チョコレート、置いてきちゃった。
夏帆ちゃんたちにあげようと思っていたものは、ちゃんとリュックに入っている。花の形をした缶に入った、春みたいに可愛いチョコレート。だけど玲王くんのために作った生チョコレートは夜からずっと冷蔵庫で冷やしっぱなしだった。今もきっと、そのまんま。うっかりしていた。手の甲にでも書いておくべきだったのだ。「チョコ、わすれないで!」って。
昇降口で気がついたとき頭の中は真っ白になったけれど、でもよくよく考えたら、私は学校で、一体いつどうやって玲王くんにチョコレートを渡すつもりでいたんだろう。上手く作れるかってことだけに意識が向いていて、そこのところを全然想像していなかった。上履きに履き替えながら気持ちだけが先走って何歩か歩いたけれど、踵を踏んづけてしまって、指を差し込んで履き直す。そうしているうちに、真っ白になった頭が徐々に冷静さを取り戻していく。
玲王くんにあげるなら、人気の無い空き教室とか校舎裏に呼び出すとか、こっそり机に入れておくとか、だったのかな? チョコレートがない今となっては最早こんな妄想に何の意味もないと分かっていながらも、考えてしまう。でも、いくら想像しても難しかった。私のシミュレーションは必ずどこかで何らかの障害に阻まれて、私は誰かに現場を押さえられてしまう。結果私の玲王くんへの好意は皆の知るところとなって、私は肩身の狭い思いをしながら残りの一か月を過ごすことになる。……ただの妄想なのに。
じゃあやっぱり、ちゃんと持って来ていたって持て余していたのかもしれない。やきもきして、そわそわして、チョコレートを出したりしまったりして、結局でろでろにして、ダメにしてしまったかも。だったら怪我の功名っていうか、塞翁が馬っていうか。そう思わないと自分の失態に打ちのめされてしまいそうだった。
階段を駆け上って、いつもより大きい一歩で廊下を歩く。教室の外に出ている女の子が手に持っているチョコレートが目の端にとまって、何だか胸がすうすうする。
「おはよう~……!」
「お、ちゃん来たー。おはよー」
「遅かったね。予鈴もうちょっとで鳴るよ」
「わー、あぶなかった、間に合った……!」
息切れをしながらも何とか教室に飛び込んだとき、玲王くんの姿はそこになかった。いつも玲王くんが肩に掛けているバッグがあるということは、登校はしているんだろう。夏帆ちゃんとリサちゃんに「寝坊しちゃって……!」って言い訳をしながら、自分の席にリュックサックを下ろす。もう義理なり本命なりチョコのやりとりが始まっているのか、教室は微かな甘い香りに包まれていた。もしかしたら誰かが誰かに告白したりとか、呼び出したりとか呼び出されたりとか、あったのかな。あったよね。いつもの時間に登校していれば見られたはずのやりとりを悉く見逃してしまったのかもしれないと思うと、物凄く残念だった。だけどそうしていたら、玲王くんが呼び出されたりチョコをもらうところをたくさん目撃しなくちゃいけなかったんだろう。それはそれで、なんていうかその、好ましくはない。
だけど直接見ていなくても、推測できてしまう時点で一緒だった。バレンタインである今日、クラスどころか学校の有名人である玲王くんの姿が教室にない、ってなれば、どんなに鈍感な人でもその理由は察することができる。恐らく今、誰かにチョコを渡されているのだ、玲王くんは。
覚悟はしていたし、受け入れてもいたのに、いざそういう状況に面してしまうと、何だか奇妙な感覚になる。腹が立つわけでも、悲しいわけでもない。ただ、そっかあ、と思う。その「そっかあ」が生み出す感情を、単に私が言語化できないだけ。面倒臭い女になりたくないのに、胸の真ん中に小さな傷がいくつも走ったみたいで、むず痒い。そして、ちょっとだけ痛い。
