今年のお食事会は川沿いにある老舗ホテルの、フランス料理店で行われることになっていた。何度か行ったことのあるお店だっていうだけで、少し安心する。新しい場所とかお店って楽しみな反面、どうしても気後れしてしまう部分もあるから。今回みたいに気にかかっていることが他にある以上は、余計に。
お父さんは一旦工房から帰った上で私たちと一緒にホテルに向かうつもりだったのだけど、結局間に合いそうにないらしい。納期が迫っているんだって。工房を出たらそのまま向かうから先に行っておいてほしいとお母さんに連絡があったのが、家を出なければならない時間の十五分ほど前のことだった。
控えめなノック音の後に部屋に入ってきたお母さんにその旨を告げられて、机についていた私は半身を捻ったまま「わかった……!」と頷く。お母さんは私が返事をする前に部屋の扉を開ける癖があるから、こんな風にこっそり何かをしているときなんかドキッとすることが多々あって、ちょっと困ってしまう。今だって、悲鳴をあげなかった自分を褒めたいくらいだった。
お母さんの位置からは見えないと知りながらも、こっそり右の手で反対側の手首を覆う。ベルベット地の小箱が、どうかお母さんの目に入りませんようにと祈りながら。でもお母さんは、私の動揺になんか全然気がつかなかったらしい。綺麗に巻かれた髪を揺らしながら、眉尻を微かに下げる。
「お父さん、相変わらずマイペースなんだから。困っちゃうね」
困っちゃう、って言いながら、お母さんの声は決して非難がましくない。そういうところ、私はすごく好き。――今はちょっと、それどころじゃないけれど。
「も準備ができたら来てね。もうちょっとしたら出るからね」そう続けられたのに何度か小さく頷いて、扉が閉められるのを見届ける。お母さん特有の、ぱたぱたとした足音が遠ざかっていくのを聞きながら、張り詰めていた緊張の糸が切れたみたいに、はあ、って息を吐いた。
びっくりした。いきなり開けないでって、八つ当たりめいた言葉が口をついて出ちゃうところだった。
ストッキングに包まれた足を机の下で伸ばす。着替えもお化粧も済ませたっていうのに、こんな風にじんわり汗をかいてしまっては、困る。困るんだけど、コントロールなんかできないしどうしようもないのだ。これが冷や汗なのか、暖房の効いた室内で集中していたことによる汗なのか、はたまた両方によるものなのかの判断もついていないんだから。
机に両肘をついて指先を組んで、その手の甲に額を押し付ける。おでこが出るように髪型を作ったから、乱れを気にしなくて良いのはよかった。でも、でもだけど、それよりも今は、困ったことが一つあるのだ。
「…………つけられない…………」
私の視線の先には、クリスマスに玲王くんからプレゼントしてもらったブレスレットがあった。きらきらした石が一つついたピンクゴールドのそれが、どうしても腕につけられなくて、今物凄く困っている。
繊細な造りをしたブレスレットは留め具の部分も目立たないよう小さくなっていて、変に力を入れたら壊れてしまいそうに見えた。留め具部分に爪の先を慎重に引っかけるも、滑ってうまくいかない。かち、かち、って、無情すぎる金属音が部屋に響くのも、もう何度聞いただろう。焦れば焦るほど、指先が震えた。「壊しかねない」って気がついたら、留め具がたてる音を聞く度にお腹がすうっと冷たくなった。
もし壊しちゃったら立ち直れない。玲王くんに顔向けだってできない。折角のお食事会だから、つけていきたかったのに。このブレスレットが似合うワンピースも選んだのに。なのに、どうしてもつけられないのだ。かれこれ十分以上格闘しているせいで、首も目も、爪の間の肉も痛くなってきた。いくらなんでも酷すぎる。
「な、なんでこんなに不器用なの……」
思わず独りごちるも、それで上手くいくなら苦労しない。一際強く留め具を弾いてしまって、息が止まった。痛いし怖いし、無理だ。もう、絶対無理。少なくとも、今は。
ブレスレット、片手でつけるのがこんなに難しいなんて思わなかった。ネックレスも一人でつけられないときがあるくらいだから、ちょっと考えたらその難易度の高さは分かるようなものだったのかもしれないけれど。でもだからといって、お母さんにつけてもらうなんてとてもじゃないけどできない。何でかは上手く言えないけれど、玲王くんからプレゼントしたものをお母さんにつけてもらうって、想像したらすごく気恥ずかしいもの。
「…………」
