食事に来たことはあっても、まだ子供とみなされる年の私が、両親のいない状態でこういったレストランを訪れたのはこれが初めてだった。
玲王くんの半歩後ろを歩く私の心臓はばくばくと音を立てていたし、何度かブーツの爪先を絨毯に取られて歩くテンポを崩した。他のお客さんに視線を向けられるようなことはなかったけれど、イブの夜、このレストランにいるどの女性よりも自分はどうしたって子供っぽくて、自然と小さくなってしまう。何度も食事に来たことのあるこのレストランは、私だって慣れていないわけではないはずなのに、気後れしてしまうのだ。
窓際の席に案内された後も、高層階からの夜景に目を奪われる余裕もないくらいだった。その席は他のテーブルとの間に高さの違う仕切りがあって、他のお客さんからの視界は適度に遮られる作りになっていたけれど、それが余計にそわそわしてしまう。めちゃくちゃ恋人っぽい。いや、今このレストランで食事をしている皆さんも、ほとんどが恋人同士とか、夫婦とか、そういう関係性の方々だと思うんだけど。
向かい合って座る玲王くんは、落ち着かない私をすぐにみとめて、小さく笑った。何のてらいもない、からかうような笑みだった。
「……が緊張しないようにと思ってこのホテルのレストランにしたんだけど?」
「お、お気遣いありがとうございます……! 来たことのないところだったらもっと緊張していたと思うので、とてもありがたいです……」
「いや今よりもっと緊張すんのかよ。……ま、一応意味あったなら良かったわ」
こんなにもドキドキしてしまうのは、やっぱり玲王くんと二人きりだからかな。
どこにいても堂々としている玲王くんは、やっぱり私なんかと経験が段違いなんだろう。たくさんのパーティに出席して、私を含め普通の人とは比べものにならないくらいの場数を踏んで、玲王くんは御影コーポレーションの子息としての階段を上っている。そこから別の道に向かおうとしている今だって、これまで築き上げてきたものが玲王くんの根になっているのは間違いない。
私はそんな玲王くんの隣に、胸を張って立てるくらいになれるかな。
ウェイターさんが注いでくれるノンアルコールのシャンパン(車内で飲んだものよりも、オレンジがかっていた)の気泡がグラスの中でぱちぱち弾けるのを神妙な面持ちで見つめる私は、玲王くんが二言、三言、ウェイターさんと言葉を交わしているのにも気がつくのが遅れた。ぱっと顔を上げたとき丁度ウェイターさんは席を離れたところで、口元に笑みを乗せた玲王くんと目が合う。そうして改めて向かい合ったとき、初めて私は、今日玲王くんの姿をきちんと捉えたことに気がついたのだ。
玲王くんが目を細めた瞬間、光が瞬いたみたいだった。シャンパンの気泡が弾けるのが、まだ目に焼き付いているのかと思ったくらいだった。
「かっ…………!」
こいい。
黒いシャツに、同系色のジャケット。袖口から見える腕時計の銀は差し色になって、目を引く。モデルさんみたいだった。さっきお母さんと観ていた海外ドラマに出ていたって、もう全然おかしくないくらいだった。車の中は薄暗かったし、おうちの玄関ではお母さんもいたからそれどころじゃなくて、ちゃんと玲王くんの姿を見ることができていなかったのだ。
思わず「わぁ……」と漏れてしまう口元を手で押さえて、そのまま視線を落とす。直視できなかった。それでも抑えきれなかった感情が、言葉になってぽろりと零れてしまう。
「かっ……かっこよすぎてびっくりしちゃった……」
微かに流れていた音楽とか、談笑の声にかき消されてくれたらよかった。でも、玲王くんは笑った。「んだよ、今更?」全部その耳に届いているって、その声が言っていた。
「つか、それこっちの台詞な」
そっと視線を上げると、玲王くんは私を真っ直ぐ見つめている。私のことをまるまる視界に収めて、小さく首を傾げて、玲王くんはほとんど囁くように言う。低い声が、少しだけ掠れる。
「今日の、俺もすげえ好き」
