イブの日、約束の夕方までは充分時間があったから、身支度を調えるのに慌てることはなかった。
その日は朝からびっくりするくらいに寒かった。雪は降りそうになかったけれど、どんよりと重たい雲が空一面を覆っていて、一日中雨が降ったりやんだりしていた。天気予報によると、けれど夜には雨もやむらしい。冷え込みも多少はマシになるかな、って、ちょっとだけ安心する。あんまり寒くて体調が悪くなってしまうことだけは、どうしたって避けたい。
準備の前にお風呂に入った。禊ぎみたいに、これでもかってくらい丁寧に身体を洗った。お母さんに選んで貰ったワンピースを着て、リサちゃんにオススメしてもらった動画を見ながらメイクをした。髪の毛も器用なお母さんが綺麗に編み込んでくれたし、「あったかい格好してこいよ」って玲王くんに言われた通り、一番厚いコートをハンガーにかけておいた。カイロの準備もばっちりだ。履いていこうと思っているブーツはちょっとヒールがあるけど、水族館に行ったときみたいに半日も歩くなんてことはないだろうから、靴擦れとかもないと思う、多分。
準備しておいた玲王くんへのクリスマスプレゼントをバッグに入れるとき、指先が震えているのに気がついた。目を伏せて、それから深く長く息を吐く。それでもまだドキドキしていた。どうやら、すごく緊張しているらしい。
どういうクリスマスデートになるのかは、やっぱり全然想像つかないままだった。もしかしたらそれが緊張の要因の一つでもあるのかもしれないけれど、玲王くんは何も言わなかったし、私も結局、尋ねたりしなかった。
玲王くんは、今日も昼までサッカーの練習があるらしい。大事な時期に時間を作ってもらってしまって、申し訳ないような気持ちになってしまうけれど、玲王くんはそう言う私に「はぁ?」って言った。昨夜、久しぶりに電話をしたときのことだった。
「何言ってんだよ。申し訳ないのはこっち。……折角初めてのクリスマスだってのに、一日中一緒にいられなくてごめんな?」
その言葉に、そんなそんなって、どれだけ否定しただろう。私からしたら、だって、一緒に過ごせるだけでもう充分幸せなのだ。玲王くんの「ごめんな」って言う優しい声を思い出すと、それだけで息が詰まってしまう。わぁって頭を抱えたくなる。有り余った感情が身体から溢れて、行き場を失ってしまう。やさしい、好き、って、転がりたくなる。
落ち着かなくて、コートやバッグを抱えてリビングに移動することにした。お茶を淹れて貰って、お母さんの観ていた海外ドラマを一緒になって眺めていても、もう全然、ちっとも中身が頭に入ってこなかった。暖房が効いて温かいはずの室内なのに手がびっくりするほど冷たくて、足元でひっくり返っていたタマを抱きかかえる。鼻を鳴らすタマの毛並みに頭を埋める。今は消えているツリーの電灯を、視界の端っこで見ていた。そのうち工房から帰ってくるだろうお父さんと食べるためのディナーの準備は、お母さんによって既になされていた。どうひっくり返ったって、今日はやっぱりクリスマスイブだった。
身体を強張らせたまま、三十分くらいが過ぎ去った頃だ。「そろそろ着くわ」ってメッセージが、スマホにぽんって浮かんだのは。
「やり直せるわ、私たち、何度だって」って、テレビの中で女優さんが強く言っていた。眉を寄せて、真剣に見入っているお母さんに声をかけるのはちょっと躊躇われたけれど、「玲王くん、着くみたい……!」って伝えたら、お母さんはぱっと目を見開いて、「えっもう夕方!?」って、びっくりした顔で私を見た。私もこれくらい、何の緊張もなくいられたら、きっと純粋に楽しみ、って感情だけで玲王くんを待っていられたんだろうけど、そんな風にはいかないから、恋って難しい。
