「風邪ひくぞ」
玲王くんは自分のマフラーを外すと、それを私に巻いてくれた。私がクリスマスにあげた、カシミヤのマフラー。前触れもなくいきなりぐるぐるに巻かれたものだから、「もが」って、変な声が漏れてしまった。
玲王くんは私の乱れた髪をちょいちょいと直すと、満足したみたいに「よし」って目を細める。相変わらず面倒見の良い人だ。そんな細やかな仕草にすらいちいちドキドキしてしまって、誤魔化すようにマフラーに顔を埋めた。軽くて、全然ちくちくしてなくて、なんだか良い匂いがした。マフラーはもう、ちゃんと玲王くんのものになっていた。それが嬉しかった。
「もう寒くねえ? なんかあったかいの飲むか?」
「平気! マフラーであったかいよ」
「そ? 無理すんなよな」
「うん! お気遣いありがとう」
お散歩って言うけれど、いつもの遊歩道を歩くだけだ。時間も時間だし、そんなに長く一緒にいることはできないだろう。(実際玲王くんはわざわざ家の呼び鈴を鳴らして、お母さんに顔を見せて挨拶をした後、「と少し歩いて来ます。すぐに帰しますんで」って伝えてくれた。リビングから飛び出してきたタマにも、「ちょっとを借りるな~」ってなで回して。ばぁやさんの方には、予め伝えてあったみたいだ。改めて玲王くんと家を出たときにはもう、車は移動されていたから。)例え「少し」でも、けれどそれで充分だった。
夜の空気はしんと張り詰めて痛いくらいだったけれど、襟元からの風が防がれている分温かい。「玲王くんはさむくない?」って聞いたら、「鍛えてるからへーき」って、指を絡められる。もしかして手、繋いでもらえるかも、って期待して、玲王くんの身体と反対側の手にチョコレートを持って万全の態勢でいたはずなのに、いざそうされると心臓が縮まる。
「……相変わらずつめてー手」
ほとんど独り言みたいに零れた声が、私の頭から耳、頬を伝って、肩に落ちる。葉の落ちた木々のシルエットが街灯に照らされて、夜の住宅街に濃く浮かび上がっていた。玲王くんの指先の感触がこそばゆくて、息が上手くできなくて、代わりに反対側の手に力をこめた。麻でできた紐が、手の平に食い込むみたいだった。紙袋の中でチョコレートが微かに傾いた感覚があって、ちょっとひやっとした。
玲王くんは今日、私の知る限りでは両手で数え切れないくらいの回数の呼び出しを受けていた。
クラスの子たちからもいくつももらっていたのを知っている。明らかに義理、っていうのも多かったけれど(皆瀬さんなんか、分かりやすく「そう」だった)、そうじゃないのもあった。そんなのいちいち気にしなくたって良いって分かってはいるのに、「恋人の余裕」なんてものは私にはなくて、昼休みは早々に教室から逃げてしまった。だから玲王くんが「私の知る限り」以上のチョコレートをもらっていることくらい、想像がつく。それこそ、死ぬほどのチョコレート。
…………結局、何個もらったんだろう。五十個? 百個?
