ジャージを首元までしっかりしめたは、さっき自販機で買ったばかりの紅茶を膝に抱えながら、俺の隣に座っていた。体育館裏の、第一倉庫の搬入口として作られた扉に続くほとんど使われていない外階段に腰かけて、そわそわと落ち着かない様子で周囲に視線を彷徨わせるものだから、笑いそうになる。心配しなくても、球技大会の日にこんなところに来る奴、いねえよ。
体育館裏に等間隔で植えられたクヌギの木は、ところどころ色づいて、視界を明るくさせていた。差し込む日差しは柔く白んで、の伸ばした足の先に伸びている。ひんやりした空気の中、小さく息を吐いてから、「さっき、惜しかったな」って口にすれば、はぱっと顔を上げて俺を見た。
「バレー。頑張ってたじゃん」
「や、そんな、私なんか全然足引っ張っちゃって……! でも……でも、うん、頑張った……!」
照れくさそうに笑いながら、「もうちょっとだったから悔しいし、私がちゃんとしてたら勝てたのかなって思うと、やっぱり申し訳ないけど……でも、楽しかった、すごく」って続けるを見ていると、胸のあたりにじわじわと、柔らかな熱が浸透していくような感覚になる。けれど、顔とか言葉に出すのは格好悪い気がして、「ん、なら良かったわ」って、短く吐き出すに留めた。俺はの前だと、どうも、少し取り繕ってしまうところがある。
はけれど、俺のそういうところにちっとも気がつかないらしい。緊張が解れたのか、自分で買ったくせに「これ、飲んで良いですか」とわざわざ俺に紅茶を見せて確認するに、「飲め飲め」と緩く頷く。開けてやった方がよかったかな、ってちょっと考えたけれど、次の瞬間には、は難なくペットボトルのキャップを開けていた。よっぽど喉が渇いていたのか、両手で抱えて、温くなったらしい紅茶を飲むをまじまじ見ていると、視線に気がついたらしいははっと目を見開いて、唇からペットボトルを離す。その双眸が「なんで見るの」と訴えるから、目だけを細めた。
午前中、二つの試合を終えても、疲労感はさほどなかった。それもこれも、夏から俺のトレーニングをしてくれていた筋田さんのおかげだろう。あの人のトレーニングはどれもこれもキツかったけど、お陰でフィジカル面は充分鍛えられた。これだったら午後も、クオリティを落とさずに動けるだろう。たかが球技大会ではあるけど、どうせやるなら優勝を狙いたいしな。次の試合のことが頭を掠めかけたその時、が「あの、二回戦突破、おめでとう」と、微かに掠れた声で呟いた。
「……でも、その……実は私、玲王くんの試合、まだ観に行けてなくて」
消え入りそうな、申し訳なさそうな、弱々しい声だった。
の顔をじっと見つめる。責めようと思ったわけじゃない。第一試合も、第二試合も、ギャラリーを埋め尽くすほどの生徒で溢れていたのは覚えているから。あそこのどこかにがいたら、潰されそうだなとは思っていた。「二回とも、体育館に入る前に人の圧で弾き返されてしまい……」とが言うから、想像して、ちょっと笑う。
前々から「もみくちゃにされても応援に行く」とは言っていたけど、正直、怪我でもされたらそっちの方が困る。無理して観にくるもんでもないんだから、俺のとこなんか来ないで、他の試合観てろよ、そう口にしかけた俺の隣で、はポケットから、折りたたまれた対戦表を取り出した。
「だから、次の試合は今からもう場所を取っておこうと思ってるの……! 次、準決勝だから、場所取りも激戦になりそうだけど……でもね、なんか、男子バレーの方も盛り上がってて! 一年生のクラスが勝ち上がってて、すごく強いんだよ。だからそっちにも分散してくれるんじゃないかなあって期待してるんだ……!」
あとあと、リサちゃんみたいに帰っちゃった子も多いみたいだから……。そう目を輝かせて拳を作るは、俺の視線に気がついて、一度、不思議そうにその目を瞬かせた。
なんて言葉を作るべきなのか。胸のあたりから込み上げる熱は、今度ははっきりと俺の内臓を振動させる。無理しなくていいって。そう思ったのも確かなはずなのに、俺は今、の言葉に、感情を揺さぶられている。思わず口元を手で押さえる。
