夏休みも終わったって言うのに、暑さはちっとも和らぐ気配がない。
 たった十五分自転車を漕いでいるだけでもびっくりするくらい汗をかくし、学校に着く頃には体力もすっかり消耗してしまう。白宝高校は資産家のご家庭に育った学生が多いから、自家用車で登下校する生徒も少なくはなくて、ぜいぜいしながら自転車を走らせていると、車道を走り抜ける車の中から同情的な視線を向けられることもままあった。「自転車、大変だったねえ」って、車で通学するクラスメイトの子に声をかけられたのだって一度や二度じゃない。
 私も、下手したら倒れるじゃないかってくらいにカンカン照りだったり、強風が吹き荒れていたりしたらお母さんに送ってもらうことはある。だけど今日は夏休み明けだったし、うきうきしていたから、送ろうか、って言ってくれたお母さんに首を振ったのだ。朝だし、まだ涼しいと思うから大丈夫、って。
 でも、今日はちょっと、無茶だったかも。だって既にあっついもん。日陰で信号待ちをしながら、ため息を吐く。民家の壁の奥に咲くノウゼンカズラの、鮮やかなオレンジを、汗を拭いながらぼんやり見つめる。



「あっつい〜…………」



 時刻は朝の八時。真っ青な空には陽の光を遮る雲なんか一つも浮かんでいなくて、今日はこれから、もっともっと暑くなるんだろうなあって思ったら、ちょっとだけ気持ちが萎れた。本当に、ちょこっとだけなんだけど。
 うなじのあたりがヒリヒリ痛むのを感じながら正門を潜り抜け、駐輪場へ向かう。元々自転車通学の人は多くはないけれど、今日はいつも以上にがらんとしていた。そうだよね、暑すぎるもんね、こんな日に自転車を漕ぐなんて、避けられるなら避けるよ。人気がないのをいいことに、ブラウスの胸元を引っ張って風を送る。じっとりかいた汗が気持ち悪くて、首の汗をタオルハンカチで拭った。だけど校舎に入ってしまえば、寒すぎるくらい冷房がかかっているはずだから、あとちょっとの辛抱だ。
 リュックを背負い直し、昇降口へと向かう生徒の流れに合流すると、駐輪場周辺に広がっていた、膜を一枚隔てたような静けさが嘘みたいだった。同じクラスの子、いたりしないかな、って何となく周囲に意識を向けてみると、他の生徒たちの会話が耳に入ってきて(挨拶とか、久しぶり、とか、日焼けしたねえとか、課題がどうとか、ボラボラ島がどうとか、部活の大会がどうとか、そういう話)でも何だかそういうのにすら、感慨に似た懐かしさを覚えてしまう。
 学校だあ、って思う。
 リュックの肩紐を握りしめて、いつもより歩幅を広げて歩く。容赦なく頭を照らす太陽は相変わらず熱すぎるくらいだったけれど、久しぶりの学校に私はすっかり浮かれていたから、もうほとんど気にならなかった。基本的に、学校は好きなのだ。休み明けとなると、尚更。
 夏休みは、玲王くんと勉強会をしたり、お父さんの工房に出かけたり、その帰りにラーメンを食べたり、玲王くんのお誕生日に水族館までお出かけしたり、それから夏帆ちゃんとリサちゃんと一緒にお買い物とかお祭りに行ったりで、すっごく楽しかった。お祭りでは浴衣も着たし、三人で撮った写真を玲王くんにも送った。「浴衣着たよ〜!」って。玲王くんからは翌日、「へー、いいじゃん」って返事が届いた。褒められたことが嬉しくてにまにましていたら、その後「来年か再来年か、もしかしたら俺がプロになってからになるかもしれないけど、いつか一緒に行こ」って続けられて、感激のあまり、スタンプを三つくらい送ってしまった。やったやった〜、って犬が踊っているやつ。でも、本当は三つじゃ足りないくらいだったのだ。私にとって未来は不確定でぼんやりしていたけれど、玲王くんとする約束だけは、燦然と輝いていた。
 サッカー選手になるっていう夢を追い始めた玲王くんは、そりゃあもう忙しそうだった。
 連日トレーニングや基礎練習に明け暮れ、夜は将来を見据えて語学の勉強までしているらしい(英語だけでひいひい言っている私とは、玲王くんはやっぱり、根本的に頭の出来が違う)。そんなだから、勿論私との時間なんか作る暇もないはずなのに、練習の合間に時間を作って、勉強を見てくれたりもした。私のために作ってくれた計画書と睨めっこして、配分まで考えてくれた。それなのに一方で私は、玲王くんが計画書に目線を落とすその横顔に見とれて、わあ、ってなったりしていた。そんな目線に気がつかない玲王くんではないから、こちらに目線を寄越して、「なんだよ?」って眉尻を下げて笑われてしまったけれど。
 玲王くんは、かっこいい。とんでもなくかっこいい。スマートだし、そつがない。夏休み中、中学のときの同級生に告白されて、お付き合いすることになった、って言ってたリサちゃんは、彼氏にぐいぐいこられてちょっと困ってる、って聞かせてくれたけれど、玲王くんはそういうことは全然ない。ぐいぐいこなさすぎてこっちが「私って魅力ないのかも?」って、ちょっともやもやするくらい。キスだって、結局あれから一回もしてないし、二人きりの部屋でもそういう雰囲気にならなかった。リサちゃんの彼氏さんと玲王くん、二人を足して半分で割ったら丁度良いのかな。でも、そしたら玲王くんじゃなくなっちゃうな。ぐるぐる考えながら、昇降口に続く階段を上っていたら、不意に、「俺がいない間も、ちゃんといい子で勉強しろよ?」って、私の部屋から帰るとき、私の頭にぽんって触った玲王くんの手の感触を思い出してしまって、大衆の面前でわあって声をあげそうになって、困った。



