春に比べれば落ち着いたとは言え、玲王くんはやっぱり、白宝高校の王子様だった。
バスケの試合が行われている第一体育館は初戦から物凄い人で溢れて、充分な広さがあるはずのギャラリーも、体育館の入り口も、近づくことすら困難だった。きっと、皆玲王くんの試合が観たいのだ。
それでも何とかひと目だけでも見ることはできないかと、人の圧でぎゅうぎゅうになりながらもコートが見える場所に向かおうとしたんだけど、足は踏まれるわ脛を蹴られるわ、お腹に肘を入れられるわで、どうにもならない。ぜいぜいしながら体育館の外に戻って来た私を見て、最初から体育館に入るのを諦めていた夏帆ちゃんとリサちゃんは、「あーあ」って苦笑した。「大丈夫?」って聞かれて、何とか頷く。
「これは無理だね、諦めよ」
肩を竦める夏帆ちゃんも、「折角時間的には丁度よかったのにねえ」と頷くリサちゃんも、とは言えさほど残念そうには見えない。入学したばかりの頃は玲王くんに興味津々だった二人も、この半年で玲王くんの存在にすっかり慣れてしまったみたいだった。固執してるのは、多分、私だけだった。
「試合、見たかったぁ……」
後ろ髪は引かれるけれど、体育館に近づけないんじゃどうしようもない。きっと皆、予め玲王くんが出るのを知っていて、試合の始まる前から準備していたんだろう。直前まで試合をしていた私たちが入れないのは、仕方ない。ため息を吐きながら、ジャージのポケットに折りたたんだ対戦表を開く。私が引いてしまったあの死のブロックをもしも玲王くんたちが順当に勝ち進めば、少なくとも決勝までにあと三回は試合があるから、どうにかどこかで、一回だけでも試合が観られたら良いんだけど。
唸る私の腕に、リサちゃんが触れる。
「仕方ないし、他のとこの応援いこうよ。今試合してるとこ、他にあったっけ?」
「うーん……そうだねえ……男子のバレーがこの後あった気が……」
蛍光ペンでチェックされた、他の競技の試合時間を確認する私たちのすぐ近くで、そのとき、わあ、って、大きな歓声がした。思わず顔をあげる。体育館の出入り口は隙間なく人の背があって、何が起きているのか、ここからではちっとも判別がつかなかった。
うねりのような歓声は、ただの球技大会で聞くには大凡相応しいものには思えなかった。今、試合はどうなってるんだろう? 誰かが物凄いシュートでも決めたのかな。カウンターでも決まったのかな。その中心にいるのが、玲王くんだったりするのかな。想像はいくらでもできたけれど、それでも自分がその外側にいることがちょっとだけ寂しくて、胸がすうすうした。
見立てが甘かったのだ。
トーナメント戦である以上、試合が一つ終われば、その分負けたクラスっていうのは当然出てくる。自分たちのクラスが負けてしまえば、他のクラスの試合の観戦でもするか、帰るかしかない。多くの(特に女の子たち)が前者を、それも玲王くんが出ている試合の応援をすることを選ぶのは、少し想像すれば分かることだった。――要するに、二回戦は一回戦のときよりも、一層混沌を極めていたのだ。
折角初戦を突破したって言うのに、辛勝を収めたという二回戦も体育館に入ることができなかった。もう、すっごく良い試合だったんだって。すれ違った二年生の先輩たちが興奮した面持ちで話していたのを盗み聞いただけだけど。羨ましくて羨ましくて、わあ、って叫びたくなる。こうなったら次の試合の始まるずっと前、お昼で人が少なくなるタイミングで、無理矢理ギャラリーに入り込むしかない。三回戦は少し時間が空くみたいだし、流石にそこまで気合を入れて観戦に臨む人も多くないだろう。……多分。
試合の無い人は帰宅も可、って言われていたのもあって、リサちゃんは、「ごみごみしてて疲れちゃった」って、お昼を待たずに帰ってしまった。夏帆ちゃんは、怪我をしてしまった子の代わりに急遽テニスの試合に出ることになって、お昼は練習するんだって。二人を私に付き合わせずに済んで、良かった。「玲王くんの試合がどうしても見たい!」なんていう感情で二人の時間を使ってしまうのは申し訳なかったし、一人で見に行くにしても、上手く言い訳ができる気がしなかったから。
