年末年始は例年と変わらず家でのんびり過ごした。近場の神社に初詣には出かけたけれど、外出らしい外出はそれくらいだ。
うちはお父さんが長期間工房を空けるのを嫌うから、年の瀬に旅行に行くとか、そういうことはあんまりしない。お母さんには「お友達とお出かけしないの?」って聞かれたけれど、夏帆ちゃんもリサちゃんも冬休みは家族旅行に出かけるって言っていたから、二人に会えるのは学校が始まってからだった。(でも、お母さんの言う「お友達」って言葉に玲王くんも含まれているっていうのは、何となくだけど察していた。まだ事情を知らないお父さんの手前、そういう言い方をしてくれたんだと思う。「忙しいんだって」と、内緒話でもするみたいな声量で伝えた私に、お母さんは「そっか」って、曖昧に笑って頷いた。)
だから冬休みの間にできることって言ったら、どうしたって限られていた。勉強はしていたけれど、それ以外はお蕎麦を食べて、お母さんの作ったおせちを食べて、おもちを食べて、みかんを食べて、いただいたチョコレートを食べて、ソファでごろごろして過ごした。ちょっと太ったかもって気がついてからはタマとのお散歩コースに新しいルートを追加した。いつもはそこで引き返す目印にしているベンチを通り過ぎて、川沿いまで出るのだ。タマは最初は不思議そうにしていたけれど、最近は新しいコースにも慣れたみたいで、私を追い越してぐんぐん突き進んでいく。初めて会う犬の匂いを嗅いで、見知らぬ小学生に大人しく撫でられて、たまにもう歩きたくないって地面に寝転がる。
「寒いねぇ、タマ」
人通りが少ないのを良いことに、憚らずにタマに声をかける。タマは耳だけで聞いてますよ、って言うけれど、その目は前方に向けたままだ。
玲王くんと何度も歩いた遊歩道は、枯れ落ちた葉が水分をすっかり失って幾重にも堆積していた。それに鼻を押し付けて匂いを確かめるタマはモスグリーンのお洋服を着ていて、白玉っていうよりも、ほとんどかしわ餅に見える。タマの後ろ姿を写真に撮って、玲王くんに送る。「タマとお散歩してるよ」って。冬休みの今、サッカー中心の生活を送っている玲王くんから返事がすぐ来るってことはほとんどないに等しかったけれど、「何でも送って」って言ってもらったのを良いことに、私は日常のいろんなものを切り取るみたいに玲王くんに送っていた。玲王くんは気がつくと返事をくれるけれど、今、既読のマークがつく気配はない。サッカーの練習中、っていうのは間違いない。
スマホをコートのポケットに入れる。頬を切る風は冷たく乾燥していて、ほとんど無意識に、「さむ」って小さく呟く。マフラーや帽子で肌を隠さないと、冷たすぎる空気はいっそ痛いくらいだった。遊歩道を抜けて木々や建物が途切れたとき、吹き抜ける風の冷たさは、最も顕著になる。「わああ」って小さく悲鳴をあげながら、それでも川の向こうに広がる街並みを見た。
あの建物群をさらに越えた先にあるお父さんの工房に、私はこの前の夏、一人で行った。もう、あれから五ヶ月が経とうとしているって思うと、ちょっと信じられない気がしてくる。
「なんか…………いろいろあっという間だったな~…………」
だってついこの間まで、私、椿山の制服を着ていたのに。
マフラーに埋めたまま、口の中だけでこっそり呟いたその声は、私にしか届かない。
どうにか白宝高校に滑り込めて、四月、私は玲王くんのクラスメートになった。どういう因果か二人揃って学級委員になった、それが私たちの始まりだったように思う。「婚約者」っていう肩書きがもたらす気後れは大きくて、私の方は玲王くんを避けていたのに、玲王くんはもう、びっくりするくらい普通だった。私のことを「」って呼んだ。数学ができない私を見かねて、勉強を教えてくれた。学級委員のサポートもたくさんしてもらった。白宝祭でリーダーシップを発揮した玲王くんは、クラスの皆から信頼されるに足る人だった。タマを助けてくれたのだって、ヒーローみたいだったのだ、本当に。
玲王くんの恋人にしてもらったのが、夏。八月は玲王くんのお誕生日があって、そのためにお父さんに会って作品を分けて貰って、お誕生日の当日は水族館に連れて行ってもらった。サッカーのお話を聞いたのも、その日だった。
お付き合いしていることを皆に知られたくない、っていう私の気持ちを玲王くんは尊重してくれて、夏休みが明けてもこれまで通りの距離感で接してくれた。皆瀬さんのこととか、その他色んな偶然が重なって、後期の学級委員も玲王くんと二人でやらせてもらえることになったのが九月の終わり。翌月の球技大会では玲王くんの応援もできた。ダンクシュートも、難しいパスカットも難なく決める玲王くんは、すっごく、すっごく格好良かった。黄色い歓声は体育館を埋め尽くしてやまなかった。世界中に自慢したかったけれど、できなかった。祈るように、噛みしめるように、手を組んだまま玲王くんを視界の真ん中に置いていた。
この前のクリスマスだって、どれほど私の記憶に鮮明に焼き付いているか。白宝高校に入学してからの数ヶ月は、びっくりするくらい密度が濃かった。私はだから、きちんとお父さんにも話すべきだったのだ。この前の夏から、玲王くんとお付き合いさせてもらっているんです、って。