「…………お前、俺の試合、そんなに観たいのかよ?」
考えるよりも先に口にしてしまった言葉に、は強く頷いた。光の粒を内包するような、やわい笑顔だった。
「めちゃくちゃ観たいよ! 玲王くんのバスケ、生で観たい!」
力説するように強く言われて、どうして笑わずにいられただろう。
「だから、そろそろ場所取りしないといけないの!」ペットボトルの蓋をぎゅっと閉めて、は立ち上がる。準決勝まで、あと二つは他のクラスの試合があったと記憶しているが、それくらい気合を入れていかないと観戦できないとは思っているらしい。……流石にそこまで激戦じゃねえだろ、とは思うけれど。
「先、行ってるね。次はちゃんと体育館で応援するから! 頑張ってね……!」
階段を二段、ジャンプしながら言うの髪が揺れる。その時初めてその後頭部が視界に入って、あ、と思った。試合をしているときは綺麗に結ばれていたのリボンが、少し緩んでいたのだ。二回も「人の圧で弾き返された」せいだろう、きっと。
がこちらを振り向く寸前、「」と声をかけて、立ち上がる。急に背後に立たれたものだから、も驚いたのだろう。悲鳴と返事が合わさったような奇妙な声をあげるに、「ちょっとじっとしてろ」と口にする。頭一個小さいせいで屈まなければならないのが、少し煩わしい。
髪と一緒に編み込まれた水色のリボン。見るからに凝っているその髪を解いて全部やり直せ、って言われたら流石に難しいが、後頭部で蝶々結びになったそれを結び直すくらいわけはない。緩くなっていたリボンを、指で軽く引っ張って一度解く。オーガンジーの生地が、指の腹を滑る。
「え、わ、わぁ……」
後ろ頭を触られていることしか分からないらしいは、明らかに狼狽していた。何が起きているか、よくわかっていないようだった。だから、「リボン、取れかけてんぞ」と答えた。
「直してやるから、じっとしてろ」
「えっ、は、はい……」
は俺の言葉を受けて、じっと身を縮こまらせる。
の頭は、小さかった。両の耳朶は赤く染まって、ほとんど息を詰めているように、身動ぎの一つもしなかった。調整するために僅かに膝を曲げたとき、木々の隙間から差し込んだ光が目に入って、思わず瞳を細めた。「ん、完成」結び直したリボンから手を放した瞬間、色素の薄いの髪が揺れる。振り向いたの、赤い顔が、熱に浮かされたような瞳が、目に焼き付く。
「……ありがとう」と吐き出したその唇が、微かに震えていた。
風が吹いて、の耳の辺りに落ちた後れ毛が靡く。の輪郭が、消え入りそうなほど、淡く滲む。
「でも、い、いきなりそれは、ずるいよ、玲王くん……」
泣き出しそうな声に、俺を見上げる、僅かに潤んだ双眸に、ちょっとぐらっと来たなんて、には死んでも言えない。
第一体育館のギャラリーはお昼休憩の中であっても応援の人たちでひしめきあっていたけれど、まだ充分立ち見をする場所が確保できるだけの余裕があって、試合が始まるまでの間、私は一人でじっと息を潜めていた。
半分くらい空になったペットボトルを抱えて、今はまだ試合の始まっていないバスケのコートに目線を落とす。話し声とか、足音とか、色んな雑音が混じり合って耳に届くのに、心臓はまだバクバクと音を立てていた。それがすっごく、うるさかった。
こっそり触れた頬は、びっくりするくらいに熱い。
髪に触られて、リボンを結び直してもらって、たったそれだけで、なんでこんなにドキドキするんだろう。背中を向けていたのに。ううん、背中を向けていたせいなのかな。玲王くんの優しい手つきが、リボンから、髪から皮膚から伝わって、生ぬるい熱になって私に伝わった。息もまともにできなかった。こんな状態で、これから玲王くんの試合を観て、大丈夫だろうか。格好良すぎて、好きすぎて、爆発しちゃうんじゃないだろうか。想像しただけで、息が詰まる。
はぁ、って、憚らずにため息を吐いた。体育館の窓から差し込む光が作る陽だまりの中で、抑えきれない感情を抱えて両手で顔を覆う私は、周りから見たら、多分ちょっと、いや、きっと大分変な人だった。