歩道で信号待ちをしていた玲王が女の子と手を繋いでいるのを見たとき、物凄くびっくりした。スモークガラスの後部座席は外からは絶対に見えないって分かっているのに、車の窓からのけぞるように離れてしまったくらいには。
運転席にいたお母さんに「どうかした?」と尋ねられ、慌てて首を振る。その実心臓はばくばく音を立てていたし、あんまり見るのも良くないって分かっているくせに、私は彼を凝視していたのだ。
御影玲王。
白宝高校に通っている人間で知らない人なんかいないくらいの有名人である彼は私の同級生で、友人という括りに入る男の子だ。その彼が車のドア一枚隔てたその先で、女の子と手を繋いでいる。
彼女、いたんだ。いないって聞いていたけれど。いや、でも最近できたのかな。だって確か私がそれを尋ねたのは春だった。
「いないし、今はいらねぇかな」
そう目を伏せながら笑っていた玲王が一年近くの時間経過を経て心変わりしていたとしても、何もおかしくない。
あの頃玲王に彼女がいないなら自分にも可能性はあるかもって少しも思わなかったかって言うと嘘になるけど、そういう期待は、玲王の近くにいる時間が長くなればなるほど反比例するみたいに萎んでいった。
だって、脈がない男の子を追いかけるのって、不毛だ。
勿論玲王はすごい人だと思う。御影コーポレーションっていう重圧をものともせず、逆風なんかないものみたいに立ち回る。実力に裏打ちされた自信は揺らぐことがなくて、いつも余裕綽々で笑っている。そういうところ、私は好きだった。一緒にいると私まで自信が持てるみたいで。でも、それだけ。一度萎んだ恋心は、夏の初めの頃には小さな粒になって、知らないうちにどこかに落としてしまっていた。だって手応えが何もないんだもの。私は自分が傷つくことが分かっていて尚も誰かを好きで居続けられるほど、強くはない。
学校のある日で玲王と喋らなかったことなんかないし、たまに勉強会だってするくらいだから、ただのクラスメイトよりは親しい立ち位置にはいるだろう。でも実際は、玲王と仲の良い男の子たちと私たちがつるんでいるだけって言う方が正しい。私たちの輪の中心に玲王はいつもいるけれど、本当は私たちの作る輪の輪郭に玲王が寄り添っているだけだ。玲王は、来る者を拒まないけれど、誰かを「特別」にすることもしない。誰にでも等しく、玲王は自分を分け与える。公明正大。私は玲王のことを、そういう風に思っている。
だから、玲王のあんな顔は見たことなかったな。
学校では決してしない表情だった。隣の女の子の顔を見下ろす玲王は、何だか泣きそうな顔で笑っていた。ほとんど慈しむみたいに。隣にいる子のこと、すごい好きなんだ、って思った。あの春「いらない」って言っていた玲王は、今ちゃんと好きな女の子がいるんだ、って。車の窓からだったから鮮明に見えたわけではなかったはずなのに、それは瞼の裏に焼き付けられるような鮮烈さを持っていた。それは一種の感動めいたものを、私に与えた。
信号が変わって車が動き出す。こちらに背を向けていた女の子を、確かめようと思って見たわけじゃない。ショート丈のコートから覗くワンピース。髪は綺麗にまとめられて、覗いた耳は寒さのせいか赤くなっていた。細められた目は、眩しそうに玲王を見ていた。
同じクラスのさんだと気がついたとき、呼吸が止まった。
さんは、玲王の幼馴染みの女の子だ。
春にくじ引きで玲王と学級委員になった、不運なようで豪運な子。
あんまり目立たないけれどすごく良い子で、字が丸くて女の子っぽくて、大分まめ(学級委員用のノートを見せて貰ったとき、あまりの細かさにびっくりした。なかなか真似できることじゃないと思う。)いつも色んなことに気を配っている。
