「ただいまぁ……」
玄関の扉を開けると、お母さんよりも早く、タマが迎えに来てくれる。ぶんぶん尻尾を振って歓迎してくれるタマに、もう一回「ただいま、タマ〜」って声をかけて、手を洗いに行く。
「おかえり〜。どうだった?」
「楽しかったぁ……。ばぁやさんに運転してもらって、水族館に行ってきたの……」
「水族館? へえ〜、よかったねえ〜。ペンギンはいた?」
「めちゃくちゃいっぱいいたぁ。イルカショーも見たよ。あとこれ、お土産、クッキー」
「わ、ありがとう〜。ご飯の後に食べようか。あ、夕飯は食べてないよね? お風呂先に入っちゃう?」
「うん〜、入っちゃう〜」
こんなとこまで遠出したなら疲れたよねえ、とクッキー缶に書かれた水族館名をまじまじと見て言うお母さんに曖昧に返事をし、足元で帰宅を喜んでくれるタマを数十秒ほどわしわし撫でてから(タマには申し訳ないけれど、ちょっと心ここにあらずだった)、荷物を置きに自室へ戻る。お父さんのマグカップと大容量のおかきが消えたバッグは、もう役目を終えたみたいに、ほとんど重さも感じない。
お風呂に入る準備をしなくちゃいけないのに、部屋の扉を閉じると、一人になったっていう安堵から、ほわ、と魂が抜けていきそうになる。何だか立っているのも億劫で、バッグをベッドに放ると、ワンピースが皺になるのも構わず、自分もシーツの上にそのまま飛び込んでしまった。ひんやりしたシーツに顔を埋める。いっぱい歩いたおかげで足がパンパンになっていることが、ようやく実感される。
そうしている間も、頭の中を、色んな物がぐるぐる、奇妙な軌道を描きながら回っていた。玲王くん。洗濯機みたいに見えたクラゲの水槽。ペンギン。いつもの遊歩道。お父さんのマグカップ。夕焼け。サッカーと、それから。
それから。
「わぁ……っ」
思い出してしまって、思わず唇を手で塞いだ。本当は、本当だったら、玲王くんが私に打ちあけてくれた、サッカー選手になりたい、っていう夢について、もっとちゃんと向き合って考えたいって思っているのに、どうしてもそっちじゃない方に頭が持って行かれてしまう。至近距離で見た玲王くんの瞳が、脳からこびりついて、全然離れてくれない。
日中温められていたベンチが、じんわりと熱かった。蝉が鳴いていた。傾いた陽が、木々の葉の隙間から零れるみたいにオレンジ色の光を注がせていた。私の顎を持ち上げた玲王くんの指は、びっくりするくらい優しかった。玲王くんの睫毛、すごく長かった。軽く目を閉じる玲王くんを、私は至近距離で見てしまった。そう、目を瞑るべきだったのだ、私も、きっと。
キスしちゃった。
「うわ〜……!」
ほんとに、触れるだけの、短いやつだったけど。びっくりしすぎて、感触とか、なんにも覚えてないけど。
でも、キス、しちゃったんだ。玲王くんと。
頬に熱が籠もって、思わずシーツに押し付ける。頭が真っ白になっていたせいで、その瞬間のことはもう、全然記憶にない。でも、あれは間違いなくキスだった。少女漫画とか、ドラマとかで見たことあるやつだった。唇が離れた後、玲王くんは私におでこをくっつけて、「やっぱのこと、好きだわ」って言った。私、気の利いたことなんか全然言えなかったのに、でも、玲王くんは肩の力が抜けたみたいに笑ってくれた。それが、泣きそうなくらいに嬉しかったのだ。
胸の内側がふわふわする。小さくため息をついて気持ちを整えてから、サッカー選手になりたい、って言った玲王くんの目を思い出す。私の知らないところで、玲王くんは実はもうそのための計画を練っていて、既にトレーニングを始めていた。有名なトレーナーさんや、栄養士さん、元イタリア代表の監督、そういう世界的にも著名なすごい人たちを集めて、一流になるための特訓をしているんだって。御影コーポレーションの御曹司だから出来ることなんだろう。だけど、使えるものは全部使う、そういう思考でもって動く玲王くんは、それくらい本気で、私から見たら眩しいくらいだった。
