いつものようにバレーの練習を終えた後、リサちゃんに「ねえ、そういえばさ」って声をかけられて、隣の彼女を見た。九月も終わりに近づいていて、目前に迫った球技大会に、学校の空気も少しだけ活気づいてきた頃だった。教室までの道中は、練習を終えた生徒たちで溢れていた。いろんな制汗剤の匂いが混じり合って、ちょっとむっとくるくらいには。
ざわめきの中、リサちゃんは本当に、なんてことないように口にする。新しいお菓子の話でもするみたいな気軽さで、思いついたことをそのまま言葉にでもしたように。
そんな風に気負いがなかったものだから、リサちゃんの口から玲王くんの名前が出てくるなんて、想像もしていなかった。
「もうすぐ九月終わるけどさ、玲王くんって後期も学級委員、続けるのかな?」
そういうの、ちゃん、何か聞いてる? って。
「えっ…………」
だけど私はリサちゃんにそう尋ねられるまで、すっかり失念していたのだ。
学級委員の任期は九月で一度切れるけれど、そもそも別に、学級委員自体、二期続けても問題はないんだっていうことを。
何も、誰か他の人に引き継ぎをしなくとも、そのまま続けることは可能である、ってことを。
「………………わ、わかんない………………」
たっぷりの間を置いて、そう答える。リサちゃんも夏帆ちゃんもさして興味なさそうに「へえ〜」って言っていたけれど、私はその時、足元がぐらぐらして、色んな物が崩れ去っていくような動揺に襲われていたのだ。
そうか、てっきりもう、私たちは二人とも学級委員の任から解放されるって思い込んでいたけれど。うっかりなってしまった上に誰でも代わりが務まるようなことしかしていない私は兎も角、玲王くんに関して言えばそうならない可能性――要するに、そのまま学級委員を続ける可能性は、大いにあり得るんだ。玲王くんだもの。
その事実は私のぼんやりした頭を殴るのに、充分過ぎるくらいの威力を持っていた。だってそんなの、今の今まで全然、考えてもみなかったから。
私以外の子と学級委員をやる玲王くんって、流石に、想像しただけで胸が苦しくなってしまって、目線を彷徨わせてしまった。窓の外は、すっきりとした、ちょっと色の薄い青空が広がっていた。リサちゃんと夏帆ちゃんはもう、次の授業の話に話題を移していた。
「玲王って来期も学級委員、やるの?」
数日後、そんな声が聞こえてきたのに素直に心臓が跳ねたのは、そういう経緯があったからだ。
思わず視線を教室の端に向けると、玲王くんの席に女の子たちが集まっている。クラスでも目立つ――それこそ、夏休み前に玲王くんと一緒に勉強会をしたって言う女の子たちのキラキラした姿に、ちょっとドキッとしてしまう。
だけど、彼女たちが玲王くんとお話するのはいつものことだ。声をかけられて顔をあげた玲王くんと目が合うかもしれないと思って、慌てて目線を自分の机の上に戻す。それでも、内容が内容だけに、つい耳だけはそばだててしまった。玲王くんの声を拾うのは、得意だった。
「――ん? 学級委員?」
「うん。別に二期続けてやっちゃダメ、って決まり、ないよね?」
すっごく、すっごく気になる。ほとんど無意識に背筋を伸ばした。また授業時間中に写し終えなかった板書を、ノートに書き写している途中だった。
恋人なんだし、学校では基本的に遠巻きにしているとは言えいつだって連絡できるんだから、本人に直接聞けないわけではない。だけど、なんだかんだ、ずるずる先延ばしにしてしまっていた。怖かったのだ。玲王くんの返答によって、自分の感情がどういう動きをするのか想像がつかなくて。だけど、それで玲王くんを困らせたりする可能性がある方が、ずっと嫌だった。