「こんばんは。折角のイブなのに、を借りてしまってすみません」
玲王くんは、背後にばぁやさんを従えてお母さんに頭を下げた。(お誕生日にデートしたときとか普段うちに勉強に来るときなんかは、玲王くんはいつも一人で家にやって来ていたから、ちょっと面食らってしまった。だけどもしかしたら、夜に連れ出すことになるのを考慮して、お母さんを安心させようとしてのことだったのかもしれない。すっごくスマートだ。)
「そんな、いいのよ。楽しんできてね。――ばぁやさんも、どうかよろしくお願いします」
「はい、勿論。お任せください」
「遅くならないうちに帰します」って、いつもよりも柔和な笑顔をお母さんに向ける玲王くんを視界の端に入れて、「い、いってきます、お母さん」とブーツに足を入れる。「いってらっしゃい、気をつけてね」聞き慣れた、どこか間延びしたお母さんの声は、心臓の鼓動に紛れて、膜の外側にあるみたいに遠い。
とうとうだ。とうとう、クリスマスのデートが始まってしまった。「始まった」っていうと、なんだかどうにも奇妙に聞こえるけれど。
ばぁやさんが玄関扉を開けると、外はもう日がすっかり落ちていた。日中重なり合っていたはずの雲は予報通り、いつの間にか切れていて、黒から紫のグラデーションを作る空が頭上に広がっている。
びゅう、と風が吹いて、思わず身を縮ませた。その一瞬、緊張していたこともすっかり消えて「さむっ……!」と口にすれば、「寒がるのはえーよ」って、隣の玲王くんが笑った。その声のトーンも、口調も、いつもの玲王くんだったから、思わず顔を上げる。
「てか、それ薄着じゃね? 寒くねーの?」
お母さんの前と今とだと、玲王くんは調子が違う。やっぱり気を遣っているのかな。私は、何の気負いも飾り気もない、今の玲王くんの方が好きだ。くすぐったくて、こっそり唇の内側を緩く食む。庭から門まで続く道に並んだガーデンライトが、仄かに玲王くんの顔を照らしている。
「薄着じゃないよ……! インナーとかあったかいし、コートも厚いし……ポケットにカイロもあるの!」
「へー?」
車の準備のためか、ばぁやさんは私たちの先を歩いていた。会話を聞いていないのか、聞かないようにしてくれているのか、私と玲王くんと、それからばぁやさんとの間には、ちょっとした距離があった。
門まで続く道を横並びに歩いた玲王くんが、不意に私のコートのポケットに手を入れる。出掛けに押し込んだカイロの存在を確かめるように、玲王くんは指先を私のポケットの中で動かした。それに思わず息を飲む。コート越しの、足の付け根あたりに触れられたような感触に、ほとんど飛び跳ねてしまいそうだったのだ。
だけど玲王くんは、そんな私のことなんて全然気がついていないみたいだった。
「流石にまだつめてぇか」
悪戯っぽく笑った玲王くんの髪が、頬に触れるか触れないかの距離にあった。それで、ずっと我慢していた悲鳴を、どうして漏らさずにいられただろう。
「ひぇ……」
無意識に喉から漏れた声は、十二月の夕に滲むみたいに落ちて行く。ばくばくと音を立てる心臓を、コートの上から押さえる。なのにその手を、玲王くんは何の躊躇もなく取ってしまう。
「行くぞ」
玲王くんの背の奥で、ばぁやさんが既に運転席に乗り込んだらしい車のライトがぱっと点灯した。瞬間視界の一部が白んで、ぼやけて、自分が泣いてでもいるみたいに滲んだ。呼吸が上手くできなくて、一旦目と口とを、全部ぎゅうって閉じる。その間も玲王くんの体温と感触だけは鮮明だった。
高校一年生、冬。去年の今頃は、自分と玲王くんがこんな風になっているなんて夢にも思っていなかった。今でもたまに、夢みたいって思う。握られた手はどうしてかじんじんして、現実だって知らしめているみたいで、私は今、呼吸もまともにできていない。