01
「あ、あぁあ……」
両手でスマホを握りしめているせいで口の端から漏れ出る声を抑えることができなかったけれど、ここが自分の部屋でなかったら、唇を噛んで無理矢理耐えたとは思う。多分。
番号は暗記していたから、間違いではなかった。私の分と、夏帆ちゃんの分、リサちゃんの分、それから玲王くんの分。数人分の出席番号を覚えるくらいは、いくら私でもできないことではなかったから。
それでも縋るように何度も目で追って、確認する。名前はなく、数字と英語だけが並んでいるのは、個人情報の保護のためだ。そうしていると、高校の合格発表を彷彿とさせた。あの日も私は、祈るように自分の番号を探していたっけ。さっきまでは重なっていたように思えた心音が、だけど今はすっかりやんでいる。
消しカスの挟まったノートや参考書、シャープペンシルが転がる机の上は、毎日きちんと片付けているはずなのに、春休みに突入して随分経つせいかやや乱雑だ。夏にお父さんがくれたマグカップは、ぬるくなったカフェオレが半分くらい残ったまま机の奥の方に置かれている。――数日前、手前に置いていたそれに指が引っかかって、床に中身を零してしまってからは、置き場所に気を遣うようになったのだ。
実際、今それを自分の身体から離れた場所に置いておいてよかった。そうじゃなかったら、つっぷした勢いでマグカップを倒してしまっていたかもしれなかったから。
「わあぁぁあ~っ……!」
手の平のスマホの中で開きっぱなしになっているPDFファイルをそのままに、もう一度吐き出す。
三月の終わりだった。クラス皆で開いた「一年間お疲れ様の会」(文化祭の打ち上げでも使わせてもらったファミレスでご飯を食べて、その後にボウリングに行った)も数日前に終わって、私たちは高校二年生っていう、新しいステップに進もうとしていた。その第一歩になるのが、今このスマホ上に表示されている、新学年のクラス発表だったのだ。
一年時の学籍番号と新しくなった学籍番号だけが表示されたそれは酷く分かりづらかったけれど、それでも何度も確認すれば、「それ」が間違いないことくらい分かる。こんなことになるなら、学校まで行って、貼り出されたものを見れば良かった。どうせ自転車に乗っちゃえばすぐそこなんだから。風が強いからってスマホからで済ませちゃうんじゃなくて。そうしたらきっと、クラスの誰かとわあわあ言いながらクラス替えの悲喜交々を共感できたのに。
だけどまさかこんなことになるなんて、一体誰が予想しただろう。もう一度、確かめるようにスマホを覗き込む。それでも夏帆ちゃんやリサちゃん、そして玲王くんともクラスが離れてしまったのは、何度見返したって間違いではないみたいだった。
「ば、バラバラだぁ……」
そう、見事にバラバラだったのだ。
本当に、こんなんだったら学校に行けば良かった。学校に行けばきっとちゃんとした用紙が貼り出されていて、玲王くんたち三人以外の、例えば皆瀬さんとか、別のグループでも仲の良い子たちとかがどんな風に分けられたか、一目瞭然だったのに。もういっそ今から行こうかな。これから雨になるらしいけど。行ったところで益々打ちひしがれることになってしまうのかもしれないけれど。
半分くらい思考停止に陥った私を覚醒させるように、だけど、そのときスマホに浮かんだ名前があった。
御影玲王。
恋人からの着信を報せるそれに慌てて飛び上がる。勢いのままに立ち上がったせいで机の天板裏に思いきり足をぶつけてしまったけれど、今は痛みも曖昧だった。
「よ。おつかれー」
スマホの向こうで、慌ただしく動き回るような物音が聞こえる。
だけど、外特有の喧噪とか風の音、不特定多数の足音なんかはちっとも聞こえてはこないから、恐らくは家にいたのだろう。「おつかれさまっ!」と上擦ったような声に、サイドボタンを押して音量を上げた。
今さっき発表があった、新学年のクラス分け。あれをがまだ見ていないってことはそうそうないだろうが、一応「クラス替えのやつ、見たかー?」と尋ねておく。車の窓の向こうを流れていく景色は、もうすっかり春だ。
春。高校二年。