玲王くんは、きっと、後期の学級委員に推薦されるだろう。「玲王以外考えられないって!」って、絶対に言われる。このクラスの中心はやっぱりどう考えたって玲王くんだったし、たかが学級委員と言えど、彼以上にそれに相応しい人は存在しないように思えた。問題があるとすれば、玲王くん自身がそれを望むかどうか、っていうことだ。サッカー選手になるっていう夢のために日々邁進している玲王くんは、きっと私の知らないところでも、一分一秒を無駄なく合理的に過ごしている。そこに「後期の学級委員」っていうものが挟み込まれる余地があるかどうか、私には分からない。
とは言え、玲王くんだったら「それくらい大したことじゃねーし、やるよ」って言ったっておかしくない。でも、もしそうなったとき、次の女子の学級委員の座っていうのは、壮絶な取り合いになってしまうんじゃないだろうか。前期の学級委員を務めた私がそこに入るわけにいかないのは分かっている。だって、そんなの狡いもんね。だから、そうなっちゃうと必然的に、これから先私は玲王くんとその隣にいる別の女子の姿を視界に収めなければいけないわけで。そう考えると、ぐ、とお腹が痛くなった。だから、玲王くんには直接、聞けなかったのだ。
「あー、そういう縛りはないな。確かに」
「ね? だから続けるのかなーって思って」
だけどこの状況で玲王くんの本心を聞けるんだったら、私の反応で玲王くんに迷惑がかかることはない。最悪、私が一人で落ち込めばいいだけだ。盗み聞きとか、本当は良くないことだって分かっているけれど。
もう一度そちらに視線を向けたいのをぐっと堪えて、彼女らの会話に耳を集中させる。休み時間の教室は皆の声とか、雑音とか、誰かが消音モードにし忘れたスマホから流してしまったゲーム音とかで溢れているのに、玲王くんたちの会話だけは妙に鮮明だった。つい作ってしまった握りこぶしに力を入れる。心臓がバクバクして、祈るみたいに思ってしまう。「どうか」って。「どうか、どうか、やらないって言って」って。それだって、すっごく自分勝手で、傲慢な願いなのに。
息を潜めていたそのとき、換気のために僅かに開けられていた窓から、不意にひんやりした風が吹き込んだ。前の席の子が机に乗せっぱなしにしていたプリントを浚いそうになって、思わず声を漏らす。
「あ」
咄嗟に立ち上がって、回り込めば良かったのに、身を乗り出して、手で押さえた。そのときだった。
「――別に、続けてもいいかな」
玲王くんが吐き出したそれが耳に届いたのと、私が自分の机にお腹をそれなりの強さでぶつけたのは、ほとんど同じタイミングだった。
だから、そのとき生じた痛みがどちらに起因するものだったのか、私には全然、分からなかったのだ。
「えっ、ほんとに?」
じゃあ私も、立候補しちゃおうかな、って、花が咲いたような明るい声を聞きながら、前のめりだった姿勢を、どうにか元に戻す。バランスを崩して、そのまま転ばなくて良かった。「お、ナイスキャッチ」って誰かが言ったのに、笑うこともできなかった。
続けてもいい。って言葉が、私の頭の中をぐるぐると巡っている。
それでもいつまでも人のプリントを持っているわけにはいかなくて、今度はきちんと机の横から回り込んだ。勝手に触っちゃ悪いかな、って思ったけれど、机に出しっぱなしになっていたペンケースを重石代わりにして、プリントを置き直す。これだったら、また風が吹いても飛んでいかない。玲王くんたちがわいわい話しているのが、急に膜を張ったみたいに遠くなる。
続けてもいい。
――そっかあ。
ぽっかり空いた穴に、一個だけ石を放り込むみたいな感覚で、そう思う。
来月に球技大会がある中で学級委員を代わるなんて、中途半端だもんね。この間も、収まりが悪いって、言ってたもんね。玲王くんは責任感が強いから、そんな状態で引き継ぎするのも、きっと嫌だろうし、やっぱりうちのクラスの中心はどう考えたって玲王くんだから、そのまま玲王くんがやった方が、絶対クラスの雰囲気だって、良いに決まってるよね。
胸がぎゅうとなって、苦しくて、こっそり息を吐いた。
私の手から離れた前の席の子のプリントは、端っこが、ちょっと皺になってしまっていた。