玲王くんは、彼にしては珍しく、何か迷っているような目をしていた。
いつからかって言われると、ちょっと難しい。私が気付かなかっただけで、ばぁやさんの運転する車を降りたときからだったかもしれないし、もしかしたらあの水族館でイルカとか、ペンギンを見ているときからだったかもしれない。ううん、もっとずっと前から、ってこともあったのかも。ただ私が一人、気がつかなかっただけで。
聞いてほしいことがある、って真剣な面持ちで言った玲王くんに、私は最初、すぐには頷けなかった。玲王くんがその前から私に何か話そうとしていることはわかっていたけれど(ざらめ味噌味のおかきで、私が話の腰を折ってしまったときのあれだ)「聞いてほしいこと」って言う言葉があんまりにも改まっていて、戸惑ってしまったのだ。
なんだろう、私、何かしちゃったかな? 反射でそう思うのは、持ち前のマイナス思考のせいだ。だけど玲王くんの顔を見つめ返せば、そういうのではない、もっと別の話らしいってことはすぐに察することができて、それで、無意識に唇を噛んだ。大事なお話なんだ。きっと。玲王くんにかかわる、大切なお話。
「うん。私でよかったら聞きます。なんでも……!」
思わず握りこぶしを作って、深く頷く。悩み事とかだったら、碌なアドバイスもできないかもしれないけれど、私にできることならなんだってしたかった。私なんかじゃ、全然頼りないかもしれないけれど。
隣に座る玲王くんの髪を、橙色に滲んだ光が透かしていた。日は少しずつ落ちてきていて、玲王くんと過ごした今日は、私たちの背中の方に流れていく。それに名残惜しさを覚えないわけでは、決してない。でも、「ん」って笑った玲王くんは、細めた目を開くと、私のことを、視界の真ん中に置いてくれた。それだけで、もう充分であるように思えた。
玲王くんの口から、静かに、溶けるみたいに笑みが消える。さっきよりも伸びている私たちの足元の影が、地面に落ちた葉っぱと重なっている。じりじり、じりじり、蝉時雨の音が、一際大きく鳴り響いている。薄っぺらい胸の隙間を、汗が流れた。玲王くんの双眸に映る私の髪が思ったよりも乱れているのに、こんなときに気がついた。だけど全部全部、気にならなかった。
玲王くんの目が、一度瞬かれる。「」呼ばれたそれは、酷く明瞭だった。
「――俺、サッカー選手になりたいんだ」
玲王くんは、真っ直ぐ私だけを見つめていた。
「サッカー……」
俺の言葉に目を丸くしていたは、やがて、噛みしめるみたいに、恐らくほとんど無意識に、言葉を反芻した。
多分、驚かせてしまったんだろう。そりゃあそうだ。この夏、ワールドカップが盛り上がったって言ったって、は多分、試合を観てすらいない。どこの国が優勝したかも知らなければ、選手の名前だって出てこない。サッカーに馴染みのない女の子に、これまで一度もサッカーの話を振ったことのない、その上特別な経験もないことが明らかな人間が「サッカー選手になりたい」なんて、何かの冗談だと思われたって仕方ない。
客観的に考えれば、だから、俺を否定する両親の気持ちだって分からないわけではないのだ。これまで俺が歩いてきた道から逸れる行為を否定すること、それは、ある意味では間違っているとは言えない。どうしたって、感情を持つ一人の人間として両親の意見を受け入れることはできないけれど。
長い沈黙の後、は、一度、「……ほんとに?」って、俺に確かめた。冗談かどうか疑っているというよりかは、単純に、飲み込むための質問であるように思えた。「嘘なんか吐くかよ」ってちょっとだけ笑って言ったら、は神妙な面持ちで、深く頷く。そのまま視線を下げっぱなしにして、さらに数秒の沈黙を作るものだから、ちょっと胸がざわついた。の性格を考えれば、両親みたいに頭ごなしに否定されることはないだろうとは思ったけれど、それでもやっぱ、多少は緊張していたのだ、俺だって。
でも、それからさらにぐっと落とした視線を、勢いよく持ちあげたは、俺が思っていたのと、全然違う顔をしていた。
「――サッカー選手!」
紅潮した頬、瞳は光でも集めたみたいにキラキラしていて、ほとんど身を乗り出して俺の手を取る。汗ばんで、ぬくい手だった。ぎゅう、と力を込められて、でも、全然痛くない。
「玲王くん、サッカーしてたの? 知らなかった。いつから?」
