大切な子だ。
 俺の影にくっついて歩いていた女の子と金色の犬。関わりの薄い時期はあっても、それでも他人にはなり得なかった。ちゃんと恋人になったのが、去年の七月。これまでの日々を埋めるように一緒にいた。同じ教室で、あの遊歩道で、時にはの部屋で。俺の夢の邪魔をしたくないのだと笑うは、俺には酷く健気に映った。



「――ホッホ、よかったですねぇ、玲王坊ちゃま」



 ばぁやは俺の交友関係には、滅多に口を出すことはしない。珍しいことのように思えて、身体の脇に置いていた紙袋に落としていた目線を運転席のばぁやへと向けた。たっぷりとした二つのお団子は、運転をしていても微動だにしない。
 を家まで送り届けたのが、今から数分前。少し離れたところで待っていてもらったばぁやに連絡をして、車に乗ったばかりだった。と歩く遊歩道が、窓の向こうに流れていく。ここらでは珍しく緑の多い高級住宅街が遠ざかって、煌々と輝くビル群が視界の奥に映り込む。あの中の一つに、俺の住むマンションがある。



さまからのチョコレート、確か最後にいただいのは玲王坊ちゃまがまだ……」

「…………それ、だーいぶ前な? よく覚えてるなーばぁや」

「ええ、覚えておりますよ。確かブラウニーでございましたね」

「そうそう。ちょっと焦げてたやつな。……でもも成長してたわ。さっきちょっと見たけど、生チョコレート、めちゃくちゃ美味そうだった」

「ホッホッホ、それは何よりです」

「あいつ、頑張ってるよな。勉強もちゃんとしてるし……さっき聞いたんだけど、二年になったら予備校も行くんだってさ」

「左様でございますか。さまも玲王坊ちゃまと同じく、将来を見据えておられるのですねえ」

「そりゃそーだろ、もうすぐ高二だぜ? 俺達」



 玲王くんもこれからどんどん忙しくなるだろうし、私も玲王くんにばかり頼ってるのはよくないから。先の別れ際、俺にそう話したの顔を思い出すと、少し淋しいような気もするけれど。
 二年生。まだ先のことのように思っていたが、気がつけばもう二月だ。テストが終われば、すぐに進級になる。今のクラスは、それで終わる。
 まだその時が来たわけでもないのに、あっという間だったなと思うのだ。
 がわざわざ外部の白宝を受けると聞いたのが、去年の一月。あの時彼女は、俺と目を合わせることも億劫そうだった。細く繋がった紐を、俺たちが握りあうだけだった時期だった。
 四月、どういう偶然か同じクラスになった。が学級委員になったのを知って、くじを交換してもらってまでその隣に立った。どうにも危なっかしかったのだ。勉強についていけないの面倒を見た。文化祭も、打ち上げも、今思えばのことばかり見ていた気がする。タマのことで子供みたいに泣いた。普段は目立たないようにしているのに、学級委員の引き継ぎやら、球技大会の練習やらは、頑張りすぎるくらいに頑張るやつだった。――そういうところが好きだった。
 大切な子なのだ。
 無意識に吐いた息は、細く、長い。
 もしも俺がサッカーに出会わなければ、あの金杯を見つけなければ、俺はともっと恋人らしい時間を過ごせただろう。あちこちに出かけて、もっと勉強をみてやって、に遠慮させることもなかった。不安な思いにだってきっとさせなかった。キスや、その先のことだってもっとすんなりいっただろう。だけどそれらを全部秤に乗せたとき、それでも俺は現状の「今」の方に満足してしまうのだ。……彼氏として失格なのは、重々承知の上で。
 を不安にさせても、退屈な思いをさせても、それを申し訳ないとは思っても、そして両親から認められることがなくても、それでも俺はワールドカップを目指すことをした自分に後悔はしていない。ただ突き進む。これからだってそうなのだ。今やっている個人特訓を春には終わらせて、新入生が入るタイミングでうちの弱小サッカー部の門を叩く……っつーか、ぶち破って、そんで全国優勝に導く。生半可な道じゃあない。俺の想像以上に、それは手強いかもしれない。の言う通り、これから益々忙しくなるのは間違いなかった。それでも、とすれ違うことも多くなるかもしれないとか、そういうことは心配していなかったのだ、ただの少しも。
 が俺から離れることも、俺がを手放すのも、だって想像ができないから。
 身体の脇に置いていた紙袋に手を伸ばす。厳重すぎるくらいに過度なラッピングを施されたチョコレートにはご丁寧に妙にポップなマヨネーズ型をした保冷剤までついていたらしく、今もなおひんやりとしていた。暖房の効いた車で移動することを考えてのことだろう。それにしたって、なんなんだよこの変な保冷剤、って、つい笑ったその時だ。



「…………ん?」



 チョコレートの箱を結ぶリボンに、メッセージカードらしいものが挟まっていたのに気がついたのだ。
 街灯があるとは言え、薄暗がりの外では視界に入らなかったのだろう。考えるよりも早く、それを引き抜く。手の平に収まるくらいのそれには「玲王くんへ」というの字があって、どきりとした。女子らしい丸い字だ。二つ折りにされていたそれを開いて、目を落とす。さして長くはない文章が、そこにぽっかりと、浮かぶみたいに刻まれている。箔押しになった金色の花。が好きそうだった。玲王くんへ。もう一度書かれた自分の名前が、何か特別なもののように見えて、吐いた息が震える。



 玲王くんへ。
 ずっとだいすきです。
 これからも一緒にいてもらえたら嬉しいです。
 より。



 みとめた瞬間、胸の奥が急に熱を持ったような気がした。喉が痛くなって、一度唇を噛む。一人だったら、もっと分かりやすく何かを口にしていたかも分からなかった。
 部屋に帰ってから口にしようと思っていたチョコレートを、一つ放ったのは、そうでもしないと堪えられそうになかったからだ。
 口の中で、チョコレートはやわく溶けていく。脳にじわりと痺れが広がって、こめかみが痛んだ。けれどそれは、全然煩わしいものではない。



「…………甘」



 無意識に呟いた声は、俺にしては酷く優しい。
 大好きとか、一緒にいてほしいとか、そんなのこっちの台詞だ。離れることなんか、想像していない。四月になって例えクラスが離れても、俺が今以上に忙しくなって、の傍にいられなくなっても、サッカーに今以上にのめりこむことになっても、それでも気持ちは変わらない。その後だって、ずっと。
 どんだけ前に進んでも、行き先が違っても、良いのだ、それで。
 車のシートに頭を押し付けて、軽く目を閉じる。家に着いたら、に電話をしようと考えながら。さっき会ったばかりなのにって笑われるかもしんねえけど、それでも手紙の返事とか、チョコの感想とか、変な形の保冷剤で笑ったこととか、ちゃんと言葉にして伝えたい。そういうのを一つずつ重ねて層にして、その上でお前と一緒にいたいのだ。これからも。
 料理の苦手なが作ったそれは、記憶にあるブラウニーの面影を少しも残していなかった。けれどあの日のブラウニーみたいに、今日口にしたチョコレートの味を忘れることは、きっとない。



 春になる。
 白宝の制服を着たお前と再会して、一年だ。