「つけてねえじゃん」



 隣に座った玲王くんが何の逡巡もなくそう言ったとき、私は一瞬、彼が何のことを言っているのか分からなかった。
 「え?」って聞き返したのと、玲王くんの目線が私の手首付近に落ちていることに気がついたのはほとんど同時だ。でもそれだけで玲王くんの言わんとしていることを察するなんて、私にしては敏い方だったと思う。つい、「な、何が……っ?」ってとぼけてしまったけれど。



「何がって、ブレスレットだよ」



 玲王くんはちょっとだけ呆れたように眉尻を下げて、思案したように目を伏せる。その目が私の手に落ちたとき、心臓が跳ねた。ライトグレーのジュエリーポーチは、私の指の隙間からしっかり見えてしまっていたから。



「ふーん……?」



 見透かすような声だった。確かめるように顔を覗き込まれて、思わず目を逸らす。玲王くんは多分、このポーチに件のブレスレットが入っているって見抜いている。だって物凄く頭の回転が速くて、視野が広い人だもの。私が今日、この場にブレスレットをつけていこうって考えないわけがないってこと、玲王くんは絶対に分かっている。
 そうなってくると、今更この握りしめたままのジュエリーポーチをバッグに隠すことなんかできるわけがなかった。頭の中で、どうしよう、って言葉がぐるぐるまわっている。どうしよう、どうしよう。ポーチには入ってる、ここに持って来ている、ってことまで見透かされているんだったら、玲王くんはもう、私がこれを一人じゃつけられなかったってことまで察しているのかもしれない。それならもう、素直にそれを認めるべきじゃないだろうか。みっともなくとぼけたりなんかしないで。
 それでも言葉は喉に引っかかったまますぐには出てきてくれなくて、口を開いたり閉じたりして、目線を泳がせてしまった。だってブレスレットも一人でつけられないなんて、不器用にも程がある。折角あげたのに、ってがっかりされたらどうしよう。ぎゅ、とポーチを握りしめる。布を一枚隔てた先に、けれどそれは確かにある。



「もしかして一人じゃつけらんなかった?」



 なのに、助け船でも出すみたいに、玲王くんは柔らかい声で聞いてくれるのだ。不器用で格好悪い私のことも、全部受け入れようとしてくれているような声だった。咄嗟に顔をあげる。「なんで」って聞いたわけでもないのに、顔に出てしまっていたんだろう。玲王くんは声をあげて笑う。



「わかるっつーの。のことじゃん」



 何年の付き合いだと思ってんだよ、って。
 だから、それで私はようやく、緊張で張り詰めていた肩の力を抜くことができたのだ。は、と、喘ぐような息が口から漏れる。顔は、もう合わせることができなかったけれど。「ご、ごめんなさい」って、小さくなりながら謝罪する。



「…………ひ、一人で頑張ったんだけど、なんか、金具、繊細で、壊しちゃいそうで……」



 羞恥で顔が熱い。小さなジュエリーポーチを握りしめて言い訳を重ねる私の話を、玲王くんは一体どんな顔で聞いているんだろう。



「でも、かと言ってお母さんにつけてもらうのもなんだか恥ずかしくて。一人でどうにかしようとは思ったの。それで今も試してみたんだけど、む、難しくて、できなかった……」



 こうして言葉にしていくと、情けなさも極まってしまう。だって、だってブレスレットだよ。別に知恵の輪を解けとか、ルービックキューブを完成させろとか、そういうことを要求されているんじゃないのに、どうして私はそんな簡単なこともできないんだろう。
 指先が震えて、気を抜くと目の奥まで熱くなりそうだった。玲王くんにバレないようにそっと鼻を啜る。履いていた靴の輪郭が、微かに滲む。



「……折角玲王くんがプレゼントしてくれたものなのに、まともにつけられもしなくてごめんなさい……」



 そう呟いて俯く私の視界に、玲王くんの腕が作る影が入ったのは、玲王くんが細く長い息を吐いた、その直後のことだ。
 玲王くんは、私の手の甲に自分の手を重ねる。一回り大きな骨張った手の感触に、心臓が跳ねるような感覚を覚える。「別に、謝る必要ねえだろ」って、玲王くんが口にする。



「貸して」



 少し掠れた声だった。急に触られたものだからびっくりして、思考が鈍くなってしまって、思わず手を浮かせてそのまま玲王くんに預けてしまう。「…………や、手じゃねえよ」って、笑いを含んだ声で言われなければ、私はそのまま自分が間違っていることに気がつかなかったかもしれない。
 手じゃない。手じゃないんだったら、じゃあ、何を貸せばいいんだろう。
 少しだけ考え込んで、それではっと息を飲んだ。けれど私が自発的にそうするよりも早く、玲王くんは私の手から、ポーチを取ってしまう。きっちり結ばれた紐を解いて中からブレスレットを取り出す、その一連の仕草に、心臓がばくばくと音を立てる。玲王くん、名前を呼びたいのに、口の中が一気に乾いて、上手く舌が動かない。遠くで聞こえる人の笑い声とか、微かな音楽が遠ざかって、私たちだけが取り残されたようだった。



「腕、貸してみ」



 玲王くんの指先は、器用にブレスレットの金具を外す。私、両手でもちょっと大変だったのに。ピンクゴールドの輝きがフロア内の灯りに反射して、私のまなうらにこびりつく。
 玲王くんがブレスレットをつけやすいように、少しだけ腕を持ち上げた。そうしながらもドキドキしすぎて、わあって叫び出しそうだった。皮膚を掠めるのが玲王くんの指先なのか、ブレスレットなのか、全然わからなくて、苦しくて仕方がなかった。自分の手首に浮いた、青白い血管だけを見ていた。「こ、これ、注射されてるみたい……」なんて、色気のないことを言ってしまったのは、変な空気になるのが嫌だったからかもしれない。「はあ? なんだよそれ」って玲王くんが笑うのを、私は頬が熱いのを自覚したまま見つめている。
 多分、だけどそれは全部でほんの数秒のことだった。玲王くんはあっという間に私の腕にブレスレットをつけて、「ん、できた」って、眩しそうに目を細めた。目には見えないはずの光の残滓を、私はどうしていつも玲王くんの周りに見てしまうんだろう。手首に煌めくブレスレットは、私には大人っぽいかもしれないと思ったけれど、全然そんなことなかった。私の肌の色に、それは綺麗に馴染んでいた。
 ありがとう、って言いかけて、だけど息を飲む。



「…………似合ってんじゃん」



 微かに首を傾げた玲王くんの笑顔に、泣きそうになったから。
 湧き上がる感情は、どうしたって抑えられる気がしなかった。口元を両手で押さえて、堪えるように俯く。すき、って口にしてしまいそうになる。玲王くんにだけじゃなくて、世界中に伝えたくなる。お父さんにも、おじさまにも。私、玲王くんが好きです。私には勿体ないくらい、すごく素敵な人なんです、大好きなんです、って。
 重力に従って腕を滑るブレスレットの感触に、今はただ、痛みに似た感慨を覚えている。お母さんたちが、もう少し遅れてきてくれますようにって心の端っこで思う私は、これ以上の幸福を知らない。


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