「皆瀬に見られてた?」



 スピーカーにしたスマホから、玲王くんの声が響いている。
 こうして寝る前に通話をする度、毎回落ち着かない気持ちになるのはどうしてだろう。真っ直ぐな緑道から突然手を取られて、非日常の世界に連れていかれたみたい。半年経ってもこうなんじゃ、一生慣れる気がしない。
 ずっと握っていたシャーペンを置いてスマホに持ちかえたのは落ち着かないっていうのもあったからだけど、片手間にできるお話じゃないって分かっていたからだ。丁度解き終わったばかりのページに付箋を貼ってから問題集を閉じる。机から離れて、窓際のベッドに腰を下ろす。



「うん、そうみたい。それで今日、皆瀬さんとケーキ食べてきたの」

「はあ? ケーキ?」



 どういう流れでそうなるんだよ。そう尋ねられて、思わず自身に眉根を寄せた。確かに今のは話が飛びすぎた。もっとこう、順を追って説明すべきだった。無意識に落とした目は、自分の身体が作ったシーツの皺の先を追っている。
 喫茶店を出て皆瀬さんとお別れした後、今日のことを玲王くんにもお話しておこうと思いながら帰路についたのが今から数時間前。だけど玲王くんは私が皆瀬さんと一緒に教室を出ていたのを目撃していたらしい。家に着いたとき、「なんで皆瀬と帰ってんだよ?」ってメッセージがスマホに届いていたことに気がついて、ちょっと慌てた。「返事が遅くなってごめんなさい。実は色々あって……。今日の夜、お話できたらしたいです」言葉を探しながらそう返信をして、玲王くんと連絡がついたのがついさっきのことだった。
 今日もしっかりサッカーの練習をしてきたらしいのに、玲王くんの声には疲労の一切も滲んでいなかった。私への心配の方が、周辺にはずっと濃く漂っていた。私が「色々あって」なんて意味深なメッセージを送ったものだから、心配させてしまったんだと思う。だから「全然、全然大変ではなかったんだけど」と前置いて、改めて今日のことを一から説明し始めることにした。掻い摘まんで説明するのは、どうにも苦手だったって忘れていた。
 おじさまたちとのお食事会の後、二人で歩いていたところを皆瀬さんに偶然見られていたらしいこと。皆瀬さんはお母さんとお買い物をしていて、車に乗っていたこと。手を繋いでいたものだからお付き合いしていることは誤魔化す余地もなく(そんなものがあったとして本当に誤魔化せたかは定かではないけれど)バレていたこと。だけど私に声をかけたのは、皆瀬さん自身が自分と玲王くんとの距離感について問題がなかったか恋人である私に尋ねたかったからだった、ってこと。それで、ケーキを食べたこと。皆瀬さんが連れていってくれたのは、すごく雰囲気の良い喫茶店だったこと。必要なことからそうじゃないことまで並べる私の話を、玲王くんは時折相槌を打ちながら、辛抱強く聞いてくれた。
 一通り話し終えると、玲王くんは「あー……」ってため息のような音を漏らした。表情まで浮かんでくるような、少し苦々しい声だった。



「……悪い。あんな車通り激しいところで手ぇ繋いだのは迂闊だったな。気ぃ抜いてたわ」

「や、全然……! 手は嬉しかったし、今日学校で何も噂とかされてなかったってことは、皆瀬さん以外の人には多分見られてなかったってことだから……! それに、手はすごく嬉しかったから……!」

「いや、嬉しかったって二回言ってんぞ、お前」

「えっ」



 自分の言ったことを脳内で反芻させて、「ほんとだ」と呟く。スマホの向こうで玲王くんがふはって笑ったのが分かって、ほっとした。私は無意識に、緊張していたらしかった。だって「誰にも知られたくない」って思っていたのは私の方で、玲王くんはそれを尊重してくれていただけに過ぎないって言っても、誰かに事情を知られるっていうのは今回が初めてのことだったから。玲王くんがどういう風に受け止めるのか、私は心の端っこで、少し怯えていたのかもしれない。
 スマホを枕元に置いて、横になる。ベッドのスプリングが軋む音が玲王くんに聞こえてそうだったけれど、玲王くんは「次からは場所、考えて触るわ」ってさらりと言うから、ドキドキしてしまった。「触る」って言葉は、なんだかちょっと特別なものに聞こえてしまったから。「な、なんかその言い方だと、ちょっとえっちだね……!」って思わず口にしたら、きっちり二秒くらいの間の後で「アホか」って言われてしまったけれど。考えなしに言ってしまった言葉なんて、冗談として受け止めて、いっそ笑ってほしかった。恥ずかしくなってしまって、耳まで熱くなる。多分今の会話は、数ヶ月先まで思い出しては私を苦しめる。
 そんな私に対して新しい沈黙を作る玲王くんに緊張感を覚えかけた頃、玲王くんは「……まぁ」って、少し掠れた声で口にした。真剣な空気に、身体を丸めたままそっと息を止める。玲王くんの言葉を、一つも聞き漏らすことがないように。



