「玲王くん、その、ごちそうさまでした……。とても美味しかった……!」
ホテルを出て早々、は俺を見上げて律儀に礼を言う。
今日は当然(まあ、今日じゃなくても、の話ではあるが)、に支払いを持たせる気はなかった。例えそれが半分だろうとな。だからが「あの、お金……!」と鞄から財布を出してきたときは思わず「なんでだよ」ってその額を小突いてしまったのだが、からしてみたらそういうのもまだ分からないんだろう。「出世払いでいいって」と適当に言った言葉にも、は神妙な面持ちで頷いていたから。――何でも真に受けるんだよな、こいつ。
まだ恐縮しているに「いーっつの」と軽く手を振り、時計を確認する。予定していた時間とさして変わらないことを確かめて、の名前を呼んだ。
「折角だし、ちょっと歩こうぜ」
「は、はい……!」
予報通り雨はやんでいたものの、外はすっかり冷え込んでいた。ここまで寒くなるならいっそ雪でも降ってくれりゃ良いんだけど、そう上手くいくもんでもないらしい。人の多く行き交う通りの向こうを指差して提案する俺に、は素直に従う。薄く雲の伸びた夜空は、星すらも見えない。
風は冷たくて、体温をあっという間に奪っていく。は俺の言葉通りきちんと防寒してきてはいるみたいだったけれど、それでも少し心配になって目をやった。厚手のコートに、マフラー。ヒールのあるブーツに苦戦しているのか、その歩幅はいつもよりやや狭い。
その時不意に、いつだったかの光景が脳裏を過ぎった。がわざわざ道路の外側を歩こうとしたときのことだ。タマを病院に送り届けた、あの夏の日。確かあの時は、俺が無理矢理を自分の身体の内側に押し込んだんだったか。の方もそれを覚えているのかは判然としないが、今日のはきちんと俺の内側に収まっていて、それだけのことに、何故か笑ってしまいそうになる。今日はちゃんとしてんじゃん、って。
降り積もるように重なった思い出は、隙間を埋めるというにははっきりとした輝きを持って、俺の中に存在している。多分、今日のことだってそのうちの一つになるんだろう。「二人で過ごす初めてのクリスマス」である以上、他のものよりかは幾分か特別なものにはなるかもしれないが。
けれどそれが今は、ただ面映ゆい。
「寒くないか?」
表通りは車が多く行き交っていた。夥しい数のテールランプが夜に滲むように浮かんで、信号を待つ俺達の前を流れていく。俺の声は(恐らく同じ場所を目指しているのだろう)恋人同士と思しき人々の談笑や車の走行音に紛れかけたけれど、コートのボタンを首元までしっかりとめたは笑って頷く。「大丈夫。カイロもあるし」髪の飾りについた白い石が、街灯の明りで一瞬反射するように瞬いている。
「それにお腹いっぱいだから、今すっごいぽかぽかしてる!」
「あー。すげえ綺麗に食べたもんな?」
「だ、だってすっごく美味しかったから……!……ごめんね、恥ずかしかった……?」
「なんでだよ、恥ずかしいことねえだろ」
申し訳なさそうに俺の顔を覗くに、思わず笑ってしまった。ふは、って息とも声ともつかない音が、夜の街に微かに響く。
何を気にしているんだか知らないけど、美味そうに食べるやつって、いいじゃん。「美味かった?」改めて尋ねれば、は「美味しかった!」と、ぱっと顔を輝かせる。表情がころころ変わるのも、俺は嫌いじゃない。
「お肉も柔らかかったし、デザートのムースもさっぱりしてるのに甘くてわ~ってなっちゃった……!」
「わかる。俺もあれ、結構好みの味だったわ。フルーツも美味かった」
「ね! あっ、でもそういえば玲王くん、ご飯はちゃんと管理士さんがいるんじゃ……? 今更だけど大丈夫だった……?」
「平気平気。ちゃんと調整してんの、俺」
「調整……! そっか……!」
は胸を撫で下ろして、「一緒に美味しい物食べられてよかった」と、相好を柔く崩す。その唇から漏れた息は、微かに白くなって空気に溶けていく。
「ほんとに幸せだった……! 連れてきてくれて、ありがとう」
一生忘れないね。笑いながらそう続けるに、つられて目を細める。
「……ん、満足してもらえたなら、俺もよかった」
の飾り気のない言葉は、そこに嘘も誇張もないのが良く分かって、好きだ。
