「……悪いことしちゃったな。忙しいのに、わざわざ時間を使ってもらうことになっちゃうなんて」
下校時、昇降口で偶然出くわした皆瀬さんは、正門へと続く階段を下りながらそう口にする私に「ええ~」って眉を寄せた。
「考えすぎだよ、絶対」
例え玲王くんの名前を伏せていたとしても、教室ではしにくい話題だ。だから必然、皆瀬さんとはスマホを介してとか、教室の外で話すことのほうが多くなる。だからもしかしたら、昇降口で出会ったのは偶々ではなく、皆瀬さんは話を聞こうと待っていてくれたのかもしれない。周囲にクラスの人がいないのを確かめて、校舎を出た直後に身を寄せて、「チョコ渡せた?」って尋ねてくれた皆瀬さんは、素直な好奇心を滲ませた目をしていたから。
皆瀬さんが勧めてくれた動画のおかげで上手く作れたよっていう報告と、それを家に忘れてきちゃったっていう情けない話をした後に漏らした本音に、まさかそんな風に言われるとは思っていなかった。びっくりして顔を上げる。皆瀬さんは真剣な顔で、私のことを見つめている。
「考えすぎ?」
「彼女のために時間を作るのなんて当たり前じゃない? それだけ愛されてるんだって思ってなよ」
「あ、愛されて……」
「さん、遠慮しいなのも良いけど、もうちょっと自信持って良いよ。むしろ学校の外で渡せてラッキーじゃん。周りの目とか気にしなくて良いしさ、イチャつけるし」
「イチャ……!?」
「そうそう」
白宝高校の正門へと続く長い階段を照らす西日が反射して、眩しかった。乾燥した冬の風で頬に張り付いた髪を払う。もうちょっとで口に入りそうだった。足の長い皆瀬さんは最後の一段を飛ばしても、ジャンプしたみたいにはならなかった。体勢がぐらついたりもしなかった。昔一度だけ観た、バレエの劇みたい。振り向いた皆瀬さんの明るい髪の色は、めいっぱいの光を吸い込んだみたいで、きれいだった。
「二人が〝そう〟なんだって分かってから改めて観察してると、結構面白いよ」
お似合い。って。
きちんと仔細を言及しないのは、ここが学校の敷地内で、周囲にたくさんの生徒がいるからだろう。皆瀬さんの言葉が、けれど胸の隙間に差し込まれるみたいに私を満たすから、本当はちょっと泣きそうだった。
玲王くんは、忙しい。
サッカー選手になって、ワールドカップで優勝する。それは「普通」の人からしたら、きっと途方もない夢なんだろう。高校生からサッカーを始めて叶えられるなんて、普通だったら思わない。例えば私が今から世界に通用するパティシエになりたいって思うのよりずっとずっと大変なことだと思う。いくら「普通」じゃない高校生の玲王くんでも、きっとその道は物凄く険しいはずだ。おじさまに反対されているっていうなら、尚更。
だから玲王くんは、自分の時間をたくさんたくさん使っている。友達と遊ぶ時間も、勉強する時間も削ってサッカーに専念している。
「どっか出かけるとか、本当だったらもっと頻繁にできたんだろうけどさ。――ごめんな、あんま構えなくて」
そう玲王くんは謝るけれど、私は平気だった。玲王くんはこまめに連絡をくれるし、電話だってしてくれた。私の話を聞いてくれて、たまに、サッカーの話もしてくれた。私、サッカーのことちゃんと分かってないから、全然イメージできないんだけどね。今はVR(ゲームみたいなやつ)で、難易度を調整しながら練習しているんだって。今度見に来る?って聞かれたけど、邪魔になっちゃいそうだから、遠慮した。ほんとは、ものすごく見たかったのに。こういうのも皆瀬さんは「遠慮しい」って言うんだろうか。……言うんだろうな。
二年生になったら白宝のサッカー部にきちんと入部して、どうにかしてレベルを上げて、全国に行って優勝させて、それでおじさまに認めて貰うんだって。玲王くんのことを知らない人が聞いたら、夢見がちな発言だって思うかもしれない。でも私は、玲王くんだったらどんなことでも可能にするんじゃないかって思うのだ。サッカーをしているところなんか、まだちゃんと見たこともないのに、そればっかり信じている。
玲王くんが挫折することを、私は知らない。諦めたり、放り投げたりすることを、玲王くんはしない。努力を怠らない人だから、だから私はそんな玲王くんの邪魔をしたくない。理解者でありたい。時間を奪うことはしたくない。
「わぁ……」
玲王くんから連絡が来たとき、だから私は、つい声を漏らしてしまったのだ。
