一日中と一緒に居たってのに、家に帰っても、ついに連絡しそうになってしまっている自分に気がついて、スマホに伸ばしかけた手を止めた。数時間前まで一緒にいただろーが。戒めるようにそう考えて、行き場をなくした手を自身に引き寄せる。
明日からは本格的にサッカー漬けの日々が始まるよう計画を立ててあるが、元々誕生日の日は一日オフにすると決めていた。だから夜にまとまった時間ができるのも随分久しぶりのことだったのだ。でも、こんな風に隙間ができちまうくらいだったら、いっそ帰宅後に何か身体を動かせるような予定を入れておくべきだったのかもしれない。そっちの方が、きっとよっぽど建設的だったはずだ。こんな風に、変に落ち着かないでいるくらいなら。
食事の誘いを二度断った手前、母さんの前で時間を持て余しているのを見せるのも流石に気まずい(夕食時に帰ってきたものだから、改めて一緒に食事に行かないかと誘われたのだ。サッカー選手になりたいって夢を否定されて以降、両親とはどうしてもぎこちないし、そうでなくても今日のことを根掘り葉掘り聞かされそうだったから、疲れていると言って断った)。クラスメイトや知り合いから届いていた誕生日を祝うメッセージはもう全てに返事を終えたし、まだ寝るには早かった。かといって勉強するのもな。今日に限って言えば、自分が集中できるとは思えなかった。
とは言え時間を無駄にするのも不本意だ。
数秒の思案の末、数学の問題集を開いて、ざっと眺めた。自分のために、っていうよりは、のためだったのかもしれない。しばらくサッカーに染まっていた頭が、に浸食されているのを感じる。悪い意味では、勿論ない。蝕まれるというのとは全然違う、妙に生ぬるい温度と速度でもって、の存在が色濃くなる。つっても、多分今日だけだ。明日になれば、それは再びサッカーに取って代わられるだろう。そういう確信もまた、俺は持っていた。それは優先順位とかそういう話ではなくて、脳の切り替えという意味で。
、この辺の問題苦手だったよな、前に一緒に勉強をしたときも詰まってたし。問題集に目を落としながら、用にと分けている黄色い付箋を貼る。まだ受験まで二年以上あるとは言え、時間は有限だ。ここで躓いていたら、苦手な単元は増える一方だろう。そもそも理数が苦手で、そういう類のものにはなから拒否感を覚えている人間、っていう時点で、の夢ってのはだいぶハードルが高いんだが。
「………………はぁ」
努力してそういうことを考えようとしているってのに、脳裏に浮かぶのは今日の、ベンチに横並びに座ったの顔なのだから、つい眉根も寄ってしまう。
なんつーか、濃い一日だった。
が着ていた白いワンピースはよく似合っていた。ペンギンを前に顔を綻ばせるのも、良かった。ずっとにこにこしていてくれたから、安心した。帰りの車で眠る無防備さも、俺は好きだった。断るばぁやにクッキーを押し付けたのは無理矢理だったかも、って帰り際に心配していたけど、ばぁやは、あれで結構喜んでいたのだ。遊歩道に伸びる影は、いつもの俺達のものよりも長かった。座ったベンチは、昼の日光を吸って、まだ熱を持っていた。バッグからでてきた、ちょっとよれた袋に包まれたプレゼント。俺が打ち明けた夢の話。そして、それから。
もう一度吐き出した息は、思ったよりも大きく響いた。時計の秒針が、やけに耳に付く。デスクに置かれた誕生日プレゼント――の父親の作ったマグカップだ――をちらりと見て、結局付箋を数枚貼ったきり、参考書を閉じてしまう。
。父親同士が学生時代からの親友で、産まれたときからの婚約者、それで、俺の恋人。
今日、とキスをした。
そりゃあ婚約しているんだし、が俺のことを嫌、って言うんじゃなければ、いつかはそういうこともするんだろうなとは思っていた。十五の夏、紆余曲折の末にと本格的に恋人同士という関係性になってからは、「それ」はもっと具体的で、色濃い、一種の欲として俺の隣に横たわっていたけれど。
でも、なんつーか、実際してみると、後からくるもんがある。
一瞬触れただけの唇は、ほとんど掠めただけだったって言っても良かった。汗ばんだの手が、反射でぎゅ、と緩く握られた。丸く見開かれた目は、全然状況を理解できていなくて、だけどその頬が赤くなる頃には、「わ、わぁ……」と放心したような声をあげた。輪郭を失ったように潤んだの目が、光を吸い込んで、きれいだった。
本当は、もう一回くらいしたかったな。
「…………あー」
乱される胸に、思わず言葉を漏らして前髪をかきあげる。
好きだ、と思う。俺を否定しないでいてくれたこと。応援していると笑ってくれたこと。スピードも持久力もジャンプ力も、俺の持つ力がユースの平均値でしかなくても、両親に認められなくても、そこにがいるだけでどうにでもなるような気がしてくる。俺が諦めてどうするんだよ、と思うのだ。だって、自分自身ですら分不相応だって自覚している夢を追いかけているのに。
一緒にがんばろうね、って、帰り際に笑ったを思い出す。が笑うと、肩の力が抜けて、こっちまで笑えてしまうのが不思議だった。ふ、と唇の端が綻んだ瞬間、机の端に置いていたスマホが音を立てる。と一緒に居る間も、ひっきりなしに鳴っていたスマホだ。また誰かから、誕生日を祝うメッセージでも届いたかと視線を落として、それから、今度こそ「ふは」って笑った。「改めてお誕生日おめでとう」って、もう何度目になるか分からない「おめでとう」を、が送ってきたものだから。
「今日は楽しかった! 一緒に過ごせて嬉しかったです。ありがとう〜!」
直後ぽんと添付されたのは、今日が水族館で撮っていたクラゲの動画だ。そういえば、後で送って、って俺が頼んだんだったな。縦長の水槽で、ぐるぐると時計回りに回り続ける無数のクラゲは、やっぱりどう見たって洗濯機の中で回り続ける白いシャツだった。「ペンギンもイルカも可愛かったけど、このクラゲ好きだった! またいつか見に行きたいね〜」って、時間をおいてぱっと浮かぶメッセージに、ほとんど間も置かずに返信する。本当は声が聞きたかったけど、今日はもうからたくさんのものをもらったから、もう、充分だ。
俺も楽しかった。
また行こ、と、短く続けて。
その後返ってきた、ルークにそっくりな犬が旗を振って喜ぶスタンプに、ふ、と息を漏らして笑う。
すぐには無理でも、いつか、少しずつ、いろんなとこに連れていってやりたいと思う。水族館だけじゃなくて、プールも海も花火も、祭りも、空の上でも、買い物でも海外でも、どこだって。全部行き尽くしたそのとき、お互いの夢を叶えられていたら、どんだけ良いだろう。
似たようなスタンプを送り返して、スマホを放った。一度閉じた問題集を、改めて開く。落ちてきた髪が鬱陶しくて、トレーニングをするときみたいに、軽く後ろで括った。
十六の夏。空調の整っている部屋は、それでも微かに夏の匂いがしていた。産まれてからずっとくすんで見えていたありとあらゆるものたちが、今やっと、確かな像として結ばれた気がした。