スカートのポケットに入れていたスマホが緩く振動する。「チョコ大丈夫だった?」ってメッセージは皆瀬さんからのものだ。顔を上げて、窓際の席からこちらを心配そうに窺っている皆瀬さんと目を合わせる。大丈夫、チョコは完璧。動画を教えてくれた皆瀬さんと、ささらさんとお母さんのおかげ。……忘れてきちゃったけど。そんな思いを込めて、指先の曲がったピースで笑ってみせたら、皆瀬さんはほっとしたように笑ってくれた。忘れてきた、なんて知られたら、びっくりされそう。とりあえず後でまとめてお話しようと思って、なんてことないスタンプを送っておく。その時だ。玲王くんが教室に戻ってきたのは。
瞬間、教室の空気が色を変えたようだった。纏わり付くようなざわめきが全て玲王くんに向かっている気がした。
玲王くんは手には何も持っていなかったけれど、多分、もらったチョコレートは廊下にあるロッカーに入れて来たんだと思う。前の席の男の子が玲王くんを振り返って、「御影、もう死ぬほどもらってんだろ」って言うのに、「さあ、どうだろーな?」って首を傾げながら返しているのが聞こえたから。死ぬほどのチョコレート、ちょっと想像しそうになって、慌てて目を瞑った。
もう少し学校に着くのが遅かったら、廊下でチョコレートを抱えた玲王くんに遭遇したに違いないけれど、自分がそれに安堵しているのか、「死ぬほどのチョコレート」を見ておいて、一旦消化しておきたかったのかもわからなかった。自分の心なのに、なんて難解なのか。一体いつになったら私は胸を張って「玲王くんの恋人です!」って言えるようになるんだろう。そんな未来が今は、霞んで遠い。
玲王くんがチョコをいっぱいもらうのも告白されるのも平気。何があっても大丈夫。そう思っていたはずなのに、結局こんな風に動揺するなんて、私の覚悟が脆弱すぎたのだ。「平気だよ」なんてかっこつけてる場合じゃなかった。あの日の自分をフルスイングで殴りたい。嘘吐くな!って叫びたい。
こっそり吐いたため息は、聞き慣れた予鈴の音にかき消されて、ちょっと泣けた。
本当に本当に申し訳ないのですが、本日玲王くんに渡そうとしていたチョコレートを家に忘れてきてしまいました。お届けさせていただきたいので、放課後おうちに伺って、おばさまにお渡ししておいても良いでしょうか……。
そんなメッセージが届いていることに気がついたのは、二時間目の休み時間だった。
おいおい、と思って、ほとんど無意識にぐるりと振り向く。この前席替えをしたからの席は俺の三つ後ろ、その左隣で、本当だったら直接話せないこともなかった。ただのクラスメイトを装いたいに、そんな軽率なことはできなかったけれど。
自分の席に座っていたは、振り向いた俺にびくりと肩を揺らすと、無言で両手を合わせて俯いた。ごめん、のつもりだろうか。一見謝罪の姿勢とも、居眠りともとれないその姿勢に思わず笑ってしまいそうになる。
からのチョコは楽しみにしていたから、少しもがっかりしてないと言えば嘘にはなる。でもまあ、先に延びただけだしな。学校でやりとりするのもお互いやっぱ気遣うし――は素で忘れてきたっぽいけど。
返事はだけど、口頭じゃなくスマホを介してだ。「ダメ」と短く送った瞬間、教室の前方部分の扉から名前を呼ばれる。ちらりとそちらを見れば、良く声をかけてくる別のクラスの女子たちが立っていた。
「あー、悪い、ちょっと待って」
声を張り上げてから、立て続けに文章を打つ。
ダメ。俺がもらいに行く。時間は後でまた送るから、家にいろ。
送信してから、立ち上がった。ついでにに視線を向けたとき、は何がツボだったのか知らねえけど、口元を押さえて顔を真っ赤にしてスマホの画面を見ていたから、誰にもバレないよう少しだけ下を向いて、笑った。