テストの点数が悪かったらクリスマスも勉強会、なんて冗談めかして口にはしていたけれど、本気でそんなことをするつもりは毛頭無かった。が俺の言葉をどこまでまともに受け止めていたかは知らないけどな。
 だけどクソ真面目なのことだ。もしこれで平均点以下を叩き出したら、自ら「これは流石に勉強会です……」と言い出すこともしかねなかった。そうしたら「いや、あれは冗談だっての」ってちゃんと弁明しなきゃならねえよな。だってもう、イブの約束を取り付けたあの日から、クリスマスに向けて諸々準備はしてあるのだ。――勿論、の数学が看過できないほどどうしようもない点数であるならば、それはそれとして勉強会を別にしなければいけなくなるだろうけれど。
 そんなことを考えていたものだから、今日の授業でテストが返却されたとき、先生の手から答案を受け取ったがぱっと表情を変えたのを見て、「お」とは思ったのだ。
 ざわつく教室で、は周囲の人間にバレないよう、教室の後方にある俺の席に向かって満面の笑みを浮かべてみせた。誰も見ていないって確証さえあったら、ピースくらいはしたかもしれないくらいの喜びようだったと思う。実際その次の休み時間、「やりました!」とくす玉を割る犬の大群のスタンプだけが送られて来たから、したらよほど良い点数だったに違いないけれど。








 平均七十一点。若干平均点の高めではある数学のテストに、春に五十点を叩き出した過去を持つは、しっかり食らいついていたらしい。



「見て見て玲王くん! 実はね、平均点よりよかったの……!」

「おおー」



 学級委員の定例会議が終わって、すっかり人気のなくなった教室。は俺の前に数学のテストを掲げて見せる。八十二点。平均より十点も高いとなれば、御の字どころではない。大躍進だ。
 会議の前から、はずっとにまにましていた。第二会議室までの道中、「どうだったんだよ?」って聞いても「会議が終わったら見せるね」って機嫌よくいたから、俺も楽しみにはしていたのだ。
 基本問題は全て正答。捻った問題も、完全解答とまではいかずとも途中点はしっかり確保していた。勉強を見てやるようになった夏からじわじわ成績が伸び始めているとは言え、平均をしっかり上回ったのはこれが初めてだ。単元の相性も良かったのだろう。「やるじゃん、」って褒めてやれば、は「へへ、八割とれたらいいなあって思ってたけど、本当にとれるなんて思ってなかった」と眉尻を下げ、頬を微かに赤らめて面映ゆげに微笑んだ。
 隣の席に腰を下ろしたは俺の方に身体を向けて、覗き込むように上半身を寄せる。シャンプーの柔らかな匂いが、微かに鼻孔をくすぐる。



「ここ、玲王くんが言ってた問題、ちゃんと出たね!」

「あー、これな。先週できてなかったのに、ちゃんと解けてんじゃん」

「うん! こことかここも丸もらえたの、玲王くんのおかげだよ! テストの直前まで類似問題いっぱい解いてたから、見た瞬間やった~! って思ったの」

「いや、俺のおかげってだけじゃねえだろ? が頑張ったんだって。――ちゃんと結果に残せて、偉いな」



 間違えた問題の確認をするために、机の上に広げた答案用紙に目線を落としながら、隣に座ったの頭をほとんど無意識に撫でた。息を飲むような音と、の柔らかい髪と額の感触に、思わず我に返る。視線を向けると、今度ははっきりと赤面したが、俺のことを真っ直ぐ見つめていた。荒れ一つない唇が、空気を求めるように薄く開く。



