さん」



 皆瀬さんに声をかけられたのは、おじさま達とのお食事会があった翌日のお昼休みのことだった。
 夏帆ちゃんとリサちゃんがトイレに行くのに席を外した直後のことだったから、その時私は一人で、数分後には始まる次の授業の準備をしていた。数学、当てられないといいなあなんて玲王くんにバレたら呆れられてしまいそうなことを考えていたから、皆瀬さんに突然名前を呼ばれて物凄くびっくりしたのだ。机の中で勢いよく両手の甲をを打ちつけてしまったくらいには。
 皆瀬さんは私の座っていた机の反対側にしゃがみこむと、その両腕を机の上に置いて小さく首を傾けた。指通りの良さそうなさらさらの髪が、制服の肩のあたりを流れるように落ちて行く。丁寧なアイメイクの施された瞼はキラキラしていて、睫毛もびっくりするくらい長い。「今ちょっといいかな」皆瀬さんの声は明快で、どんなときでも聞き取りやすい。



「うん、勿論……!」



 彼女といつも一緒にいる子たちは、男女含め、皆瀬さんの席のあたりでおしゃべりしているみたいだった。(今、そこに玲王くんはいない。最近の玲王くんはお昼休み、図書室や自習室で語学の勉強をしているのだ。一分一秒と無駄にしないところ、物凄く尊敬する。)だから、なんだろうって思う。皆瀬さんが私に何の用事だろう、って。
 皆瀬さんとは後期学級委員の選出のあれこれがあって以来話しやすくはなったし、一緒にお菓子を食べたりすることもある。何回か、体育でペアにもなった。仲良くはなれた――はずだ。でもいちクラスメイトとして適切な距離感で関係が築けていると思うとは言え、こうして改まって声をかけられると何だかちょっと緊張してしまうのだ。
 何かあったかな。学級委員を介さなければならないような大きな行事はもうないし、小テストも今日締切りの提出物なんかもなかったと思う。課題が終わってないとか、授業で分からないところがあるとか、そういうのも考えにくい。だって皆瀬さんの方が私よりずっと成績がいいんだもの。それに、もう次の授業が始まってしまう。長々お話することはできない。
 首を傾げる私に、「急なんだけどさ」と、皆瀬さんは私の想像の遥か先にあった言葉を口にした。



「今日の放課後、良かったら二人で駅前のカフェにケーキ食べに行かない?」



 皆瀬さんのてらいのない笑顔は、直視するには眩しすぎた。








 皆瀬さんが日替わりのケーキと紅茶を頼んだから、私もおなじものを、と、省エネな言葉で注文してしまった。真似しちゃったみたいになったけれど、皆瀬さんは全然気にしてない様子で「さんも紅茶派? コーヒー、苦いよね。私、ちょっと苦手なの」って笑っている。「コーヒーは全く飲めないってわけじゃないけれど、紅茶だとポットで出してくれるっていうから紅茶にしちゃった」そう答えたら皆瀬さんは「そっかあ。いっぱい飲めていいよね、ここの紅茶」って緩く頷くから、私もつられて首を縦に振る。
 駅前のカフェって言うから、夏に出来たばかりの割といつでも混んでいるカフェのことかと思っていたけれど、皆瀬さんが私を連れてきてくれたのは小さな路地を一本入ったこぢんまりとしたお店だった。カウンター席と、テーブル席が数えられるくらい。カフェっていうよりも、喫茶店って言った方がしっくりくる。話しぶりから、きっと皆瀬さんの行きつけのお店なんだろう。
 窓の小さな店内は薄暗くて、ベルベット地のソファの隅はほとんど陰になっていた。店内に流れる曲は、ゆったりとしたクラシックだ。店員さんもお客さんも少なくて、つい声をひそめて話してしまう。鈴蘭みたいな形をしたランプから、飴を伸ばしたような色の光が伸びている。
 玲王くんも、きっと「良い店じゃん」って言うだろうなあ。でも玲王くんは、もしかしたらもう来たことがあるかもしれない。アンテナが鋭いっていうか、多方面に興味を持つ人だから。店内を見回していたら視線を感じて、皆瀬さんを見た。皆瀬さんは、どうしてかちょっと嬉しそうだ。真っ直ぐ見つめられていることに、ちょっとドキドキしてしまう。



「私、ここ初めて入ったの。素敵なお店だね」

「あ、初めてだった? じゃあさん、びっくりするかも。ここのケーキ、すごい美味しいから」

「やった。楽しみ」



 皆瀬さんの言葉に素直に頬を緩めると、皆瀬さんも笑い返してくれる。ほっそりとした白い指先は、古いテーブルの上には少し不釣り合いに見えた。
 皆瀬さんとこうして放課後を過ごすなんて、なんか、変な感じだ。同じクラスメイトとして仲良くはさせてもらっていると思うけれど、こうして二人でケーキを食べに来るくらいの仲かって言われると、自信はないし。店内を満たすコーヒーの香りを深く吸って、膝の上に置いた手を組み直す。畳んだコートを、自分の身体にそっと寄せる。