好奇心から後期の学級委員に立候補したはいいものの結局自分には難しいって判明したとき、私はさんに物凄く迷惑をかけてしまった。折角色々教えてくれた彼女に、もう一度学級委員を押し付ける形になってしまったのだ。それなのににこにこ笑って、いいよいいよって言ってくれたんだから、好きになるなって言う方が無理な話だと思う。
先月うちで開いたクリスマス会に誘ったとき、さんは残念そうに首を振った。彼氏と約束?って尋ねた私に分かりやすく狼狽えていたのはよく覚えているけれど、まさか相手が玲王だなんて思いつくわけがない。だって二人は、学級委員の仕事でもなければ一緒にいることなんか見たこともなかったから。
親同士が知り合いってだけ。そう話していたのを、何となく覚えている。
でもさっきのあれは、そういう感じじゃなかったな。
繋いだ手。さんを見る玲王の柔らかい目。くすぐったそうに笑うさんは、全身で玲王が好きだって言っていた。お似合いだった。車の中からでもいっとう目を引くくらい、きらきらしていた。
二人は誰がどう見たって、ちゃんとした恋人だった。
「……一個聞いてもいい?」
玲王と付き合ってるんだ? さんにそう聞いたのは、二人を見かけた翌日の放課後だった。
テーブルの上には、表面がチョコレートでコーティングされた、つやつやのザッハトルテ。ポットの紅茶は、もう渋くなっているかもしれない。だけど手を伸ばす気にはなれなかった。神妙な面持ちで私を見つめるさんに、促すように小さく頷く。テーブルの上のさんの手はきつく握りしめすぎたせいか、妙に色が白い。
さんが私に質問なんて、予想外だった。別に話の腰を折られた、なんて思わないけれど、今の流れで私に何か尋ねる必要があるようには思えなかったから。だけどさんは、眉根を寄せて言葉を探すように小さく唸った。迷っているのは、それだけで分かった。何か逡巡しなくてはならないことがあるらしい、って。
でも実際にさんがそれを口にしたとき、私は物凄く、申し訳なくなってしまうことになるんだけど。
「その……皆瀬さんって、玲王くんのこと、好き……ですか……?」
真剣な声だった。
なのにその質問自体は的外れで、びっくりしてしまう。
いや、だけど強ち本当に的外れってわけでもなかったのかもしれない。私は半年前まで玲王に好意を持っていたし、それが恋ではないらしいと自覚した今も尚、憧憬に似た思いはあるのだ。
教室で良く話をしていること。テストの度に勉強会を開くこと。私が後期の学級委員に立候補したこと。振り返ってみると私は、さんに勘違いされたって仕方の無いことばかりしてきた気がする。それに気がついて、思わず「いや、待って待って」って、大きく首を振った。さんはどんな答えも受け入れるつもりだったのか、武士みたいに粛々とした空気を纏わせていたのに、小さく首を傾げる。
「私、玲王のことは友達としてしか見てないよ」
「本当は」は、ここで言う必要のないものだった。半年前は好きだったけど、なんて、今彼女に伝えて何になるって言うだろう。だけどそれを飲み込んだところで痛くも苦しくもなかった。自分が我慢しているようにも思わなかった。私はちゃんと、玲王への恋を手放している。
さんはちょっと不自然な間を開けてから「えっ」って短い声をあげた。覚悟していたはずの答えと正反対のものを出されてしまった、そう言いたげな、戸惑いに満ちた声だった。
「――勘違いさせてごめん。嫌だったよね? 玲王にまとわりついてたみたいで」
それでもそれが脳に染みこむのに、もう少し時間が必要だったのだろう。さんは首を振る。「そんなことない」って、目を丸くしたまま。
「えっと……違うの、なんか、なんていったらいいのかな、私、皆瀬さんは玲王くんが好きなのかなってずっと思ってたから、お付き合いしてることを隠してたって分かったら、皆瀬さんが悲しいんじゃないかって思って、それが嫌で」