――可愛い、って。
びっくりしすぎると、声って喉に引っかかってしまうらしい。
目と口がぽかんと開いて、じわじわ身体中に熱が伝わっていく。頬やら眼球やらが熱くて、鏡で見なくても自分の顔が赤くなっていることがわかった。玲王くんは全然、ちっとも照れてなんかいないのに、私は今息もまともにできないくらいいっぱいいっぱいになっている。「可愛い」って言われたことで、身体と思考が一緒になって、停止してしまっている。
頑張ってよかった。ワンピースもこれにして良かった。ここねちゃんもありがとう、帰ったら全部の動画に高評価をつけます。お母さんも、髪の毛を綺麗にしてくれてありがとう。生んでくれてありがとう。
もしもそのとき、ウェイターさんが前菜を運んできてくれなければ、そのまま動揺で泣いてしまっていたかもわからなかった。玲王くんは固まったまま給仕を受ける私を見て、テーブルの向こう側で、声を殺して笑った。
あんだけガチガチに緊張してたってのに、料理が運ばれてからのはそういうのが全部吹っ飛んだみたいに、目をキラキラさせて食事をしていた。まあ、緊張で喉を通らない、なんてのよりはずっと良いけどさ。美味そうに食事をするは好きだ。昔から。
五種の前菜を丁寧に口に運び、続くパスタ料理は添えられたキャラメリゼに感動していた。オマール海老や帆立の包まれたカルタファタのリボンが解かれたとき、鼻孔をふわりとくすぐる香りに、は素直に感嘆の声を漏らす。
「わぁ~……いい香り~」
あんまりにもにこにこしているものだからつい見入ってしまって、目が合った。そうしたとき初めては、ちょっと我に返ったように姿勢を正す。そんなに畏まらなくても良いのにな。
小さなクリスマス飾りは、レストランの雰囲気を壊さない程度に置かれていた。窓の外に広がる夜景も、普段よりも眩い。ハイウエストのワンピースに身を包んだは、ちょっと照れたように目線を落としながら、切り分けた海老を口に運んでいる。だけど、はっと目を開くと、はすぐに顔をあげて「玲王くん、これは冷めないうちに食べた方がいいです。とても美味しい……人生の中で五本指に入る美味しさ……」と真剣な面持ちで口にした。……面白いやつ。
一年前の冬、と俺はこのレストランで、こんな風に向かい合って座っていた。窓際ではあったけれど、もっと壁からは遠い席だった。はあの時も、こうして俺の真向かいに座って食事をしていたのだ。口もほとんど開くことなく。ただ、目だけは今と同じようにキラキラさせて。
ここの魚料理、好きなんだろうな。あの夜も、白身魚を口に入れた瞬間ぱっと瞳を輝かせていた。隣の両親にその美味さを伝えたいのに、だけど二人はうちの両親との会話に花を咲かせていたものだから、結局ちょっと逡巡して、それから一人で食べ進めていたけれど。それでも表情だけが雄弁だった。あの時、俺が声をかけてやればよかったんだよな、と、今になって思う。「これ、美味いな」って。あの日のが、それにどんな反応を示したかは想像がつかないけれど。
の気に入った魚料理は、香り付け程度に柑橘の仄かな匂いがした。旨味の濃縮された帆立に、「ん、美味い」と思わず零す。テーブルの向こう側に座るは、去年のが俺には決して見せなかったようなにんまりとした笑顔を浮かべて、俺を見ている。
「ね、ね。美味しいよね……!」
その笑顔は小さいときのが浮かべていたものに似ていて、瞬間、どこか郷愁めいた感覚が胸の隙間に差し込まれでもしたようだった。
あの時白宝を受験するのだと言ったの話を、俺はどんな気持ちで聞いていたのか、もう覚えていない。
それでも、で良かったと、そう思うのだ。俺の背中を追いかけて走ってくれるのが、肯定して見守ってくれるのが、で。そんなこと、に言ったら動揺させてしまうんだろうけれど。
小さく笑みを返した俺に、はその意図を読み取れることのないまま、首を傾げて笑っている。それが妙にくすぐったいなんて、口にできそうにない。