「なんか、急にごめんね」



 私の内心を読み取るみたいに、その時皆瀬さんはぽつりと口にした。思わず顔を上げる。オレンジ色のぬるい灯りが皆瀬さんの顔に微かな翳りを落としていて、それが少し、皆瀬さんを悲しげに見せていた。



「びっくりしたでしょ。二人でなんて」

「…………」



 口元だけを、どうにか笑みの形に取り繕った。そんな笑顔に見えた。
 首肯して良い物か迷って、曖昧に首を傾げる。中途半端で良くないなって思ったけれど、皆瀬さんは全然気にして無さそうだった。むしろ、「だよね」って、皆瀬さんなりに受け取ってくれた。
 皆瀬さんがどうして急に私とお茶をしようと思ったのか、昼休みに彼女に声をかけてもらってから自分なりにずっと考えていたんだけれど、答えは全然見つからない。ちょっとした話だったら学校でできるし、そうじゃなければスマホでやりとりも出来る。わざわざ放課後にこうして人の目を盗むような形でなくたって良かったはずだった。
 何か大切なお話があるのかな。
 だけどその「大切なお話」が一体どういうものなのかを考えるのは、私には少し難しかった。何だか、悪い方、悪い方に思考が傾いていきそうな気がしたのだ。クラスメイトである私と皆瀬さんの間にはたくさんのものが落ちているはずなのに、私はそれを見下ろしたとき、どうしても玲王くんに関係する事象だけが鮮烈な輝きを放っているように思えてしまう。玲王くんのことかもしれないと考えたとき、それがどういう意味を持つのかを考えてしまう。後ろ向きに思考しがちな私にとって、それは少し、怖いことだった。
 皆瀬さんはちょっと考え込む様に目を伏せてから、やがて私を見た。「実は私ね」なんてことないような声色だったけれど、語尾が少し掠れていた。私の心臓の音に紛れて、それはいつもよりも籠もって聞こえた。



「――昨日、さんたちのこと見たんだ」



 その言葉が染みこむまで、だから、普段よりも時間がかかったと思う。
 昨日、見た、私を。いや、私たちを。
 今日の学校での出来事が逆再生される形で脳裏を駆け巡った。そこから遡って、昨日。最終的には一人で何とかできたけど、外すのが大変だったブレスレット。家まで送ってもらった。玲王くんと手を繋いでビル街を歩いていた。おじさま達とのお食事会。おじさま達が来られるまで、玲王くんと二人きりの時間があったこと。
 皆瀬さんの言いたいことが自分の記憶と繋がって、「あっ」と小さく声を漏らす。
 さん「たち」と言った皆瀬さんが、それらのうちのどこを見たというのか判別はつかない。だけど間違いなく、皆瀬さんは私と玲王くんが一緒にいるところを見たのだ。そしてそれはきっと、ただの同級生とも、幼馴染みとも呼べないような決定的な場面だった。
 この瞬間を、一体なんて表現したら良かったんだろう。血の気が引いて、呼吸すら止まった気がした。自分の心音だけがはっきり響いて、それ以外の音が急激に遠ざかる。だって、だって皆瀬さんは玲王くんのことが好きなのだ。本人から直接聞いたわけではないけれど。玲王くんが好きだから学級委員に立候補したのだ。少なくとも私はそう思っていた。
 不自然な沈黙の落ちるテーブルに、「お待たせ致しました」と、ケーキとティーカップ、紅茶のたっぷり入ったポットが二つずつ置かれる。「三分ほど蒸らしてかお淹れください」と説明してくれた店員さんに皆瀬さんが「ありがとうございます」と丁寧に会釈をするのに、私も慌てて続ける。
 店員さんがテーブルから離れたのを見計らったように、皆瀬さんは「美味しそー、ザッハトルテだ」って笑った。直前の会話が全部飛んだみたいな笑顔だったけれど、フォークを持つまではしない。私が言葉を探しているのを全部分かっているって言うみたいに、皆瀬さんはその目を微かに伏せて、そっと頷く。



「言いふらしたりはしてないし、しないよ」

「えっ」



 眉尻を下げた皆瀬さんの表情は少し困っているようにも見えた。言いふらされたら困る。困るけど、そんなこと心配してなかった、思いつきもしなかった。そう言いたくて首を振るけれど、そんなんで私の意思が彼女に伝わるかっていうと、甚だ疑問だ。言葉にしなくちゃいけないのに、だけど声は喉に引っかかったみたいに上手く外には出て行かない。
 でも、「やっぱり、玲王と付き合ってるんだ?」って確かめるみたいに尋ねられたときは、首肯に留めるわけにはいかなかった。背筋を伸ばして、テーブルの向こう側にいる皆瀬さんをしっかり見つめて、膝の上に置いた手を無意識に握りしめていた。強く、強く。


PREV BACK NEXT