信号が青になったのを見て、身体の横に収まっていたの手を取った。さっきの「ぽかぽかしてる」って言葉通り、俺のものより一回り小さいその手は柔く熱を持っていた。指を絡めた瞬間、が息を飲んで指先に力を込めるから、思わず喉の奥で笑う。何回手を繋いでも、触っても、は全然俺に慣れないらしい。
「――いい加減こーいうの、慣れろよ」
笑いながらそう言って繋いだ手を軽く持ち上げた。は俺にされるがまま、目を僅かに見開いて、薄ら頬を染めて緩く首を振る。
「……一年くらいかかるかも」
困ったような、少し泣きそうな顔で、それでもは笑った。
一年。
その言葉に現実に引き戻されそうになったとは、には言わないことにしよう。一年後の俺は、今よりもきっと、もっと夢に近づいている。それは間違いない。だけど今日くらいは、サッカー選手になるためじゃなくて、の恋人として隣にいたいのだ。
に笑みを返す。照れくさそうにはにかむの瞳は、俺だけを真っ直ぐ見つめている。
タイミングを逸してしまった。
何って、プレゼントを渡すタイミングだ。本当はレストランでお食事の後にでも、って思っていたんだけど、ベルガモットのムースに感動して、お腹も心も満たされて、プレゼントのことが頭からすっぽり抜け落ちてしまっていたのだ。――そして、ホテルから出て最初の信号を渡り終えるまで、それは頭の外に転がり落ちたままだった。
ご飯のことばっかりじゃなくて、色んなお話ができたら良かった。玲王くんのサッカーのお話とか聞きたかったし、来月あるだろう、御影家とうちの、いつものお食事会のこととかも話したかった。そうじゃなくても夜景が綺麗だねとか、そこからクリスマスっぽい話に誘導してプレゼントを渡すとかもできたのに、私ときたらこれが美味しいあれも美味しいって、食べ物のことばかり! 挙げ句レストランを出てもご飯が美味しかったっていう話が口から出るのだ。冷静になると、ちょっとどうなのかなって思ってしまう。玲王くんは全然気にしていない風に、色々な話をしてくれているけれど。
玲王くんが繋いでくれた手が落ち着かなくて、空いている方の手でこっそり胸を押さえた。クリスマスの夜、通りはたくさんの恋人や、夫婦が行き交っていた。このすぐ近くに、ショップやカフェ、レストランとか、美術館に公園なんかも集まる複合施設があるためだろう。イブの今夜はきっと、どこに行っても混雑する。
こんな人の往来が多いところで手を繋ぐなんて、普段の私たちだったら考えられなかった。本当は緊張で、じわじわ手汗をかいてしまっているくらい。冬なのに、手汗をかく女子。恥ずかしくなってしまってそろりと手から力を抜いて玲王くんとの接触面積を減らそうとするのに、玲王くんは手を繋ぐ力が緩んでも構わずぎゅうって繋ぎ直すから、その度に心臓が止まりかけた。そういうことに意識の八割が割かれていた私は、どこに向かって歩いているのか、ばぁやさんはこの間もどこかで待ってくれているのか、普段だったら気になる色んなことを尋ねられないままだった。そういう疑問は、ただただ喉の奥で消えていくだけだった。
もしこんな風にぐるぐる考えなくて済んでいたなら、私は玲王くんがどこへ向かっているのか、想像するくらいはできたのかもしれない。
いや、本当のことを言うと、私だってそれくらいは予想していたのだ。というのも、私の中の「恋人が過ごすクリスマス」のイメージっていったら、お食事とそれしかなかったから。でも、玲王くんと手を繋ぎながら自分の言動を内省していた私は、その時どうしたって気がそぞろだった。玲王くんの隣を歩くのに、精一杯だったのだ。
玲王くんは、「こっち」って私の手を引いた。路地を一つ入って、その奥の大きな通りに出たところだった。
瞬間、目の前を星が瞬いたのかと思った。
五感が急に鋭く冴え渡った気がした。視界いっぱいに瞬く青い光は、木々が纏ったものだった。それは私の視界の届く範囲に、どこまでもどこまでも続いている。無数の光が夜空に浮かんでいる。頬を撫でる風は、さっきまでよりずっと冷たかった。あちこちのレストランやカフェからの匂いも、どこからか微かに漏れ聞こえる繊細なオルゴール音も、ありとあらゆるものが私の脳に焼き付くように、鮮明だった。
玲王くんの手が、立ち尽くす私の手を握り直す。私の頭よりも一個分高い位置で、玲王くんは、光を背負って立っている。
「行くぞ」
街を彩るイルミネーションの光は、私たちの頭上に降り注ぐみたいだった。