ちらりと考えても詮無い疑問が脳を掠めたとき、玲王くんは「ちょっと座んね?」って、ベンチを指差した。玲王くんの誕生日に座ってお話したのと、おんなじ場所だった。頷いて腰を下ろすと、玲王くんはほとんど密着するような位置に座ったから、ひゅ、って息が漏れる。思わず腰を浮かせてちょっと距離を空けて座り直したら、玲王くんは息だけで笑った。いつもの玲王くんらしい反応に安心してしまうくらい、私は緊張していたらしい。
こっそり深呼吸をする。足を組んで座る玲王くんは、私の隣で、じっと私のことを見つめている。――待ってるんだけど、ってその目は確かに言っていた。少なくとも私には、そう思えた。
「れ、玲王くん」
「んー?」
「ええと、今日はほんとにごめんなさい。ご迷惑をおかけしました……。それであの」
繋がれていた手を放して、膝の上に紙袋を一度乗せて、それから改めて玲王くんへと差し出す。
「チョコレート、です……!」
不器用な私が作った、生チョコレート。慣れてない人でも(それこそ小学生でも!)作れるって銘打たれた、簡単なもの。それでも一度失敗したのだと言ったら、玲王くんは笑うだろうか。
でも、ちゃんと形にはなった。料理上手な女の子には絶対に敵わないし、有名なパティシエの作るチョコレートにはひっくり返ったって及ばない。だけど私なりに、玲王くんのことを思って作ったのだ。少しでも喜んでもらいたくて。
「頑張って作ったので、受け取ってください……!」
断られることなんかないって分かっているのに、それでも心臓がバクバクして、耳がキンと音を立てていた。玲王くんの顔は全然見ることができなくて、視界に入ったのはタイツに包まれた自分の足だけだった。
告白でもしているみたいだ。でも、きっと相違ない。紙袋を持つ手は震えていたし、声だって、少し震えていた。玲王くんが好き、ってだけで、私はこんなにも苦しくなる。
紙袋分の重さが両手からなくなるまで、私はだから、気が気じゃ無かった。玲王くんが息の多く混じった声で笑う。顔を上げたとき、だから、呼吸が止まりそうだった。玲王くんの、八の字になった短い眉が、細められた目が、くすぐったそうな笑顔が、寒さのせいか微かに赤らんだ頬が、緩く弧を描いた口元を半分くらい隠した骨張ったその手が、全力で私の頬を殴ったから。
きれいだった。極彩色の夕焼けでも見ているみたいに、目にしみた。
「……すげー嬉しい」
もしも私が魔法使いだったら、今この瞬間を全部小さな箱に閉じ込めて、毎日毎日再生させる。
しんと冷えた夜の空気も、夥しい数の星も、糸みたいな月も、苔の生えた石畳も、少し湿ったベンチも、私に巻かれたマフラーの感触も、髪を撫でる風も、匂いも、玲王くんの噛みしめるような声色も、表情だって、何もかも全部、全部。
頭の芯が痺れていた。ともすれば泣きそうなくらいだった。だから玲王くんが私を見たとき、私は我に返るのが少し遅れたのだ。
「中、見てい?」
「あっ……! えっと」
そんな風に尋ねられて、一体どうして断られるだろう。「どうぞ……!」って手の平で促しながら、その実私は新しい緊張感に身を小さくさせていた。チョコレートを喜んでもらえたのは嬉しい。でも、目の前で見られるとなるとまた別の心配が芽生えてしまう。美味しくなさそうっていうのを顔に出されたら、だって、ちょっとトラウマになっちゃうよ。玲王くんがそういう無神経なことをするタイプじゃないっていうのは分かりきっていても。
ドキドキしてしまって、つい顔の前で両手を合わせる。でもこのドキドキにはどうも覚えがあった。よくよく思い返してみたら、誕生日も、クリスマスのときも玲王くんは私の前でプレゼントを開けてくれていたのだ。
ラッピング(生チョコレートを入れた箱を、さらにリボン付きの巾着型ギフトバッグで包んだのだ)のリボンを解く玲王くんに、「……玲王くん、いつも目の前で開けてくれるね」って言ったら、玲王くんは「からもらったやつだけだけどな」って何てこと無い調子で答えるから、つい言葉に詰まってしまった。
「私だけ?」
それでも口にした問いかけが、ぽっかりと宙に浮かぶ。
リボンを解き終えた玲王くんが私に目線を寄越す。そのときの、ちょっと呆れたような困った笑顔。その瞳に宿った光は、きっと私が玲王くんに向けているものと同じものだ。
「……好きなんだから、当たり前だろ」
――チョコレート、何個もらったのかな。
そのうちの何人が、本当に玲王くんのことを好きでいるのかな。可愛い子も、綺麗な子も、頭がいい子も面白い子もいただろう。玲王くんは彼女たちを前に一度もぐらりとしたりしなかったかな。そんなことばかり考えて、でも大丈夫って嘯いて、馬鹿みたいだったね。
「一番大事に食う」って言ってくれたあの言葉を大事に抱えて、支えにして、でも、だけどそんなのなくたって私は愛されてるって、胸を張って、今だったら言える、多分。
私は魔法使いじゃないからこの夜を箱には入れておけないけれど、それでも、一つ一つ玲王くんとの思い出が増えていく今が、幸せだった。何があっても大丈夫だって思えた。
箱を開けた玲王くんが「うわ、ちゃんとチョコじゃん」って言ったのに、思わず笑う。そう、ちゃんとチョコなんだよ。焦げたブラウニーなんかじゃない。
私と玲王くんの間には連綿と続く、細長い道があった。私たちだけがそれを知っていた。