれば、もしかしたらもうちょっと俺達が出会うのは早かったのかもな、って、後になって思うことにはなるけれど、でも、この時点でそれを嗅ぎ分けられるほど、俺の嗅覚は優れちゃいなかった。