夢を否定された夏からはほとんど顔も合わせていなかったが、それでも父さんはとの食事会の後くらいから、不在にしがちだった家に戻るようになっていた。
どういう心境の変化があったのかは知らない。以前のように俺を部屋に呼びつけたり食事の時間を合わせたりすることはなかったけれど、時折話しかけてくることがあった。サッカーに一切関係しない、普通の親子がしないような類の、俺にとってはどうだっていい、取るに足らない話だ。けれど互いにほとんど接触を断っていたこの数ヶ月を思えば、それは随分大きな変化に見えた。
父さんは、サッカーに夢中になっている俺を直接制することはしなかった。自分で動かせる分とは言え金も施設も好きに使っている俺が何をやっているか、知らないわけじゃないはずなのにな。けれどだからと言って、考えを改めたわけでもないのだろう。その目はいつも俺を否定して、見透かしているように見えた。俺はあれが嫌いだった。
父さんに同業の人間が集うパーティに誘われたのは、一月の終わりのことだ。
以前まではそういう類のものは決して断らなかったが、今回ばかりは首を縦には振らなかった。その日は既にラボでの練習予定が組まれていたし(御影コーポレーションのバーチャル技術研究所、通称「御影VRラボ」で行っているVRでの特訓だ。段階ごとに難易度が上がっていく一対一から多対一の対戦が可能なバーチャルサッカーゲームで、サッカー脳だけじゃなくて体力や技術も鍛えられて、面白い)サッカーに関係のないことは取り除いていかなければ、全国大会の地区予選に間に合わせるのは難しかったから。
「その日はもう予定があるんだ」
そこに反抗心は決してなかったと言うと、きっと嘘になるけれど。
だって俺が欲しいものは、「そっち」にはない。
「――そうか」
少し掠れた声で、父さんは言った。「それは残念だな」とも。
感情の読み取りにくい目で俺を見る父さんは、いつどこで俺の夢を潰そうかを思案しているようにも見えた。
「玲王くんって甘い物苦手じゃなかったよね?」
リュックサックの肩紐を両手で握りしめながら、隣を歩くは窺うように俺を見上げる。
年が明けた頃から一週間に一度は一緒に下校するという約束はすっかり反故になってしまっていて(の方から「サッカーで忙しそうだし、無理しないで」と言ってくれたのに甘えさせてもらっているのだ。代わりに、寝る前の電話なりメッセージのやりとりは欠かさずしているけれど)、こうして制服姿で二人で歩くのは随分久しい気がした。
今日は一つ段階を上げる予定だったVRラボのメンテが長引いているらしく、それで放課後に少しだけ時間が空いたのを受けてこっそり声をかけた。昼休み中に送ったメッセージに気がついていなそうだったから、すれ違う時に耳元で「スマホ見ろ」って声をかけたせいで、随分びっくりさせてしまったらしい。バレたくない、って言っている割に、俺の送ったメッセージを読んだらしいはわざわざ俺の方を見て分かりやすく嬉しそうにしていたから、本当は少し呆れた。そんなんじゃ勘の良いヤツはわかるんじゃねえの、って。でも、そういうところも嫌いじゃないのだ。俺とはまるで違う生き物みたいで。
そんなが今、俺の隣で微かに緊張を孕んだ表情を浮かべている。
「――甘い物?」
「うん、そう、甘い物……」
住宅街を覆う空にはびっしりとうろこ雲が浮かんでいて、夕焼け空を半分以上飲み込んでいた。とうに冬至も過ぎた今、寒さは増しても日は少しずつ長くなっている。ひっそりとした遊歩道に転がる南天の実は、ほとんどが潰れていて、普段は気にならないその赤が、今日はやけに目についた。
のくれたマフラーに顎を埋めて、引いている自転車が段差に引っかからないように意識しながら、「バレンタインのことか」と脳の片隅で考える。この時期にそれを尋ねられて、そこに結びつけられない人生ではない。
甘い物、平気?