二十時にもならない時間だった。いつもだったら玲王くんが、VR練習のために御影コーポレーションの所有するラボにいるはずの時間。「練習終わった。二十分後くらいに家の前出てこれるか?」ってメッセージは、だから玲王くんが、いつもよりも早く練習を切り上げたっていう事実を証明するもので、申し訳なさでどうしようもなくなってしまう。例え皆瀬さんの言う「考えすぎ」で、「人の目を意識しなくて良いからラッキー」だったとしても。
それでも「大丈夫」って返事をして、急いで身支度を調える。どうせコートを羽織るのに、この前買ったワンピースを頭から被った。お母さんに事情を話したり、髪を整えたり、冷蔵庫に入れっぱなしだったチョコレートを準備していた紙袋に入れたりしているうちに二十分なんてあっという間に過ぎ去って、テーブルに置いていたスマホが振動した。
コートに袖を通して、スマホをポケットに突っ込んで、「気を付けてねえ」って間延びした声で言うお母さんに「いってきます!」って叫んで、紙袋を手に玄関を出る。家の門扉の前、そこに横付けされた車のライトが消えたのはその時で、中から出てきた玲王くんは、私の存在を認めるや否や、「お」って明るい声をあげてくれた。それだけで、今日一日の私が抱えていた不安が、全部弾けて消えた気がした。
閉ざされた門を内側から開ける。雲の切れた夜空に、いくつも星が瞬いている。エンジンの切られた車の運転席には、今日もばぁやさんがいるのだろう。薄暗がりで窺えなかったけれど、そちらに向かって会釈をした。
「ごめんな、。わざわざ出てきてもらって」
「えっ、ご、ごめんはこっちの台詞なんだけど……! この度はお手間を取らせてしまいすみませんでした……!」
「いやお手間て。いーよ別に。手間でもなんでもねーっつーの」
「嘘だ……っ! だっていつもだったらこの時間、玲王くんまだ練習してるもん……!」
二月の夜は寒くて、白くなった呼気がふわふわと空を漂って、滲んで溶けていく。玲王くんは私の言葉にちょっと間を空けてから、そっと目を細めた。「いつもなら、な」優しい声だった。包み込むみたいに、ぬくい温度を持っていた。
「今日は調子良かったんだよ。星三つモードのコクリツくん、サクッとクリアした」
「? コクリツくん……?」
「例のVRの練習相手。ムキムキマッチョの。……星三つは一対三でのコート練なんだけどさ、俺がシュート決めれば勝ち」
「一対三? 一度に三人相手にしなくちゃいけないの? ムキムキのマッチョを……!?」
「そうそう。んで、次の難易度に調整し直すのにちょっと時間がかかるんだってさ。舐めてくれるよなー。所長ら、俺が星三つモードをクリアすんの、もーちょい先だと思ってたっぽい。それで今日は強制的に切り上げ。……クリアするタイミングくらい、ある程度予測しとけって話だよな」
「玲王くんの成長スピードが予想以上なんだよ。すごいね……!」
心からの賛辞だったのに、だけど玲王くんはちっとも嬉しく無さそうだった。サッカーの話は終わり、とでもいう風に緩く首を振って、「寒くねえ?」って、私を気遣う。「大丈夫!」って答えると、玲王くんは「そ?」って、ちょっとだけ首を傾げた。
玲王くんは、チョコを受け取りに来ただけだ。皆瀬さんはイチャつける、って言っていたけど、家の前だし、ばぁやさんは車内にいるはずだしで、そんなのできるわけがない。それに早く練習が終わったなら終わったで、玲王くんにはしたいことがあるはずだ。それこそおうちでできるサッカーのお勉強――戦術とか、語学とか、瞑想とか、そういうの――をしたいに違いない。そう思って、持っていた紙袋を「これ」って差しだそうとした瞬間だった。
「あのさ、」
って、少し掠れた声で玲王くんが私の名前を呼んだのは。
玲王くんは、一度だけ目線を落とした。長い睫毛。暗がりでも、近くの街灯で玲王くんの顔はよく見える。吐き出された息は目に見える色をしていた。顔を上げた玲王くんの、つり目がちの目。ありとあらゆるものを全部飲み込もうとする強い光が、大好きだった。
「折角だし、ちょっと散歩でもしねえ?」
夜空は、紺碧だった。小さな星が幾つも瞬いていた。欠けて欠けて、細くなりすぎた月がぶら下がるみたいに浮かんでいて、空気は澄んでいた。だけど、その中でもいっとう玲王くんはうつくしかったのだ。
それだけ愛されてるんだって思ってなよ。
夕方に言われた皆瀬さんの言葉が、不意に脳裏を過ぎった気がした。