今日のお食事会に絶対につけていきたいって気持ちと、お母さんには頼めないって気持ちを秤にかけて思案した私は、迷いに迷って最終的にそのブレスレットを小さなジュエリーポーチに入れた。どのみちもう時間がない。ホテルに着いたら、もう一回チャレンジしてみようと思ったのだ。あそこのお手洗いはパウダールームもあって広くて綺麗だから、お食事会の前だったらちょっとくらい籠もっていてもいいだろうって考えて。場所が変われば、もしかしたら奇跡的に上手くいくこともあるかもしれないし。
ハンガーにかけていたコートを手に取って、袖を通す。玲王くんに勇気を貰ったとは言え、やっぱり今日のことを考えるとどうしてもドキドキしてしまうから、ブレスレットが上手くつけられなくて思考のほとんどがそこに割かれてしまうっていう現状は、却って丁度良かったのかもしれなかった。
でも、やっぱり場所が変わったくらいじゃあそう上手くいくこともないわけで。
「だめだぁ……」
鏡の前で項垂れたら、イヤリングが頬骨の近くを掠めた。どのアクセサリーも、イヤリングくらい簡単につけることができたらいいのに。じんじんと痛む指の先を反対の手で擦りながら、深くため息を吐いた。もう少し粘ってできるんだったらそうするけれど、如何せん約束の時間が近い。そうじゃなくても、そろそろお母さんが呼び戻しにきたっておかしくないだろう。仕方なく、ブレスレットをジュエリーポーチに戻す。それを鞄には入れずに手で握りしめていたのは、まだ未練があったからに他ならなかった。
私って、なんでこんなに不器用なんだろ。お父さんのお母さんの娘とは到底思えない。
ため息を吐きながら外に出る。レストランはこのフロアの奥にあって、待ち合わせ場所になっているロビー付近にはぽつぽつと人の姿があったけれど、お母さんがどこにいるかは判然としなかった。足早に向かおうとする私の名前を、だけどその時、誰かが呼ぶ。「」って。
それが玲王くんのものだって瞬時に判断できたから、足を止めて振り向いた。通路脇に置かれたソファに、玲王くんが座っていたのだ。玲王くんの声だって分かっていたものの、心の準備なんかちっともしていなかったものだから、びっくりして思わず「ひゃっ……」と声をあげる。その周囲には、おじさまも、おばさまも、いらっしゃらなかった。ただ一人、玲王くんだけがいた。
「よ」
笑いを押し殺すような表情で、玲王くんは私に片手をあげる。この前とは違うジャケットを羽織っていて、それが玲王くんをいつもよりも数段大人っぽく見せていた。
驚いたのと、格好良い玲王くんに動揺したのと、二種類の意味でばくばくと音を立てる心臓を押さえながら、「び、びっくりしたあ。おじさまとおばさまは? 玲王くん、ひとり?」とどうにか冷静を保って声をかける。肯定するように首肯してから、「ん」って隣をぽんぽんと叩く玲王くんは、座れって言いたいんだろう。素直に隣に腰を下ろす私に「今まで練習しててさ。ばぁやに送ってもらって、コートから直接来たとこ」って、小さく首を傾げながら口にした。
「わ、サッカーしてきたんだね。お疲れ様……! じゃあおじさまとおばさまはこれから来られるのかな。私はお母さんと一緒に来たんだけど……。……そういえばお母さん、どこにいったんだろ」
「おばさん、車に忘れ物だってさ。さっきそこで会ったんだよ。に伝えてくれって」
「えー、忘れ物? 何忘れちゃったんだろ。うっかりしてるねえ」
「人のこと言えないだろお前は。……ところでおじさんは?」
「お父さんは今日は別だよ。工房から直接来るって」
へえ、って短く言う玲王くんが、足首あたりで足を交差させる。揃えたままの私の足とは、長さが全然違った。「んじゃ、俺達二人か」って、当たり前のことを言われただけなのに、妙にドキドキしてしまうのはどうしてだろう。柱なんかで視界は遮られるものの、広々としたフロアには人の笑い声とか足音とかがきちんと響いていて、この空間に二人っきりってわけじゃあないって分かりきっているのに、そうと錯覚してしまいそうになる。
隣り合って座る私たちの間には、拳が二つ三つ分置けるくらいの隙間があった。それを詰めてしまえるくらいの勇気は、だけど私にはなくて、むしろもう少し離れる形に座り直したいとすら思ってしまう。だって、そうでもしないと心臓の鼓動が玲王くんに聞こえてしまいかねなかったから。
膝に置いたバッグの持ち手をぎゅうっと掴んだのと、一緒に握りしめる形になってしまったジュエリーポーチの存在に玲王くんが気がついたのは、もしかしたらほとんど同時だったのかもしれない。玲王くんが私の手元に視線を落として「ん?」って小さく呟いたとき、私はその隣で、こっそり深呼吸をしていたところだった。