次の学級委員は、九月最後のホームルームであっさり決まった。
皆の支持もあって、「だったらそのまま俺がやるわ」って壇上で口にした玲王くんと(ものすごい盛り上がりだった。教室が、わって沸き立つくらいには)、女子の方は、あの時「立候補しちゃおうかな」って笑っていたクラスの中心人物の女の子――皆瀬さんだ。
私はもっと立候補者が乱立して、じゃんけん大会になっちゃうんじゃないかなって危惧していたけれど、女子は皆瀬さん以外に立候補者はいなくて、ちょっと肩すかしを食らった気分だった。積極的に公言していた皆瀬さんに気を遣って、っていうよりは皆、面倒臭そう、って思っているみたい。まあ、なんだかんだ、会議のために居残ったり提出しなくちゃいけない書類が多かったりするから、そういうところが敬遠されてしまった要因なのかもしれない。球技大会は文化祭ほど大きな行事ではないし、それ以降も目立った活動は恐らくないとは言え。
黒板に皆瀬さんの名前を書きながら、これで最後かあ、ってぼんやり思った。水曜日の午後。チョークを握るのも慣れっこになっていた私は、もう、春みたいに、へにょへにょの字で人の名前を書かないで済むくらいにはなっていた。斜めにもなってなかったし、変に薄くもなってなかった。
――結構上手になったなぁ。
自分自身にそんなことを思うなんて、ちょっと自画自賛で恥ずかしいけれど。
「学級委員、玲王と一緒に頑張りまあす」
壇上に立ち、溌剌とした声でそう挨拶する皆瀬さんは、きらきらしていた。元からそこにいて然るべき、みたいな人だった。
「さんも、迷惑かけちゃうかもだけど、引き継ぎよろしくね」
黒板に半身を向けていた私にもそう振り向いて挨拶してくれて、私は慌てて「うん! こちらこそ、おねがいします!」と頷いた。あの日玲王くんと下校して以来、どうなっても全然平気、って思っていたけれど、実際現実になってみるとちょっと打ちのめされそうだったから、こうして声をかけて、笑ってくれて助かった。
皆瀬さんは(勿論、他の子たちもなんだけれど)とっても優しくて、良い子だ。真っ直ぐで、きれい。私の中に微かなもやもやがどうしたってあるのが、恥ずかしいくらい。
私から見て彼女の奥に立っていた玲王くんは、私たちの方を一瞥したけれど、その表情は、皆瀬さんの長い髪に隠れて見えなかった。玲王くんとは、結局この件に関して、ここにくるまで、一度も話をしないままだった。
「でね、これがノート! 必要なかったら真似しなくて良いんだけど、私は毎回ここにまとめてたよ。そっちの方があとで提出する書類を作りやすいから……。今までのホームルームの議題が全部まとめてあるので、もし良かったら参考にしてください……!」
翌日のお昼休み、お弁当を食べ終わった頃に声をかけてくれた皆瀬さんは、私の隣の席に座って「わー……」って、感嘆したような声で呟いた。「さん、マメだねえ」って。
「や、全然だよ! 私は要領が悪いから、こうしておかないと上手くできなくて……! でも皆瀬さん、頭いいから、こんなことしなくても平気だと思う。ちょちょちょってできちゃうよ」
「そんなことないって! うわ〜、なんか自信なくなってきた。どうしよ玲王の足引っ張ったら」
「いや、引っ張らない! 私でもどうにかなったんだから大丈夫だよ!」
「そうかな〜……? ……わ、さん字まるくてかわいい」
「えっ、そうかな!?」
会話の中で急に褒められてしまって、心臓が跳ねた。
皆瀬さんの丸い爪は薄く色づいていて、それが開かれたノートの、私の字をなぞるように追いかけるから、妙に緊張してしまった。
皆瀬さんとは、同じクラスになって半年も経つけれど、あんまりお話したことがない。それこそ、春に皆でお弁当を食べたときとか、文化祭の打ち上げくらいじゃないだろうか? それだけで私はそわそわしてしまうけれど、皆瀬さんの方は、そういうの、全然気にならないみたいだ。
字、間違えてたらどうしよう。春に玲王くんに漢字の間違いを指摘されたことを思い出して、落ち着かなくなる。「あ、じゃあさ、こういうとこのメモとかは後で必要なんだ?」ちょっと身を乗り出されたとき、シャンプーの良い匂いがふわっと香って、うわっ、となった。男の子だったら、もう好きになっていたかもしれない。私って、すごく単純だから。
「う、うん、こういうのは、大体提出するときに使う……!」
「へえ〜! ここ大事、ってメモしといてもいい?」
「勿論! 全然書き込んじゃってください……! そのままあげるし……! いらなかったら捨ててもらっていいし……!」
本当は、玲王くんとの思い出がいっぱい詰まっているから、捨てられるのはちょっと惜しいけど。でもあげる、って言ったのに返してっていうのは変だし、うん、仕方ない。そういう気持ちで話していたら、皆瀬さんは「ありがと〜。でも書き込むのなんか申し訳ないから、付箋にするね」って、持っていたペンケースからシロクマの形をした付箋を取り出して、「ここ、大事」ってさらさらって書いていた。その字がもう、なんていうかすっごく綺麗で、びっくりしてしまう。