だけどお父さんは、もう家にいない。三箇日が終わる前にはまた工房に戻ってしまったのだ。
年末年始は、普段工房で過ごしていることの多いお父さんとお話ができる絶好の機会だった。なのに結局踏み込んだことは言えず仕舞い。それを悔やんでいるのか、ほっとしているのかも分からなかった。いつかバレてしまう悪戯をした子供みたいな気持ちに近いとは思うんだけど、「玲王くんとのお付き合いをお父さんに話すこと」が、一体どうしてそういう感覚を自身に与えるのかについては判然としない。お父さんとの会話の中、玲王くんのことが全く話題にあがらなかったわけではなかったのに、「お父さん、実はね」の一言が言い出せないまま、お父さんの関心が別のものに移り変わるのを待っていただけだった。
「もしがまたお父さんの作ったものを誰かにあげたいってことがあったら、いつでも言って」
その時分けてあげられるものがあればプレゼントするし、もし時間に余裕があったら一緒に作ることもできるから、って、敢えてかそうでないのか、お父さんはあの時のことに触れてくれたりもしたのに。すっごく、すっごく意気地なし。
お父さんたちが決めた婚約である以上、私たちのことが反対されるわけないって分かっているのに、緊張して、喉がからからに渇いた。何も言えないまま、いつものように家を出て行くお父さんを見送っただけだった。
「…………」
土手の向こうにある、夕陽を吸って反射する川面を見下ろす。タマと私とを繋ぐリードを握りしめたまま、その光の奥にある街並みを眺める。白くなった呼気が、夕焼けに滲むように溶けていく。ふう、って、細く長く息を吐いた。ランニングをしている中学生が、私たちの背後を走り抜けていった。数羽の鳶が空の高いところを飛んでいた。私を取り囲むありとあらゆるものは、泣けるくらいきれいだった。
冬休みが明けた後の、最初の日曜日。今年のお食事会はその日に決まっていて、玲王くんはそのとき、おじさまに私たちの話をするつもりらしい。
想像すると、緊張で身が竦む。心臓がばくばくと音を立てて、どうしようもなくなってしまう。まさか玲王くんに全部押し付けるわけにもいかないから、私もきちんと、改めてご挨拶しなくちゃいけない。だけどなんてお話したらいいんだろう? 実は夏からお付き合いさせていただいています! 今後とも末永く見守っていただけたら幸いです! とかでいいんだろうか? でも、玲王くんはおじさまと、まだ険悪なままだって言うし、そうなると言い方にも気を遣った方が良いのかもしれない。
眉根を寄せて歩いていたら、私の後ろを歩いていたタマが、不意に足を止める。リードがぐっと引っ張られたような感覚になって、「んわ」って声が漏れた。慌てて振り返ると、タマは立ち止まったまま私を見上げている。
「びっくりしたぁ。どうかした? タマ」
しゃがみこんで尋ねても勿論答えはないけれど、私を見上げるタマの瞳をじっと見下ろしていると、何だか強張っていた心がじわじわと解れていくようだった。多分、タマはおうちに帰りたいだけだ。寒いもん。だけどもしかしたら私が考え込んでいるのに気がついて、ちょっと様子を窺ってくれている、っていうのもあるかもしれない。そうだったらいいな、って思う。頬のあたりや、首筋、耳の裏を指で撫でる。タマはちょっと目を細めて、小さく鼻を鳴らす。
誰もいないのを良いことに、「悩んでも仕方ないかぁ」って呟いた。声は存外大きく響いて、思わず咳払いをする。私たちの隣を、ライトをつけた自動車が緩い速度で走り去っていく。そのテールランプが遠ざかっていくのを視界の端で見送って、それから私はタマの背中に手を触れた。
「……寒くなってきたし、そろそろおうちに帰ろっか、タマ」
悩んでいても、大抵のことはなんとかなるようになっている。だけどそれでも本当にどうしようもないくらいに不安なんだったら、それは、玲王くんに聞いてもらえば良いのだ。玲王くんはきっと、ちゃんと話を聞いてくれる。私の頭をわしゃって撫でて、「心配しなくても大丈夫だって」って、笑ってくれる。「俺もいるんだからさ」って。魔法の言葉みたいに、玲王くんは私に勇気をくれる。
耳をぴんと立てて、私の言葉を聞き漏らすまいとしているタマの頭をもう一度撫でて立ち上がった。一年前とは全然違う緊張を持って食事会を迎えるなんて、去年の私は想像もしていなかったなって思うと、胸の奥がどうしてか、ひりひりと痛んだ。
おうちに帰ってスマホをコートから取り出したときに、「あれ」って声を漏らす。気がつかないうちに玲王くんから返信があったらしい。未だかじかんだままの指で画面をタップする。玲王くんの送ってくれた文章の斜め上に、さっき私が送ったタマの写真がある。
「このタマ、めちゃくちゃかしわ餅じゃん」
まだちょっと落ち着かない気持ちでいたのに、そう書かれているのを見た瞬間、思わず「わは」って、声を出して笑った。こういう細やかな共通点一つで、私は多分、いくらでも幸せになれた。