疑いのない、子供みたいな、真っ直ぐな言葉。前のめりになるに押されるように、僅かにのけぞって「いや……マジで最近」って、考えるよりも先に口にした。なのには、それでも顔色一つ変えない。「最近かぁ」って、納得したように大きく頷くのだ。嬉しそうに、目を細めたまま。
「ひょっとして、夏休み中忙しそうだったのって、サッカーの練習してたから?」
「ん、ああ、そうだな。……トレーニングとか、ちゃんとしたトレーナーの人に頼んで練習してる。やっぱ無理して鍛えてもらってるから、ハードではあるけど」
「トレーナーさん……! すごい、じゃあ本格的に練習してるんだ……! だから最近ちょっと疲れてる感じだったんだね。……あっ、待って、じゃあ食べ物とかも気を付けてる……!? おかき、あげない方が良かった……!?」
「いや、それはもらったんだから食うよ」
「ほ、ほんとに……?」
「ん、ほんとに」
直前まで俺が想像していたのとは真逆の彼女の反応に、ようやく思考が落ち着いたときには、は「よかったぁ」って胸を撫で下ろしていた。
は、否定的なことを一つも言わない。そもそもそういうのを思いつく気配すらないようで、拍子抜けしてしまう。いくらサッカーのことなんか全然分からないとは言え、俺の夢が突拍子もないものであることくらいは想像できるだろうに。
は俺を、この夢を、否定しない。それが不思議だった。
「――無理だって、思わねえの?」
放った言葉は、思ったよりも強く響いた。
が、目を瞬かせる。いつの間にか日は大分落ちかけていて、の顔に落ちる影は、淡く、薄くなっていた。長い睫毛が、不思議そうに瞬く。掴まれていた手の力が、僅かに抜ける。背後の道路を、車が一台、走り抜けていく。視界にチラつくテールランプが遠ざかる。夏の匂いに混じった排気ガスが、溶けるみたいに消えて行く。
は考え込むように、眉根を寄せ、ゆっくりと視線を落とした。「ううん……?」と、自分の中のどこかにある答えを探るように、目線を彷徨わせる。無理、無理かぁ、って、口の中でぶつぶつと呟いて、それから顔を上げた。
そのときが俺に向けて口にした言葉を、俺は多分、ずっと忘れないんだろう。
「無理かもしれなくても、玲王くんはやるって決めたら、やるでしょう?」
真っ直ぐな目だった。曇りも淀みもない、ただ光の粒子を集めた目だった。
「私、ほんとにサッカーについて無知だから、実際に今から本気でサッカーを始めて選手になれるかどうかとか、全然わからないんだけど……。でも、私、玲王くんがやるって決めたこと、応援したいよ。隣で応援させてくれるんだったら、こんなにうれしいこと、ない」
繋がれた右手に、もう一度緩く力が込められる。
「私の夢が叶うよう応援してくれてる玲王くんの夢、私が応援しないわけないよ」
の瞳は、ずっと熱を帯びていた。俺と同じ物を、見てくれている眼だった。それに救われないわけは、なかったのだ。「あ、待って……でもそれだと私とあんまり会ってる場合じゃないよね……? 練習したいもんね。邪魔にならないようにするから、サッカー優先してね……!」想像していた通りの言葉を口にするの手を、ぎゅ、と握り返す。その時俺は、ほとんど物を考えていなかった。それはもう、本能みたいなものだった。
の手を、こちらに寄せる。「わ」と僅かにバランスを崩したの顎に手を添えて、軽く持ち上げた。見開かれた目に、自分の顔が映っている。さっきまで見えなかった俺の表情は、今、ほんの少しだけ歪んでいた。抑えきれなかったのだ。何もかも。
「れ」
名前を呼ぼうとしたらしいの唇を自分のそれで塞いだ瞬間、の身体がびくりと跳ねた。
夕暮れの、人気のない遊歩道。蝉の声は煩いくらいだった。薄く色を変えた空に、幾つか星が瞬き始めていた。
触れるだけの、短いキスだった。感触も、温度も、良く分からないくらいの、ささやかな。
顔を離せば、は放心したまま俺を見上げている。やがて掴まれていない方の手を、確かめるように自分の口元にやった。理解したのは、それからなんだろう。一瞬で目を潤ませ、頬を染め、「わ、わぁ……」と漏らしたが面白くて、つい笑った。
一人でも、俺は立てる。の言う通り、無理かもしれなくても、それでもやるし、やれる。でも、お前がいてくれていると思うと、それだけで身体が軽くなるのだ。
顔を赤くしたままのの額に、自分の額を押し付けた。短いため息の後、「やっぱのこと、好きだわ」って考えるよりも早く呟いた言葉によっぽど動揺したのか、「んんッ……!」と、太い咳払いをしたに、もう一度声をあげて笑った。