「皆瀬さん、すっごい達筆だねぇ……!」
さっき褒めてもらったお返しなんかじゃなくて、心から出た言葉だった。皆瀬さんの字は、癖の一つもなくて、お手本みたいだ。
皆瀬さんは私の言葉に、ちょっとだけ照れくさそうに笑う。微かに伏せられた睫毛は、私の物より量が多い。
「ありがとう。でも小さいときから習字を習ってるだけなの。今もやめさせてもらえなくてさ。……おじさんみたいな字でしょ」
私はさんみたいな、女の子っぽい字の方が好きだな、って、落ちた髪を耳にかけるその所作はやっぱり綺麗で、上品だった。私なんかより、ずっとずっと女の子らしかった。もし、もしも今、私が玲王くんの恋人、っていう立場にいなかったら、完璧に心が折れちゃっていたくらい、彼女は素敵な人だった。
皆瀬さんは、私のノートを閉じると、それを大事そうに胸に引き寄せる。
「ありがとー、さん。また分からないことあったら、聞きにきてもいい?」
その笑顔はきらきらしていて、眩しくて、ともすると、息が詰まりそうだったけれど、どうにか「勿論!」って頷いた。
お友達のところに戻るその後ろ姿を見送りながら、ほんとに、ほんとに素敵な人だなあ、って、じんわり熱が籠もるみたいに思う。あんなに美人で優しくて明るい、非の打ち所のない人に嫉妬なんてして、私って、なんて狭量だったんだろう。内省しながらため息を吐く。懺悔するみたいに、ごめんなさい、って考えた。彼女にだったら、仕方ない、って思った。
諦めがついた気がした。
だからこそ、びっくりしたのだ。
「ごめんなさい、さん……!」
引き継ぎも済んで、来月から新体制が始まろうとしていた九月の最終日、その放課後。無覚えのあるノートとプリントを大事そうに抱えた皆瀬さんは、私の前で深々と頭を下げていた。
「…………え、なに……!?」
「学級委員の会議がある日って、毎回曜日が固定されてるんだね……。私、全然そこまで考えてなくて……」
ばっと顔をあげた皆瀬さんは、ちょっとだけ泣きそうな顔をしていた。「ていうか、私、放課後だめなの。その曜日は特に埋まってるの。お稽古事で、びっちり」先に確認しておくべきだったよね、って。その言葉を脳に染みこませるよりも早く、皆瀬さんは私の両手を掴む。
「ノートも全部見たけど、さん、書類とかも残って作ってたんだね。大変だったんだね……。時間、いっぱい使ってたんだね……」
それは私の要領が悪いから。言いかけた言葉は、皆瀬さんの「さん!」って言葉にかき消された。まだぽつぽつと残っていたクラスメイトたちの視線が、注がれている。でも、皆瀬さんにまっすぐ見つめられているこの状況の方が、ドキドキして、困った。
「折角引き継ぎしてくれたのにごめんね。私、多分これできない。私がこのままやったら、玲王の負担になると思う」
それはやっぱり、本意じゃないんだ、って。
「他に立候補者もいなかったし、もしさんが無理じゃなければ、私の代わりにこのまま学級委員、してもらうことってできないかな」
本当に、無理じゃなければ、って。
皆瀬さんの言葉に、え、って、喉の奥から声が漏れた。びっくりして、つい居るかどうかも分からない玲王くんの姿を探してしまう。それで、まだ自分の席に座っていた玲王くんが、横目でこちらを見ているのが分かった。その口元は手の平で覆われていて、全然表情が窺えないけれど。
皆瀬さんの柔らかい手に、ぎゅうと力が込められる。「急に迷惑だよね、ほんとにごめん……」って、あんまりにも申し訳なさそうに言われるから、私はとうとう、「ぜ、ぜんぜん引き受けます、私、放課後とかいつでも暇だし……!」って、口にした。瞬間の、皆瀬さんの安堵の表情っていったら、ない。
「ありがとう〜! ごめんね、本当にごめん……! この埋め合わせは絶対するから……!」
「そんな、ぜんぜん! 気にしないで……!」
むしろ、願ってもないっていうか、降って湧いたような幸運っていうか、勿怪の幸い、っていうか。そんなこと、勿論口にはできないけれど。
ほんとにごめんね、先生には私から言っておくね、って謝られながら、ノートとプリントを渡される。後期学級委員会議のお知らせ。って書かれたそれに、何故か途端に懐かしさのようなものを覚えてしまった。胸に込み上げてくるものがあって、息を止める。「私の事情に巻き込んじゃってごめんね」って、もう一度謝ってくれる皆瀬さんに大きく首を振った。眉尻を下げた皆瀬さんは、こんなときでも、きれいだった。
そろりと玲王くんの方を見る。玲王くんは、今度ははっきりと私を見て笑っていた。頬杖をついた口元は、さっきと違って私の位置からよく見える。その唇が「よろしく」って動くのを見て、私は今度こそ、息ができないくらい、胸が締め付けられた気がした。