「寒くねえ?」
玲王くんは車の中でそう問いかけてくれるけれど、手だけが異様に冷たいときってどうしたらいいんだろう。「大丈夫……!」と答えながら、両手を膝の上で重ね合わせる。こういうときにカイロを握るべきだと分かっているものの、ポケットから取り出すタイミングを逸してしまったし、今そんなことしたら玲王くんに「なんだよ。やっぱ寒いんじゃん」って呆れられてしまいそうだ。でも、寒いんじゃないの。多分、緊張で指先にだけ血が巡ってこないだけ。中学までやっていたピアノでも、コンクールでこういうこと、良くあった。
車内は外と違って温かかった。相変わらずシートはふわふわで、飲み物まで用意されていた。そんな中、腕を少し伸ばせば触れてしまえるくらいの距離に座る玲王くんの存在は私には大きすぎて、私は彼のことをほとんど直視できずにいる。
家から離れ、大通りを走る車のスモークガラスの向こうで、ちらちらと灯りが流れていく。寄り添う恋人たちの姿、どこからか漏れ聞こえるクリスマスらしい音楽、ケーキを売るサンタさん。道路はいつもより混んでいて、流れる景色も緩やかだ。
クリスマスなんだなあって、じわじわ浸食するみたいに思う。
「、今日何してた?」
不意にそんなことを聞かれて、はっと顔を上げた。
玲王くんは慣れた手つきでグラスを傾けながら(アルコールの入っていないスパークリングワインだ)私のことを見つめている。たったそれだけなのに、どうしてかどぎまぎしてしまった。まだ冷えたままの指を、ほとんど無意識に組む。顔の前に持って来たそれは、やっぱりひんやりしていて、自分のものじゃないみたいに感覚が薄い。
「えっと、今日……今日はね……」
何をしていたか。何か面白いことが言えたら良いんだけど、振り返っても生憎今日は何もしていない。ただ半日、デートに備えて念入りに準備をしていただけだ。
「お風呂入ったり……動画観ながら準備したり……。あとはお母さんとドラマ観たりしてたよ。でもドラマの内容、全然頭に入ってこなかった……」
素直にそう告げる私に、「ふーん?」って玲王くんはそっと目を細める。何も面白いことなんて言ってないのに、玲王くんは何だか、いつもよりも楽しそうに見えた。私はまだまだ、緊張が取れないのに。
「風呂入ったんだ?」
「うん……デートの前に禊ぎをしようと思って……!」
「はは、禊ぎて」
玲王くんはからから笑って、それからまた私に、どんな動画を観たのかとか、ドラマのタイトルとか、一つ一つ尋ねてくれた。私の内側から一つずつ引き出すみたいに、丁寧に。
ここねちゃんのメイク動画でね、リサちゃんに教えてもらったんだけど、ここねちゃんってすごく可愛くて。今日はこの新作リップを使ってデイリーメイクをしてみま~す、って、一からお化粧を教えてくれるの。すごいんだよ。今度玲王くんも見……ないか、でもほんとにほんとに可愛い子なの。メイクも髪も可愛い。ドラマは……タイトルすら記憶にないから後でお母さんに聞いてみるね。かっこいい女の人がいっぱい出てるやつなんだけど……多分面白いんだと思う……!