時間はあっという間に過ぎ去って、その分だけタイムリミットも近づいている。そう思うと焦りが芽生えてしまうのも事実だ。ワールドカップで優勝するため、は最終目標として、その数歩手前の目標に向けてやらなければならないこと、手を回さなければならないことが多すぎる。今日だって、これから練習が控えていた。――でもやっぱ、そんな中でもの声くらい聞く時間は欲しいのだ。俺だって。
「見た……ッ」
苦々しい、渋い声。見えないけど、多分眉根をぎゅっと寄せて、目を瞑って、苦虫を噛み潰したような顔をしているんだろう。
あんまり聞いた事の無いの声色に思わず笑えば、スマホの向こうで「笑い事じゃないよーっ……!」と焦ったように言われる。
選択授業の兼ね合いとか成績とか現段階の志望校とか、クラスを分けるのに様々な事情はあるだろうが、それでもなんとなくとは一緒なんじゃないかと思っていたもんだから、そうじゃなかった今、ちょっと肩すかしを食ったような気分だった。俺だってそうなんだから、落ち込んでいるかもしれないと思ったのだ。
「……玲王くんももう見た?」
「おー、見た見た。クラス、離れちまったな」
「ね、離れちゃったね……。夏帆ちゃんとリサちゃんとも別のクラスだし、どうしよー、ってなってた……」
だけど二年連続で同じクラス、なんて、ははなから期待してなかったのかもしれない。俺よりも種山さんらと離れてしまったことに落ち込んでいるように見えて、彼氏としてはちょっと腹が立つ。
「でも、皆瀬とは一緒だろ?」
微かに浮かんだ苛立ちを飲み込みながら口にした俺に、は「えっ」と短く、だけど明らかに安心したような声を出した。
同じグループではなかったし、種山さんらと違って四六時中一緒にいることはなかったけど、は皆瀬とも仲が良かったはずだ。――まあ、唯一俺との関係を知られているっていう事情もあるんだろうが。それでも一人で新しいクラスに放り込まれるのと比べたら、天と地ほどに差がある。
「ほんと? 私、皆瀬さんと一緒だった?」
「ほんとほんと。あとはー……前と隣の席だった霧島さんも一緒じゃね? 男だったら宮前とか梶原とかの球技大会バスケ組……ってこの辺はあんま喋ったことねーか」
「霧島さんも? えー! うれしい! 宮前くんたちは全然喋ったことないけど、二人とも優しいよね。バレーの練習してたとき、ホームランしちゃったボールを取ってくれたことあった!」
そんなん、こっち飛んできたら誰でも取るだろ。思ったけど黙っておく。「玲王くん、もしかして学校に行って見てきたの?」って、が尋ねたからだ。
「私スマホから見たんだけど、それだと番号ばっかりで、玲王くんと夏帆ちゃんたちの分しか分かんなかったんだ」
「や、俺もスマホからしか見てないけど」
「えっ、それで皆の分までわかるの!? すごい!」
「クラス名簿くらい頭に入るだろ、一年も一緒にいりゃあ」
「う、わ、私は凡人なので……名簿と見比べないとわかんないかも……。もうなんなら今から学校まで見に行こうかと思ってたくらいで……」
「はは、別にそこまでしなくてよくね? どーせそのうちクラスメッセで『ネタバレ注意』とかって、誰かが画像送ってくるって。今日風つえーし、自転車なんか危ねえだろ」
「あー、そっかぁ……! 確かにそうかも……」
そうそう。あのクラス、だってめちゃくちゃ居心地良かったじゃん。学校までクラス発表を見に行った気の利く誰かが、全員に分かりやすい画像を回してくれるのなんか、簡単に想像がつく。「良いクラスだったもんねえ」心を読み取ったようにが言った。名残惜しそうに。
「皆ともだけど、玲王くんと離れちゃうの、すっごく寂しいけど……。でも、こうして電話したりとかできるもんね」
離れちゃっても、がんばるね。って。
その言葉で、喉の奥にあった小さな蟠りが一瞬で消えてなくなったなんて、はきっと知らないだろうけど。
車の外で、春の嵐が吹いていた。これからの俺達を象徴するものでは、それは決してなかった。「ん、そーだな」呟いた瞬間、無意識にスマホを持つ手に力が籠もった気がした。
「なんかあったら飛んでくから、なんでも言えよー?」
そう口にした俺に、は「へへ、ありがとう」って、屈託のない声で笑う。その声があまりにも柔らかかったから、つられて笑った。