「お、おはよ」
「お…………はよっ…………!」
冬休みが明けた初日。
朝、鞄の中身を机に移した後で、トイレに行こうと教室の後方扉から出た瞬間だった。丁度登校してきた玲王くんと、ほとんどぶつかるくらいの距離で出くわしたのは。
気を抜いていたものだから、つい二度見してしまう。と言うのも、玲王くんの首に見覚えのあるマフラーが巻かれていたせいだ。間違いない、私が迷いに迷って、お店を彷徨い歩いたりネットで探し回ったりしてようやく玲王くんへのクリスマスプレゼントにと決めたものだった。まさか学校にもしてきてくれるなんて、思ってもいなかった。
嬉しさと気恥ずかしさと感動と動揺で、胸が震えてしまいそうになる。「そ、それ、マフラー……」って言いかけて、けれどそれを飲み込んだのは、玲王くんが一人じゃないって気がついたからだ。……一人じゃないどころか、入学したての春を思い出すくらいには大所帯だったんだけど。私の目線に気がついたらしい玲王くんは、玲王くんの横やら後ろやらを歩いていた大勢の生徒たちに向かって「おいおい」ってちょっと呆れたように口にする。
「広がって歩くなっつの。迷惑だろ」
冬休み明けっていうのもあるせいなんだろうか。玲王くんの周りにできる人の輪はいつもより一周か二周分は多くできていた。通行の邪魔にならないよう扉に背をくっつけて彼らの横顔を見渡すと、輪を構成する生徒たちはうちのクラスの子とそうじゃない子たちが半々くらい。何人かの子たちがわざわざ「ごめんね」ってわざわざ謝ってくれるのに、いえいえ、って慌てて頭を下げた。何だか垢抜けた男子とか綺麗な女の子が多くて、どぎまぎしてしまう。
やっぱりすごいな、玲王くん。私、他のクラスの子たちなんて名前もほとんど知らないし、話したことだってあんまりない。でも玲王くんは、こういう彼らのひとりひとりときっと何かしらの関係性を築いているんだろう。社交性の塊みたいなひとだから。
「じゃあな玲王~」
「玲王くん、またねぇ」
違うクラスの子たちがそう手を振るのに、「おー、またな」って返した玲王くんを、私は尊敬の念を込めたまま、つい目で追いかけてしまう。うちのクラスの子たちと一緒に教室に入る、その直前だった。玲王くんがそんな私のことを横目で見て、ふ、って笑ったのは。
言葉もないまま、注視していなければそうと分からないくらい小さな笑顔だったものだから、私はすっかり息を飲んでしまう。玲王くんの左耳を隠す長めの横髪がさらりとマフラーに落ちて、細められた目は、教室の窓側から差し込んでいた朝日に微かに煌めいていた。手にしていたポーチをぎゅっと握りしめてしまったのは、そのさりげない笑顔が、私の胸に音を立てて突き刺さったからだ。
ぶわ、と顔に熱が籠もるのを自覚する前に、玲王くんは教室へと入っていってしまったけれど。
それからたっぷり数秒経った後、思わず頬に手をやって、「わぁ……」って、熱を持つ顔を隠した。こんな細やかな、やりとりとすら言えないものにですらいちいちドキドキしてしまうんだから、なんていうか本当に、よくない。いつまでこんな風に慣れないままでいるんだろう? トイレの方に向かって、ぎこちなく歩き出す。朝のざわめきは、私の動揺を混ぜ込んでも変わらない。
いや、でも、それはそうとして、よかった。マフラーをしてくれて、うれしかった。明るいところで見てもすっごく似合ってた! これって「私があげたものだから」っていう前提っていうか、贔屓目みたいなのがあるからなのかな? だけどマフラーが単体で見たときの五倍は素敵なものに見えるのは、やっぱり玲王くんが格好良いからなんだろうなあ。そう、格好良いのだ、玲王くんは。クリスマスのことを思いだしかけて、首を振る。色んな感情でいっぱいになって、そわそわしてしまって、困る。