「わ、わぁ……」



 何てこと無い顔をしようと思ったのに、そんな反応されたらこっちも無反応を貫くわけにはいかなくて、少しだけ眉を寄せた。の方は、俺の動揺なんてちっとも気付いていないようだったけれど。
 と恋人になって、季節が二つ進んだ。その間手を繋いだ回数は数え切れない。……人目のない場所で二人きりになることが滅多にないから、キスはそれよりずっと少ないけれど。でも、そういえばこんな風に頭を撫でたことは、なかったんじゃないだろうか。
 動揺が顔に出そうになって、そっと手を離した。指の先に、それでもその髪の柔らかな感触や生ぬるい温度が、いつまでも残っているようだった。が前髪を押さえながら目を伏せる。長い睫毛が、微かに上下する。
 冬の日暮れは早く、五時も回っていないのに、窓の外はすっかり陽が沈んで、紺が滲むように窓の外に溶けていた。頭上を照らす白熱灯に、の髪が透けている。階下から、居残っていたらしい誰かの足音が、反響するように響いている。



「――悪い」



 口から零れた言葉に、細やかな沈黙の後、は大きく首を振った。「わ、悪くはない、です、ぜんぜん」そう口にする視線を落とすがどんな表情をしているのかははっきりとは分からなかったけれど、それでも、その頬がはっきりと熱を持っていることだけは分かった。
 手も繋いで、何度かキスもして、それでもそれ以上の進展を求めないのは、ただ俺が、を大事にしたいと思っているからだ。――サッカー選手になるっていう夢を叶える以上、彼女に現を抜かしてばかりもいられない、っていうのも、そりゃあ多少はあるけれど。
 それでもこういうとき、どうしても込み上げてくるものがあることは否定できなかった。いつもにこにこ笑っているが俺の前でだけ見せる表情に、欲が刺激されないはずがなかったのだ。
 舌打ちしたくなるのを、ぐっと堪える。の前では余裕を持っていたいのに、時折それが、根から崩れそうになるときがある。いっそ情欲に任せてしまえたらいいのにと、ぐらついてしまいそうになる。
 そういう欲すら、本当は飲み込むべきだと知っていたのに。



「……悪くねえなら、もう一回撫でてい?」



 胸がむず痒くて、どうしようもなかった。
 返事よりも先に、一度は離した手をもう一度その小さな頭に乗せた俺は、我慢が足りないのだろうか。指先で触れた瞬間、びくりとその身体が跳ねる。やわく撫でたらはぎゅうと縮こまって、もう一度、今度は蚊の鳴くような声で「わぁ……」と呟いた。それがあまりにも弱々しいから、思わず笑いそうになった。とうに暖房の切れた教室はひんやりとしているのに、緊張のせいか、の額は、微かに汗ばんですらいる。狼狽えるように視線を泳がせるその頬が、酷く赤い。
 欲に支配される。もっと触れたいと、脳の奥がやわく痺れる。大事にしたいという思いに反して身体が動く。額に触れていた指先が、頬に、顎に落ちて行く。このままキスをしてもいいだろうか。
 けれど、なんでもかんでも思い通りにいくわけはない。



「ていうか一色先生てさあ……」

「あ、わかるわかる、そういうとこあるよね」



 キスどころか、廊下の方で話し声が聞こえた瞬間、驚いたらしいは「!」と声にならない声をあげ、勢いよく立ち上がってリュックを取りに自分の席へと駆け出したから、俺の手はそれで彼女から強制的に離れることになる。
 俺に背を向けて荷物を整理するの耳は、分かりやすく赤い。足音が教室の前を通ること無く遠ざかっても、は息を潜めてじっとしていたから、よっぽど動揺していたんだろう。じわじわと熱を持った胸に素知らぬふりをして、片手で鼻から下を覆う。あのままキスをしていたら、はどうしただろうか。少なくとも、「学校ではだめだよ」と怒ったか。そういう想像が、今は上手くできない。



「…………」



 手元に広げられたのテストを、もう一度見る。八十二点。もう見慣れてしまったの書く数式を指の腹でなぞって、ため息なのかそうでないのか分からない息を、小さく吐いた。指先にはまだ、の温度が残っている気がした。


PREV BACK NEXT