そういう話を玲王くんは、うんうん、って、相槌を挟みながら聞いてくれる。そうしているうちに、私の指も一本一本に血が巡っていく。
もしかしたら玲王くんは、私の緊張を解こうとしてくれていたのかもしれなかった。私がそわそわしているのをみとめて、いつもの調子で話せるように、気を遣ってくれていたのかもしれなかった。そういうことは全然口にしないけれど、多分、そうだったんだと思う。私はそれが、物凄く嬉しい。
車が長く進めずにいた交差点を右折したとき、玲王くんは「そういえば」って思い出したように口にした。その時には私は、もうすっかり平生と変わらないままでいられた。
「――今日、クラスのやつらもクリスマスパーティするって言ってたよな?」
「あっ、そうそう、皆瀬さんのおうちでするんだよね! 結局十人くらい集まるって言ってたっけ。楽しそうだよねえ……! 三時くらいからって言ってたから、今頃盛り上がってるんだろうなぁ……!」
「お前、そーいうの好きそうだよな。ホームパーティ系?」
「うん、好き! 前もね、今日みたいなイブじゃなかったんだけど、クラスでお友達のおうちに集まってクリスマスパーティしたの。お菓子とか持ち寄ってね……プレゼントもいくらまでって決めて、交換するときは円になってこう……流れてる音楽が止まるまでぐるぐる回すの……」
「うわー、懐かしいなそういうの。小学校のときやったわ」
「でもそういうとき何でか知らないけど全員自分のが戻って来たりしちゃうんだよね。去年はそれで三回くらいやり直したんだ……」
「いやそれ去年の話なのかよ」
もっとガキの頃の話かと思って聞いてたわ、って、玲王くんは笑う。その時にもらったプレゼントが海外のチョコの詰め合わせで、その中に何故か物凄く辛いのがあったんだってお話までしたかったのに、玲王くんがあんまりにも笑うから、飲み込まざるを得なくなってしまった。
中学生でも子供っぽいことしてたんだなあって思われたかな。幻滅は……されるほどの大人っぽいイメージは玲王くんに抱いて貰っていないと思うから大丈夫だと思うけど、どうかな。少しだけ心配にはなる。
ひとしきり笑った玲王くんは、それから「はー」って息を吐くと、グラスをドリンクホルダーに置いて私の顔をじっと見た。まだ、拭いきれない笑いを滲ませた瞳だった。「おもしろ」って、その唇が動いたのを、私は身動ぎもできずに見ていた。
「幼馴染みで婚約者、つっても、知らないこといっぱいあるんだよな」
それは私へ向けた言葉というよりも、ほとんど独り言に近かったと思う。
煌々とした街の灯りは車内に伸びて、玲王くんの顔を微かに照らしていた。見とれてしまって、息が詰まる。車がウインカーを出して速度を落とす。いつもよりも、玲王くんは大人びて見えた。私だけがいつまでも子供でいるみたいだった。私と玲王くんの間には、何か決定的な差があるようにすら思えた。
そんなことを頭の隅で考えていたものだから、玲王くんの目がすっと外に向けられたとき、私はそれで初めて、目的地に着いたことに気がついたのだった。
「――あれ、ここって……」
建物の目の前で停車した車の扉が開く。瞬間、思いのほか冷たい夜風に思わず目を閉じた。建物の全貌を視界に収めることは、この車内からでは叶わない。それでも私はここに覚えがあった。玲王くんが連れてきてくれたこの場所にどういう意味があるのかを、きちんと理解しているつもりだった。
暖色の灯りに包まれたエントランスは半円の形に突き出ていた。ガラス張りの奥に広がるホールには大きなツリーが飾られていて、宿泊客と思しき人々の姿がちらほらと見える。知っている。だって私はここに、何度も訪れたことがあるのだ。そういう生活が送れるのは、お父さんの作品作りを支えてくれる玲王くんのお父様、御影コーポレーションのおかげだった。私はここにはよく足を運んでいた。お父さんとお母さんに連れられて。そして、一年前の冬も。
先に車を降りた玲王くんは、私を振り向いてその手を差し出した。「」私の名前を呼ぶその声は、もう一年前とは違う響きを持っていた。それだけは間違いなかった。
「――お手をどうぞ?」
微かに首を傾げて言う玲王くんはちょっとだけ悪戯っぽく笑っていた。どこか、含みがあるような笑顔だった。私は上手に笑みを返せただろうか。車内で温かくなった手はもしかしたら汗をかいてるんじゃないかってちょっと躊躇してしまったけれど、重ねた手は、さっき家の前で繋いだときより、温度が近い気がした。