欲しいモノは全て手に入れろ、って言葉の前には、「あの人たちが思う、俺の人生のために必要な」、という枕詞が隠されている。
 父さんたちはこれまであらゆる面において俺のサポートをしてきてはくれたが、御影コーポレーションの後継者としての御影玲王に相応しいものでなければ、それはなされない。サッカーの件で痛いほどに良く分かったのだ。あの人達の理想から遠い夢にはすべて価値がなく、唾棄すべきものと扱われること。そうでないものを望んだ場合、現実を見ろと諭されて、父さんたちが盲目的に「正しい」と信じている道へと腕を引かれて終わるだけだ。その道の先がどれだけ褪せて見えたかなんて、父さんたちにはきっと永遠に分からないだろう。(振り払って背を向けた俺に、分かりやすい妨害をしてこないだけまだマシかもしれないとは思う。まあ、それももしかしたら、時間の問題なのかもしれないけどな。)
 俺のために準備された道以外、あの人たちは認めない。――逆もまた然り。
 だから、今が不安がる必要なんて一つもないのだ。



「どっ……どきどきしてきた……! どうしよう……!」



 隣に座るが、そっと胸を押さえる。父さんたちとの約束の時間まで、あと少しだ。「大丈夫だっての」って確証を持った上で笑う俺に、けれどは眉を下げる。
 は、父さんが俺の人生に必要だと判断した人間だ。厳密に言えば、父さんの人生に必要な人の娘というだけなのだろうけど。俺がを選ぶことは、あの人にとって「正しい」ことでしかない。だって、湊人の娘だぜ? 父さんが躍起になって手元に置き続けている、あの人の娘。喜ばれこそすれ、反対なんかされるわけがないのだ。それが癪じゃないって言えば嘘になってしまうけれど、そんな子供っぽい反抗心だけでわざわざを手放す程、俺は馬鹿じゃない。
 それに、見返してやるなら、それはあの人達が否定したサッカーですべきだと思うのだ。
 さっき俺がつけてやったブレスレットの煌めくの手を、そっと取る。驚いたように短い悲鳴をあげて俺の顔を見上げるは、化粧のせいか、いつもよりも大人びて見える。



「……こうやって手でも繋いどけば、父さんたちが来たときに説明も楽なんじゃね?」



 冗談でそう軽口を叩いた俺に、は「ん、や、そう、そうだね。でも、さ、さすがにそれは……恥ずかしいかも……」ともじもじしながらもぎゅうと手を握り返してくれたのに、見知った人影が視界に入った瞬間勢いよくその手を放されてしまったものだから、ちょっと笑えた。








「食事の前に少し時間もらえる?」



 そう切り出したのは、互いの両親が集まって、レストラン内の個室に場所を移し、いつもとさして変わらない挨拶を済ませた後のことだった。父さんは放っておくとすぐにのおじさんと仕事の話をし出すから、その前に主導権を握りたかった。



「どうかしたか? 玲王」



 父さんが俺を真っ直ぐ見つめるのは、もしかしたらあの夏の、サッカーを否定されたとき以来かもしれない。俺達はあれから、互いを避けて生活していたから。膜を張った目だった。俺を値踏みするような。こっそり息を吐いて、「すぐ済む話だから」と、半年前までの俺達に見えるよう、薄い笑顔を貼り付ける。膜の奥で父さんも俺と似た微笑を浮かべているのが、どこか皮肉だった。
 しかしどのタイミングで話をするのか、そういうことをにはいちいち知らせていなかったから、もしかしたらを驚かせてしまったのかもしれない。おばさんの隣にいたの丸い目がますます丸くなっていたけれど、でもなあ、食事が終わったときに話すもんでもねえだろ、これ。慌てたように一度は座った椅子から立ち上がって、俺の隣に立ってくれたのは、うれしかった。
 六人が入っても充分余裕のある個室の、テーブルが、椅子が、食器やグラス、その他置かれた調度品の一つ一つ、窓枠の向こうに見える川縁まで、妙に鮮明に見えた。俺と以外の、大人達の顔も。緊張は、だけどしてはいないのだ。今ここにいる誰もが、この状況に関して言うなら、敵にはなり得ないから。
 報告が遅れてしまったことを、父さんと、のおじさん――さんに謝罪する。「実は」口にした声だけが、室内に響いている。