「悲しいとかないよ。むしろ私、昨日車から二人を見た時めちゃくちゃテンション上がったもん。嘘ー!って」
「く、車からみられてたんだ……」
「そうそう、あのでかいホテルの近く。お母さんと買い物帰りで偶々通りかかったんだ。信号待ちしてたとこ、二度見しちゃった」
「わ~…………そっか……。…………そっかぁ…………」
拍子抜けを超えて、魂まで抜けていきそうな様子のさんが面白くて、笑ってしまいそうになる。安心したのか、さんはグラスに入っていたお水を半分くらい一気に飲んで、それから「そっかあ……」ってもう一度呟いた。
「よかったぁ……」
他人の痛みばかり気にするさんは、ちょっと優しすぎるのかもしれない。
「ごめんね」って思わず呟いたら、さんは不思議そうな顔で私を見て、小さな微笑を口の端に乗せたまま緩く首を振った。
私が玲王のことを好きだと勘違いしていたさんは、私に責められるとでも思っていたのかもしれない。さんの立場から考えたら、でも、やっぱりどうしたってそう捉えてしまうかな。でもそうじゃなくて、私はただ、全然仲良くなかった私にノートを貸してくれたり、学級委員の仕事を丁寧に教えてくれたり、自分勝手に振り回した私を笑って許してくれたさんを悲しませたくなかった。さんが嫌な気持ちになるなら玲王と距離を置くのだって辞さなかったし、皆でやっている勉強会だってやめた。そういう話がしたくてさんを呼んだのだ。
そう言った私に、さんは「玲王くんの交友関係を狭めることはしたくないから」って緩く首を振ってから、「なんか私たち、お互いすっごい遠慮し合ってるね」ってくすぐったそうに目を細めた。
「気遣ってくれてありがとう。皆瀬さんの気持ち、すごく嬉しいです。…………」
あの。
さんが、ぽつりと呟く。その頬に微かに走る赤みに、私は覚えがあった。
「私、夏帆ちゃんとか、リサちゃんとか、誰にもこの話できてないの。玲王くんの恋人がこんな人間なんだってまわりにがっかりされたくなくて、玲王くんにも今まで通り、普通のクラスメイトみたいに振る舞ってもらってて……」
「こんな」なんて卑下すること、ないと思うけど。それでも口を挟まずに聞いていたのは、さんがあまりにも真剣だったからだ。「自分で選んでそうしてほしいってお願いしたのに、でも、ちょっと苦しいときがあるんだ」さんの声は、お店の扉が開く音に、僅かにかき消される。「どうしようって悩んだり、不安になったりしたとき、誰にも言えないの」テーブルの上で組まれた指先が、緊張しているのか、震えていた。
「だから皆瀬さんさえ良かったら、たまに私のお話、聞いてもらえませんか」
眉尻を下げたさんは、ともすると泣きそうにも見えた。その腕を取って握りしめてしまうのは、やりすぎだろうか。そうしたいのをぐっと堪えて、「めーっちゃ聞く……」って頷いたら、さんはいつもみたいに、ぱって笑ってくれた。それだけで、私まで嬉しくなってしまったのだ。
テーブルの端に放っておかれていた紅茶をカップに注ぐ。まだ熱は残っているけれど普段飲んでいるものよりもずっと濃く出てしまっているから、渋くなっているのは間違いない。「ケーキが甘いから案外丁度良いかも……」ってざっくりした予測を打ち立てるさんに、だけどここのお店の美味しい紅茶をちゃんと飲んでほしかった。――話し込んじゃった私が悪いんだけどね。
「次にここに来るときはさ、ちゃんと時間通りに淹れたの飲もうよ」
そう口にしたら、さんはちょっとだけ目を丸くした後、「うん、また来たい。たのしみ」って、小さく首を傾けて笑った。
「玲王くんと一緒にいるとこ見られちゃったのが、皆瀬さんでよかった」
御影玲王の恋人は、丸っこい字を書く、私にやさしい女の子だった。