気を引き締めようとぎゅっと目を閉じて、小さく息を吐いた。いつまでも浮き足立ってはいられない。だってもう、冬休みも終わったんだもの。ぼんやりしているうちに、高校一年生でいられる期間はあっという間に過ぎ去ってしまう。冬が終われば二年生。進級するってことは、それだけ大学入試が近づくってことだ。だけど私にはそれよりも前の今週末に、大切な山場が一つある。
一月の学校の廊下は空気がひんやりと乾燥していて、肌やら喉やらが、微かに痛んだ。あちこちから聞こえる同級生たちの笑い声や、廊下を擦る靴裏の音が、当たり前みたいに私の身体に降っていた。
今週末の食事会について、緊張していると打ち明けた私を玲王くんはスマホの向こうで、「なんでだよ」って笑った。予習用のノートに英文を書き写す手を止めて、握ったシャーペンに力を入れる。授業が始まって数日が経った日の夜のことだった。
「別に緊張することなんか一個もないだろ。俺達がちゃんと付き合うことになったって、親からしたら順当そのものなんだぜ?」
「順当かぁ……」
「そうそう。お互いじゃなくて、婚約者じゃない相手と付き合うことになったって言うならまだ面倒かもしれないけどな」
「…………婚約者じゃない相手…………」
例え話でしかないと分かっていながらも、玲王くんの言葉に思わず想像する。
玲王くんが私ではない別の子に惹かれて、どうしてもその子とお付き合いがしたい。将来的には結婚したい。ってなったとしたら、私との婚約解消は絶対にしなくちゃいけないわけだから、確かに色々厄介かもしれない。例え玲王くんが私みたいに「他に好きな人ができたら婚約は解消できる」と普段からおじさまたちに言い添えられていたとしても、これまでの両家の付き合いを考えたらそれは一朝一夕にできることではないだろうし、本来の婚約者である私だって納得の上じゃないといけない。でも、好きなんだったらそれはどうしたって乗り越えなくちゃいけないものなわけだし、私だって玲王くんの幸せを考えたら……。
思考が脱線し始めていることにも気がつかずに先々のことまで考えていたら、胸が痛くなってきた。架空の「玲王くんの好きな人」の存在が持つ攻撃力に、すっかり負けてしまったのだ。
「………………うっ……」
「なんだよ」
「れ、玲王くんが他の子とお付き合いして私とは婚約破棄、って想像したら悲しくなった……」
「……なんでお前はそういちいちリアルに想像するんだよ。馬鹿」
そう言われて、傷ついたはずの心が両手で包まれでもしたみたいに軽くなる。なんていうか、もうほとんど一瞬で。玲王くんの言う「馬鹿」は、言葉そのものが持つ強さがまるごとなくなってでもしまったみたいに柔らかい。すごく、すきだな、って思う。そこに愛情がいっぱいこめられている気がして。
だけど、「馬鹿」って言われて喜んでいるなんて、流石にちょっと変態みたいだ。それで誤魔化すみたいに、「た、確かにそう言われてみると、そうだね! お付き合いしてるっていう報告は、順当……だよね!」って小さく咳払いをしながら答えた。「だろ?」って明るい声で返す玲王くんは私の動揺までは悟っていないらしくて、こっそり胸を撫で下ろす。
「ま、あんま難しく考える必要ねえよ。父さんとのおじさんには俺が上手く話すし、は必要があれば適宜喋ってくれりゃいいからさ。いつも通りのでいれば、何の問題もないって」
「うん……。なんだか任せちゃってごめんなさい……」
「いや、俺が話さないでどーすんだよ。負担でもなんでもねえしさ。お前はどっしり構えてろって」
「どっしり……!」
「そそ、どっしり」
凝り固まった不安に玲王くんの柔らかい声が染みこんで、内部から溶かされていくのを感じる。一人で思い悩んでいたときも、絶対、絶対玲王くんは私の緊張を取り除いてくれる、って思っていたけれど、本当にそうだった。魔法使いみたいだ。玲王くんの隣にいると、何だってできる気がしてくる。私は無敵の女の子になれる。
こっそり細く息を吐いて、へへ、と笑う私に、玲王くんは「そんなことより、勉強ちゃんとしてんのかよ?」って尋ねる。そんなこと、って言葉を選んで私の気持ちを軽くしてくれることすら、今の私には酷く温かい。