悶々としながら、空き時間に一人でバレーの準決勝を見た。こちらもまた人で溢れかえっていたけれど、第一体育館ほどじゃあなかったのは幸いだったと思う。接戦を制したのはさっきも試合を観た一年生のクラスだった。「凪くん」はやる気がないのが明らかながらも、要所要所で器用に点を取っていた。声を出さない分他の生徒に埋もれちゃうみたいだけど、でも凪くんが起点になったところも多かったと思う(私がそれに気がつけたのは、さっき彼がどやされていたのが印象に残っていたからっていうのもあるんだろう)。大歓声の中周りの人と一緒に拍手で勝利をお祝いしたけれど、でもやっぱり、頭の中は玲王くんの存在でいっぱいだった。
――色々考えすぎなのかな。私。
体育館脇の自動販売機を前に、うーんと首を傾げる。秋晴れの今日は、そよそよと風が吹き付けていて、ちょっと肌寒い。喉を潤してから場所取りをしようと思ったんだけど、温かい飲み物の方が良いかもしれない。どうしようかな。迷う傍らで、夏帆ちゃんたちの顔を思い浮かべる。
付き合っていることは誰にも知られたくない、なんて言うけれど、夏帆ちゃんやリサちゃんにも黙ったままなのって、そもそも二人に失礼なんじゃないだろうか。友達なんだから何でも話すべき、みたいな、そういう感覚を二人が持っているようには思えないけれど、逆の立場だったら、ちょっと淋しい気もする。
あんまり品揃えの良くない、日陰の自動販売機は他に人気がなくて、笑い声も、喧噪も、遠かった。隆起した石畳のでっぱりに踵を乗せて、温かいお茶か紅茶で、指を彷徨わせる。お昼休憩で試合の中断している体育館は、さっきまでと違って、膜でも張られたみたいに、穏やかな、丸い空気が流れていた。その空気に、ちょっとくすんでしまった胸の内が浄化されたような気がして、小さく息を吐いた。
紅茶に決めてボタンを押しかけたとき、「?」って名前を呼ばれて、「うひゃっ」と悲鳴が漏れた。びっくりしたままの勢いでボタンを押してしまって、ガタン、って鈍い音を立てて取り出し口にペットボトルが落ちたのを、ドキドキしながら見つめる。でも、拾い上げる前にそろりと振り向いた。その声の主を、一秒でも早く確かめたかったのだ。
だって、私をって呼ぶ人は、この学校に一人しかいなかったから。
「れ、玲王くん……!」
分かっていたはずなのに、その姿を見たとき、息が止まるかと思った。
ジャージを着た玲王くんは、小さく首を傾げて、「一人かよ? 珍しいじゃん」って、周囲に視線を巡らせる。私から言わせれば、玲王くんが一人の方がよっぽど珍しい。玲王くんは、学校ではいつも必ずその周囲に誰かがいるから。
「う、うん。リサちゃんはもう帰っちゃって、夏帆ちゃんはテニスの試合に出ることになったから、練習なの。だから一人……」
説明をしながら、目が上手く合わせられない自分に気がついて、ちょっとだけ困ってしまう。話したいことがたくさんあるのに、どぎまぎする。電話でとか、学級委員っていう建前があるときだったら、大丈夫なのに。今、時間良いのかな、とか、誰かを待たせてたりしてないのかな、とか、余計なことを考える。
だけど玲王くんは、「ふーん」って目を細めて、それから自販機の取り出し口に転がったままの紅茶を取った。この数秒の間ですっかり忘れていたので、ちょっとびっくりした。
玲王くんが私を振り向く。試合を二つも済ませたっていうのに、玲王くんは全然、ちっとも疲れた様子を見せてはいなかった。それもこれも、サッカー選手になるために、たくさんトレーニングをしているからなのかな。ジャージの上からでも、玲王くんの身体はがっしりしていた。そんなことに、今、気がついてしまった。
乾いた風に、玲王くんのさらさらの髪がそよいでいる。体育館の陰。品揃えの良くない自動販売機。風の通り道で、肌寒いそこに、好んで近づく生徒はあんまりいなかった。私たちだけが取り残されたみたいだった。「じゃーさ」遠くで響いた誰かの笑い声に重なるように、玲王くんは言う。
「時間あるなら、ちょっと話さねえ?」
折角だしさ、って、そう目を細める玲王くんは、こんな体育館脇の日陰でも、いっとう輝いて見えて、たったそれだけで、胸がぎゅうと締め付けられた気がした。