これからはもっともっと忙しくなるって。だから、連絡を返すのが遅くなったりとか、あんまり一緒に過ごせなかったりとか、するかもしれないって。デートだって全然、行けないかも、って。それでも時間は作るし、そういうとき、俺に無理をさせているかもしれないとか悩まないでほしい、って、そういうことを玲王くんは話してくれた。無理ではないし、好きだから会いたいんだからな、ちゃんと覚えとけよ、って。私が遠慮しいだから、って、そういうところまで考えて、先回りしてフォローしてくれるところが、気遣いのできる玲王くんらしかった。嬉しくて「うん!」ってにこにこしながら頷く私に「笑うとこじゃねーぞ」って、玲王くんは、呆れたみたいに眉根を寄せていた。
でも、例えあんまり会えなくても、返事が遅くても、私は全然平気だった。私たちは同じクラスだったし、学校が始まったら毎日会えるから。そりゃあ勿論、サッカーをしているってことを知らないままだったら、不安になったりすることもあったかもしれないけれど。夢のために全力で頑張る玲王くんを、かっこいいって思った。
家までの道中、手を繋いで歩きながら、「私もいっぱい勉強するね。玲王くんがサッカー頑張ってる間、私も頑張る!」って言ったら、玲王くんは「ん」って笑ってくれた。玲王くんの姿は逆光になって、目が光に沁みて、ちょっとだけ眩しくて、痛かった。
「一緒にがんばろーな」
好きだなあ、って思ったのだ。玲王くんみたいに、口には出せなかったけれど。
玲王くんが私を思ってくれているよりも、私の方が、絶対、ずっとずっと玲王くんのことが好きだ。やりたいことに全力で、真っ直ぐで、パワフルなところ、尊敬するし、ずっと見ていたいって思う。隣で応援していたいって思う。できることがあるなら、何だってしたい。
「よい、しょ」
寝返りをしてもぞもぞと動きながら、お腹の近くに放り投げていたバッグを引き寄せる。玲王くんとお揃いのペンギンのマスコットを、ショッパーの袋の中から顔だけ見えるように引っ張って、そのまま掲げた。丸い目をした、ちょっととぼけた顔をしたペンギン。大切な、今日の思い出だ。
とっても楽しい一日だった。玲王くんのお誕生日なのに、玲王くんに計画を立ててもらってしまったけれど。そういうのも玲王くんは「俺がしたくてしたんだっつーの」って笑った。時間なんて、あっという間に過ぎ去ってしまった。一緒にクラゲを見て、ナマコとヒトデを触って、ペンギンの鳴き声にびっくりして、二人で並んで、高くとぶイルカを見た。玲王くんと過ごした時間だけ、玲王くんのことが好きになるみたいだった。この感情は、どこまでも天井知らずであるように思えた。
これからもきっと、好きになるばっかりなんだろうな。夏休みが終わって、学校が始まっても。二年生になっても。三年生になっても、高校を卒業しても。
その時玲王くんはサッカー選手になっていて、私は獣医さんになるために頑張っているのかなあ。たった数年先の未来は、全然予想がつかない。
ペンギンの被っている帽子とか、顔とかくちばしとか、いろんなところを無心でなで回していたら、部屋の外から、「、お風呂はー?」ってお母さんに呼ばれて、慌てて飛び起きた。
「はあい、今行くー!」
お風呂の準備をしてから部屋の灯りを消したとき、窓の向こうに目がいった。空は薄い紫とオレンジのグラデーションになっていて、微かに星が瞬いていた。感動してしまうくらい、きれいな、夕焼けと夜のはざまの空だった。