「――相手が皆瀬なのは不幸中の幸いだったかもな。ああ見えて口はかたいし案外真面目だし、すげえ良いヤツだしさ。信頼できるわ、あいつだったら」



 直後皆瀬さんのことを手放しで褒めた玲王くんに、言葉に詰まってしまったのはどうしてだろう。
 もや、と胸の内側が変に疼くのを、手で押さえる。
 おかしい。前は玲王くんが皆瀬さんを褒めているのを聞いても、こんな風には思わなかったのに。考えこむように、枕に散らばった髪の先を見る。
 皆瀬さんは良い人だ。優しくて、視野が広くておまけに美人で字も綺麗。前も思ったけれど、私が男の子だったら好きになっていただろうなって思うくらい。
 皆瀬さん、私たちのことを知ってびっくりしただろうに、今日だって誰にも言わずに過ごしてくれた。これからは私のお話も聞いてくれるって。(ケーキを食べながら、どっちから告白したのかとか、そもそも幼馴染みっていうよりかは婚約者だったってこととか、聞いて貰った。皆瀬さんは他のお客さんの迷惑にならないように口を押さえながら、「すごい、映画みたい」って目をキラキラさせてくれて、すごく嬉しかったのだ。)
 今日のことを思い出すと、胸がほわほわとあったかくなる。玲王くんと一緒にいるところを学校の人に見られてしまったのは失態だったけれど、それが皆瀬さんだったのは、玲王くんの言うように幸運だった。分かってる。分かってるんだけど、でも。



「おーい」



 顔の前に置いたスマホから玲王くんの声が聞こえて、びくりと身体を揺らす。「はいっ」と口にした返事は、上擦っていた。だから玲王くんも不審に思ったのだろう。「なに、寝てた?」って言うから、慌てて否定する。元々夜はあんまり強くないけれど、玲王くんとお付き合いしているうちに少しずつ宵っ張りになってきた。日付も変わっていないこの時分で、玲王くんと会話も続けられないくらいに朦朧とすることはあんまりない。



「寝てないよ……!」

「ふーん?……じゃあ、なんでボーッとしてんだよ?」



 でも、ちょっとは眠かったのかもしれない。
 だってベッドは柔らかいし、今日は色々あって疲れたし、玲王くんの声は優しくて気持ちいいし。
 そういうことにしておかないと、変なことを口走ってしまった言い訳ができない。



「…………玲王くん、皆瀬さんのことすき?」



 拗ねた子供みたいな声で尋ねる私に玲王くんが「はあ?」って言ったから、我に返ってしまう。
 顔が急に熱くなる。頭は一気に覚醒して、横になっていたのに、飛び起きた。スピーカーだからそんな必要ないのに、混乱してしまっているせいかついスマホを持って耳に当ててしまう。ちがう、ちがうの。玲王くんが皆瀬さんを褒めるから、嫉妬しちゃったとか、そういうわけじゃない。
 頭に浮かぶ言葉はだけど全部言い訳めいていて、ちゃんと外に出て行かなかった。ベッドの上で足を崩すような形に座ったまま、スマホを握りしめる。でも玲王くんは、何も言わない。死刑宣告を待つ罪人の気分だ。窓の奥から救急車の音が響いて、少しずつ遠ざかっていく。そのかわりに、ぱちぱちって、気泡が弾けるよりもずっと大きな、雨粒が窓を叩く音がする。
 ちがうの、まちがえました。
 沈黙に堪えかねて「ち」って言いかけたのと、玲王くんが息だけで笑ったのは、ほとんど同時だった。



「いや、そりゃ普通に好きだけどさ」



 スピーカーにしてたから、大きすぎるその声に、びくりと肩が震える。



「でもに対する好きとは違うだろ、そりゃあ」



 手が震えて、スマホを持っていられなかった。思わず膝の上に置いて、ディスプレイに視線を落とす。通話時間、十四分、五十秒、五十一秒、五十二秒。少しずつ堆積するように増えていくのを、瞬きを堪えながら見ている。一回でも目を閉じたら、嬉しくて泣いてしまいそうだったから。



「案外嫉妬しいなんだな、お前」



 そう笑いを含んだ、だけど優しすぎるくらい優しい声で言われてしまって、抑えられなかった。「そうみたい」って言ったら、我慢していたのが決壊したみたいに泣けてきて、困った。前はこんなことなかったのに。
 今の、すごくずるかった。勝手に拗ねて、やきもちを焼いて、言ってほしい言葉に誘導するみたいに質問をした。皆瀬さんにも、玲王くんにも失礼だ。謝る私に、玲王くんは「んー?」って、曖昧に答えるだけだ。
 パジャマの袖で顔を拭う。ベッドから離れた机の上には、さっきまで私が勉強していた形跡がきちんと残っている。現実はいつだって地続きで、でもちょっとずつ成長しているみたい。
 恋愛って、色んな感情に振り回される感じがする。そう呟いたら、「今更気付いたのかよ」って言われてしまった。反省する私を余所に、玲王くんはスマホの向こうでおかしそうに笑っていた。その声はなんだか、ちょっと嬉しそうにすら聞こえた。


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