ここ数日で一体何人の女子にそう尋ねられただろう。クラスメイト、昇降口でたまに見かけるだけの先輩、一度も話したことのない他のクラスの女子生徒――それら全てに嘘を吐くのは気が引けた。苦手、って言ったところで、贈られるものがチョコではない別の何かになるだけなのは経験上分かっていたし、むしろそっちの方が困ることが多かったっていうのもある。だったら最初から大人しくチョコレートを受け取っておけばいいのだ。すぐ腐るわけじゃないし、糖分は疲労回復にも良いから、もらって困るもんじゃないしな。
でも、は嫌がるかな。
そんなことを薄ら思いながら「バレンタインだろ?」って聞き返せば、は一瞬言葉に詰まって、それから「うん」って、小さく頷く。分かっていても、嬉しさでむず痒い。にやけそうになって、口元を手で押さえる。
「……、俺にチョコくれんだ?」
「あ、あげるよ! 私、玲王くんの彼女なんだから! でもナッツは苦手~とか、抹茶は嫌~とか、そういうのあるかなあって思って……」
「ないない。……強いて言うなら干し芋だけは無理だけど」
「干し芋? へー! そうなんだあ」
チョコに使うことはなさそうだけど、覚えとこ。
そう言ってはにかむように笑うの鼻の頭は、微かに赤い。
「使うことはなさそう」って言葉を選んだってことは、手作りでもしようと思ってるんだろうか。「できるかできないかって言われたら、できない寄り」そう目を逸らしながら自分の料理レベルを評した、文化祭の頃のを思い出す。それから、昔もらった炭化しかけたブラウニーも。
大丈夫かよ、という気持ちがほんの少しだけ芽生える。それでも、素直に嬉しいって感情の方が圧倒的に大きかった。市販品でもなんでも俺は喜んで食べただろうけど、苦すぎるブラウニーの方が、ずっと好きなのだ。
「……ふうん?」
無意識に漏れた声に、が俺を見た。俺が、が手作りをしようとしていることに気付いたって、も分かったんだろう。リュックサックの肩紐を握る手に力がこもったようだった。横顔でも、その頬が紅潮しているのが分かる。丸い耳朶まで、仄かに赤く染まっている。
「す、少なくとも食べられるものは作れるはず……なので……!」
今度は意地張らないで、ちゃんと難しいところはお母さんにも手伝ってもらうし。レシピも皆瀬さんが誰でもできるってやつを動画で見つけてくれたし、材料も大体揃えたし。一生懸命訴えるについ笑ってしまったけれど、は全然気がついていなかったみたいだ。「だから」ぴかぴかした、宝石みたいな目が俺を見る。その声が震えていたように思ったのは、気のせいだったかもしれない。
「だから、他の子からバレンタインにいっぱいチョコレートもらっても、これは私からもらったやつって、ちゃんと覚えててくれますか……?」
そんなお願いに、不意打ちで腹を殴られたような気がしたのだ。
喉の奥が、ひゅ、と音を立てる。色んな感情が身体の奥底から押し寄せて、せめぎ合って、顔に出そうだった。いや、わかんねえ、少しくらいは出てたかもしんねえ。の前ではいつも、余裕のある人間でいたいのに。
動揺で咽せなかっただけ、でもマシか。掠れそうになる声を咳払いで整えた、そのために口元を隠したのだ――そういうふりをしながら、少し不安そうに俺を見上げると目線を合わせる。本当は、「馬鹿」って言ってやりたかった。額を小突きたかった。そうしなければ誤魔化せる気がしなかったのだ。
は俺が、他の子からチョコレートをもらうことを、きちんと受け止めている。俺が断ることをしないってことも、もらった後で誰かにやるとか、そういったことをしないってのも、全部分かっている。理解してもらえていることが嬉しかった。俺の中にあった痼りが、ゆるゆる解けていくようだった。
の家の、もっと先まで続く遊歩道。人気のないのは分かりきっていたから、自転車を引いたまま、歩くの額に唇を寄せる。やわい髪の感触の奥に、つるりとした額。触れただけのそれに「ひ」って悲鳴をあげるに、目を細める。
「がくれたチョコなんか、一番大事に食うに決まってんじゃん?」
離れる瞬間にそう口にすれば、は片方の手を額に触れさせたまま、声にならない声をその唇から漏らして、やがて顔を覆って俯いた。その丸い後頭部も、華奢な首も、本当は全部、指で撫でてやりたかった。
空は淡い紫と橙のグラデーションになっていて、うろこ雲の隙間から、微かにその色を覗かせていた。枯れ葉を潰す車輪の音が、いつもよりも近くに聞こえる。喉を痛める乾いた風すらも、今は心地よかった。