さんと、夏から正式にお付き合いをさせていただいています」



 そう続けた俺に、だけどさんは何も答えなかった。ただ、緩慢な瞬きを一つしただけで。



「……ちゃんと?」



 芯から驚いていたのは、父さんくらいだ。――まあ、最近は家の中でも滅多に顔を合わせなかったし、母さんにも口止めをしていたから知りようがなかったんだろうけど。「そうなのよあなた、ふふ」と笑う母さんの声はこの場に似つかわしく明るいのに、どうしてそれがやけに耳につくのだろう。
 普段はどこか感情の読み取りにくい父さんの双眸は、だけどこの瞬間、わかりやすすぎるくらいに輝いていた。「なんだ、そうだったのか。嬉しいことじゃないか、なあ、湊人」いつもの声色よりも数年若返ったようにすら聞こえる。苛立ちを覚えるのは、父さんにか、それともそれに黒い感情を覚えてしまう俺自身にか。決まっている、両方だ。
 俺が自分の望む正しい道を選んだと喜ぶあの人にも、がかかわっているっていうのにいちいちそれに反感を覚える俺自身にも、俺は嫌悪を覚えている。父さんたちの意思に関係なく俺はを選んだのだ。父さんのためじゃない。決して、父さんたちを喜ばせようと思ってを好きになったんじゃない。勘違いするなと言えたら、どれだけ楽か。父さんが足を組む。「ああ、そうか。二人が」嬉しいことがあったときにする、昔からの癖。



「いつか二人が本当にそうなってくれることが夢だった。――嬉しいよ」



 俺の夢は認めてくれなかったのにな。
 急速に飽和する感情に思考が埋め尽くされそうになった俺に気がついたのか、俺のジャケットの裾をが掴んだのと、その声が耳に届いたのは、ほとんど同時だった。



「――うん」



 その時発せられたさんの声は、俺の膜を突き破る棘を手ずから抜くように、優しい。
 視線をさんに向ける。人の好さが滲み出た柔和な表情は、大人のそれというには頼りない。「湊人は人の悪意に無頓着だから」いつかの父さんの言葉が、こんなときに脳裏に浮かぶ。眉尻を下げた笑顔だけは、に似ていた。「僕も嬉しい」それだけで、殴られたようだった。



「二人が婚約者っていう肩書きに縛られることがなければいいと思っていたんだ。……だけど、杞憂だったね」



 低く掠れた声が、俺や父さんのものとは違う厚みを持って、染みこむみたいに響く。



「……を好きになってくれてありがとう、玲王くん」



 大切な、僕達の娘なんだ。
 父さんと同じ、四十年余りを生きたとは思えない、どこか浮世離れした双眸だった。隣にいるおばさんと目を合わせ、柔らかく笑う。テーブルの上で組まれた、骨張った、乾燥した指先が、彼のこれまでの生を表している。土を、水を触る人。そうして毒を払う人。
 さんは「良かったら今度、二人で工房に遊びにおいで」とその目を細めた。夢だったとか、いつかそうなってくれると思っていたとか、そういう類のことをさんは決して言わなかった。何か、これからの俺達の負担になりかねないことだって。
 それが羨ましいなんて、言えるわけがない。
 「あの」と、それまでずっと黙っていたが上擦った声を出す。



「み、未熟者で、玲王くんに迷惑をかけてしまうこと、たくさんあると思うのですが、どうか今後とも見守っていただけると嬉しいです……!」



 そうして父さんと母さんに向かってが頭を下げてくれていなければ、俺は自分が言葉を失いかけていたことにもきっと気がつかなかっただろう。頭一個分下の位置にあるの目は緊張のあまりか少し滲んでいて、我に返る。確かに腹の底から湧き上がっていたはずのどす黒い感情が、今はどこかに追いやられたような気すらしている。さんがそうしてくれたと、それを俺は知っている。
 母さんがに「あらあら」とその目を細める。父さんが上機嫌を隠そうともせずに微笑んでいるのにもさほど苛立ちを覚えないのが、今はただ不思議だった。


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