「あっ、ねえ、車、来たんじゃない?」

「やった、ラッキー!」



 丁度校舎の影に入った頃、背後から聞こえた歓声混じりの声に、ほとんど反射で振り向く。黒い校門の奥に横付けされたリムジンから降りたその人を、私はこの夏何度も、誰よりも近くで見ていたはずなのに、あんまりにも眩しくて、真っ直ぐ見ていられない。
 玲王くんはいつも、いっとう輝いて見える。
 女の子に囲まれる玲王くんが周囲を見回したのを見て、私のことを探してくれているんだったらいいのになって、過ぎたことを思ってしまった。








「なんか玲王、身体鍛えた?」



 車から降りて早々、声をかけてきた別のクラスの女子生徒に首を傾げられる。



「あ、ほんとだ、足とか腕とか違うかも」

「すごーい、筋トレ? かっこいー」

「あー、まあそんなとこ」



 ありがと、って軽くお礼を言いながら、目はの姿を探してしまう。あいつはこういう、積極的に声をかけてくる女子の中にいることはほぼないけれど、案外遠くからこちらを窺っていたりするのだ。まあ、だからって分かりやすく声をかけたり、手を振ったりもできないんだけどな。は俺と付き合っていることを、誰にも、それこそ友達にすら言いたくないみたいだから。
 は学級委員っていうのもあるけれど、にこにこしていて愛想が良いから、男女問わず人から声をかけられがちだ。正直俺としては、勘違いするやつが出てこないよう先手を打っておきたいところではあるんだけど、本人が嫌だって言うんじゃ仕方ない。畢竟、夏休みが終わった今、俺はまたこれからも「幼馴染みらしい」距離を保って、穿った見方をされないように立ち回らなくちゃいけない。



「おはよー玲王! 久しぶり〜!」

「おー、おはよ」



 方々からかけられる声に笑顔で答えながら、合間に一度目を伏せる。
 正直、窮屈だとは思う。
 本当はに「俺の」って書いた紙を貼っておきたいし、目の届くところに置いておきたい。サッカーのことだけ考えていなくちゃいけない頭の中で、は時折、雑念みたいに纏わり付く。――嫌でも、迷惑なわけでもないんだけどさ。
 ただ、独占欲の塊なのだと知られたくはなかった。
 それでも昇降口へと続く階段で、のものらしき背を見つけたとき、自分でも笑えるくらい、視界が開けたように思えたのだ。
 声をかけるには、その背は少し遠すぎるし、人の波を縫って追いかけるのは不自然だった。見つけられただけでもラッキーか。そう思った瞬間、けれど、背後を気にするように首だけを振り向かせたと、視線が絡んだ。はっとしたように目を見開いたは、すぐに前方に顔を戻したけれど。その様子にじわじわ笑いが込み上げてきて、手の甲で口を隠しながら、こっそり笑う。



「? 玲王、どうしたの?」

「や、なんでもない」



 訝しげに尋ねられながらも、首を緩く振る。
 その後、何か思い直したのだろうか。周囲の目を気にしながらももう一度振り向いたは、迷ったように視線を彷徨わせた後、口の動きだけで「おはよう」って言って、照れくさそうに笑った。瞬間、知らないうちに芽生えていたらしい焦燥のようなものが、その根ごと溶けて消えた気がした。なんつーか、悪くないかもな、と思ったのだ。こんな風に、周りから隠れて通じ合う、みたいなのも。
 おはよ、って声に出して言うわけにはいかなかったから、笑みだけを返す。ぱっと顔を明るくさせたのリュックには、春にはなかったペンギンが、間抜けな顔で揺れている。それだけで、これから先も、正しく歩いて行ける気がしている。


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